トップへ

フランスの“団地”を舞台にした、新たな群像劇ーー『アスファルト』が物語る日常の奇跡

2016年09月08日 19:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『アスファルト』(c)2015 La Camera Deluxe - Maje Productions - Single Man Productions - Jack Stern Productions - Emotions Films UK - Movie Pictures - Film Factory

 この不思議なタイトルのフランス映画は、ひんやりとした透明感に満ちていて、どことなくおかしくて、じんわりと優しい。まるで心の湖にひとつの小石を投じたかのように、その波紋は静かに、そしてささやかではあるが確実に、幸福感を広げていく。


参考:似ているようで似ていない!? 『ターザン:REBORN』と『ジャングル・ブック』を比較


 舞台は郊外にある古びた団地。敷地の端っこには重機や崩れかけたコンクリートが散見されるから、おそらく老朽化と住民の減少が相まって一部で取り壊しも始まっているのだろう。


 住民たちは壊れかけのエレベーターの交換費用の分担について話し合い、たった一人だけ支払いを渋った中年男性は、思いがけない運命のいたずらによって車椅子の生活を強いられることになる。別のフロアでは落ちぶれた女優と青年とが心を通わせ、また別の階ではアルジェリア系移民の女性のもとになぜか宇宙飛行士が舞い降りてくる。外から見れば似たような窓やベランダが並んでいる画一的な空間のように思える。しかしいざカメラが室内に入ると、多様な人々の暮らしや息遣いがそこには濃密に広がっているのである。


 これを“団地映画”と呼ぶ向きもあるかもしれない。是枝弘和監督の『海よりもまだ深く』(16)や阪本順治監督の『団地』(16)など、このところ日本でも団地を題材とした映画が数多い。限られた敷地内において人々を効率的に、かつ経済的に住まわせることを目的とした団地は、舞台が日本であれ、フランスであれ、一つの時代やライフスタイルの象徴として根付いてきた。古くは小津安二郎の『お早よう』(59)や『秋刀魚の味』(62)などでも効果的に使われていたことが思い出される。


 仮にこれが活気あふれる団地であるならば、それはそのままダイナミズムの象徴ともなろう。が、場合によっては扉を閉ざし、互いのことを全く知らないまま、匿名性の中で生きることも可能といえば可能。つまり団地のどのような側面を切り取って見せるかによって、映画の語り口や描こうとするジャンルは大きく変わる。それゆえヒューマンドラマやサスペンス、それこそジャパニーズ・ホラーにだって団地はたびたび登場し幅広い表情を見せつけている。


 では、この『アスファルト』の場合はどうか。ここでサミュエル・ベンシェトリ監督が試みたアプローチがとても興味深い。そこではまるで任意に抽出したかのような3つのエピソードを交互に展開させ、2名×3、計6名の孤独な登場人物たちによってストーリーを織り成していく。強いて言うなら、団地映画と群像劇のミクスチャーがこの映画の特徴である。


 思えば、名作『グランド・ホテル』(32)によって群像劇の代表的な手法である“グランド・ホテル方式”が確立されたことは誰もが知るところ。多様な職業、出身、性別、年代、身の上を持った人々を同じ“まな板”に乗せてその人生を交錯させるのがこの手法の試みだったとするならば、同様の群像劇を“団地”において孤独と出会いの物語として炸裂させるという着想は、私の目にとても現代的なものとして映った。だってグローバル化が進むにつれて人々が孤独を深めていくという状況は確実にあるし、その状況を皮膚感覚として表現するのに個々の細胞が寄り集まったような団地という存在を用いるのは、まさに絶妙な業に思えたからだ。


 家族連れが住んでいてもおかしくない団地なのに、ここに登場する人々はなぜか皆が一人ぼっち。しかし、そんな心の隙間を埋めるように、どこからともなく誰かが迷い込んできて、そこで人生の迷子どうしの運命的な出会いが起こる。一人きりで完結するはずだった暮らしに、徐々に別の角度から光が注ぎ込み、いつしか相手はかけがえのない人となって、その人が笑ってくれれば、喜んでくれれば、何かを感じてくれればそれが自分の幸せだと感じるようになる。突拍子もない出会いもさることながら、彼らが変わっていく過程が穏やかで、おかしみに満ちているのも、本作のたまらない面白さと言えよう。


 とはいえ、団地映画『アスファルト』において群像劇を展開するとなると、これまたユニークなアイディアを駆使しなければ、孤独な細胞壁を突き破って互いの出会いを巻き起こすことなど到底できやしない。そこで個々をつなぐ接続詞的な役目を果たすのが“乗り物”の存在だ。


 本作ではやたらと乗り物が登場する。まずは壊れかけのエレベーターが上階と下階をつなぐ(そしてよく止まる)橋渡しとして存在し、一方、青年はアスファルトの上を自転車で駆け巡り、かと思えば中年男はウォーキングマシンから車椅子へと華麗な乗り換え技を披露してみせる。さらに同じ頃、宇宙ステーションではこれまた孤独な宇宙飛行士がウォーキングマシンでトレーニング中。そしてどういうわけか彼は地球帰還用のポッドにて団地の屋上へと不時着してしまう。かくして各々の乗り物の“気まぐれ”に導かれるように、登場人物の思い通りにならないところにやがて希望が生まれ、笑顔の花が咲き始める。序盤は下へ下へのベクトルが顕著だが、終盤はそれが上昇気流となって上を目指す。そんな動線のあり方も実にすがすがしい。


 当初、彼らを隔てていた距離はきっと、宇宙空間と地上のステーション以上のものだったにがいない。そんな彼らがいつしか互いの心の扉をたたき合う楽しさ。かけがえのなさ。彼らは全く接点がない者どうしだからこそ心を通わせことができたのかもしれないし、あるいは胸の内側では、いつか誰かが扉を叩いてくれるのをずっと待ち続けていたのかもしれない。


 単なる群像劇でも、団地映画でも、乗り物映画でもなく、その全てが絶妙に絡まりあって物語を紡いでいるからこそ、本作は唯一無二の味わいとなって観る者を惹きつけて離さない。ぜひこの名作を見逃さずに劇場へと足を運んでいただきたい。一つ一つのセルが寄り集まったような客席に腰を下ろしながら、日常というものがいかに小さな奇跡の連続なのか、深く気づかせてくれるはずだ。(牛津厚信)