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遺産狙いの悪行がなぜ説得力を持つのか? 『後妻業の女』が描く人間の欲望

2016年09月05日 17:51  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「後妻業の女」製作委員会

 寝っ転がって大福でも食べながら、見るつもりのなかったTVドラマをぼんやり眺めているとき、ごくたまにドラマの内容にハッとして、画面の前に釘付けになり、ラストの主題歌が流れる時分には正座までしているということがある。私にとって、例えばそれは、池広一夫監督の作品だったり、佐々木昭一郎作品だったり、鶴橋康夫作品だったりする。とにかく通常の作品とは、何かが決定的に異なるのである。


参考:『君の名は。』はなぜ若い観客の心をとらえた? 新海誠の作風の変化を読む


 以前SNSで、ある映画について「人間が描けていない」と書いたら、見知らぬ人から、それは古臭くて陳腐な価値観だといった意味の揶揄を受けたことがある。では、仮に「人間を描く」ことが古臭くなっているとして、それに代わり得る新しい価値とは何なのだろうか。そして、ここで私が反発心を感じてしまう原因は、この価値観が軽視されている時代の空気にこそあるのではないかと思い至るのである。


 映画界からTVドラマに進出した監督に、木下惠介や増村保造がいる。また、TVドラマ界を席巻した向田邦子や山田太一という脚本家がいる。作品を見ると分かるように、彼らは紛れもなく、それぞれのアプローチによって「人間を描く」という目的を意識し、そのために研鑽を積み精進していたことは確かである。少なくともこのとき、この言葉は陳腐なものとしてとらえられてはいなかったはずだ。そして鶴橋康夫監督は、やはりその約束事のなかにいる作家だと感じるのである。彼らの作品を目の前にして、思わず姿勢を正してしまうというのは、まさに人間を描こうとする信念に圧倒されるからである。そして、その描写の深さや鋭さに、頭の先から足先まで痺れさせられた経験のある者なら、「人間を描く」という言葉が何を意味するのかということが理解できるはずだ。


 鶴橋康夫は長年の間、TV界で質の高い社会派ドラマを手がけ、数々の賞を獲得してきたことで 「芸術祭男」の異名をとる監督だ。彼の作風を端的に表現するなら、人間の欲望や情念を赤裸々に映し出し、心理の奥の奥まで踏み込んで、その常軌を逸する行動の理由を見る者に納得させ、深く共感させてしまうというものである。


 例えば、同性愛の果てにカニバリズムまで到達してしまう『魔性』(84)や、援助交際と報道機関の闇を扱った『砦なき者』(04)、不倫と殺人を描いた映画デビュー作『愛の流刑地』(07)など多くの作品で、ワイドショーのネタになったり、週刊誌で面白おかしく取り上げられるような性質の事件を、モチーフとして扱っている。それらニュースや記事を見て、常識的な人々は「異常だ」とか、「こうはなりたくない」などと言う。鶴橋ドラマは、そのような異常と正常の間の壁に風穴を開け、私たちを「あちら側」へ連れていってしまう。そこに、ドラマを見ることの、ひとつの本質的な楽しみや充実感があるのだ。


 本作『後妻業の女』も、何人もの高齢男性に近づき、あらゆる方法で次々に遺産を奪っていくという異常な行為を描いた作品だ。大竹しのぶ演じる、プロとしての「後妻業」を営む女と、豊川悦司演じる、彼女を資産家の高齢者に斡旋することによって分け前をせしめる結婚相談所の経営者が、大阪を舞台に欲望の限りを尽くしていく。


 このあさましく過激な人間模様や犯罪劇は、原作小説の雰囲気を改変し、コメディータッチで描かれる。これが『ゲット・ショーティー』や『ジャッキー・ブラウン』など、エルモア・レナード原作映画のような、日本映画離れした洒脱な印象を与える。詐欺行為をしながらたくましく生き抜く大竹しのぶは、和製ジャッキー・ブラウンを連想させ、豊川悦司はこれらの映画のジョン・トラボルタやサミュエル・L・ジャクソンが演じたような、ヤクザな伊達男である。


 大竹しのぶの演技は圧巻だ。彼女が年配男性を惹きつけるために「ツイスト」を精力的に踊りまくる冒頭のワンシーンから、その圧倒的存在感に釘付けになる。「読書が趣味で、得意料理は鯖の味噌煮です♪」とアピールする、高齢男性にとっての理想の後妻モードから、遺族に対して遺産の権利を主張する銭ゲバモードに移行する豹変ぶりがあまりにも見事で、笑いながらも戦慄させられてしまう。彼女が、尾野真千子演じる気性の強い遺族と、焼肉屋でつかみ合いのバトルをする名シーンは素晴らしく、成瀬巳喜男監督の暴力を振るう女を描く名作『あらくれ』すらも連想させる。ちなみに尾野真千子は、鶴橋ドラマ『松本清張~坂道の家』(14)では、チップを払うごとに胸元のボタンを外していくという妖艶な理容師を演じていた。


 豊川悦司演じる悪徳実業家と樋井明日香演じる愛人との絡みは見どころだ。店でお茶を飲みながら、高齢者から巻き上げた金で「ようし、今日はお前にTバックの下着を買ってやろう」と宣言する、バブル期かと思わされる無茶苦茶な異様さ。また彼女が豊川の顎から鼻先までをベロン!と一気に舐め上げるシーンをスローモーションでとらえる鮮烈さ。ワンカット、ワンカットが、普通の日本の映画やドラマでは見ることのできない、下品な猥雑的精神に満ちている。 セックス描写など直接的に過激な部分はそれほど多くはないが、その燃えたぎるような精神にこそ、本質的なエロティシズムが宿っていると感じられるのである。


 彼らの悪行が描かれていくうちに、同時に被害者たちの欲望も露わになってくる。本作の登場人物たちは、騙す側、騙される側も含めて、男も女も全員が、人間の持つ本質的な欲望に振り回されている。そのドラマを追うことで、死期の近い高齢者の遺産と引き換えに、ふたまわりも若い女性が付き添って、死ぬまでに「一時の夢を見せてあげる」という行為自体は、そこに犯罪が絡まない限りは、ひとつの「商取引」として理解できると、次第に思わされていく。自分たちにとって不利な遺言書を作成されたことで、相続するはずだった財産を根こそぎ奪われた遺族たちは当然怒り狂うが、彼らに対して大竹しのぶ演じる女が言う、あんたらが私ほどに、死に行く者に満足を与えることができるのかという主張は、たしかに一理あると感じてしまう。いや、一理あると説得させられてしまう力がドラマにあるのだ。


 人間同士が欲と情念と狂気に駆られながら絡みあい、つかみ合い、騙し騙されながら、本音をぶつけ合う様を見せつける、本作における悪意の徹底ぶりには、とにかくひれ伏さざるを得ない。全てのシーンに人間の本質的部分を垣間見せようとする容赦ない描写は、19世紀フランスの文豪バルザックによる悪漢小説を読むようでもある。ここまでやってこそ、「人間が描けている」と言えるのである。(小野寺系(k.onodera))