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MIYAVI、挑戦し続ける理由を語る「自分自身にスリルを感じながら生きていたい」

2016年08月31日 20:41  リアルサウンド

リアルサウンド

MIYAVI(PHOTO BY MASAYOSHI SUKITA​)

 MIYAVIが1年4カ月ぶりとなるニューアルバム『Fire Bird』をリリースした。昨年春に発表された前作『The Others』から海外に拠点を移したMIYAVIだが、今作ではよりグローバルな作風で、ロックやダンスミュージックなどさまざまな要素を飲み込んだ、今のMIYAVIにしか作りえない独特な1枚に仕上がっている。


 海外での活動が彼に何をもたらしたのか。このインタビューではMIYAVIが海外進出後どのように戦ってきたのか、そこからどうやって今回の作品に到達したのかが赤裸々に語られている。今作で彼が目指したという「カリフォルニアロール」の真意を、ぜひこのテキストから感じ取ってほしい。(西廣智一)


(関連:MIYAVI、「Piaget Polo S」発表イベントで「Fire Bird」を熱狂パフォーマンス


■「相撲を学びに日本に来るのと、ロックしに海外に行くのは一緒」


──MIYAVIさんがロサンゼルスを拠点に活動するようになってから、数年経ちましたよね。


MIYAVI:ちょうど2年ですね。


──海外を拠点に活動していると、日本を拠点に活動していたときとは見えてくるものが変わってくるんでしょうか?


MIYAVI:変わりますね。やっぱり日本から見る世界と、世界の中で見る世界って違っていて。あとは単純に旅していくのと住むのとの違い……言葉、文化、生活様式、教育、グルーヴ、食、気温、湿度、天候、そのすべてが違う環境の中で、改めて自分のアイデンティティみたいなものを感じることも多くて。もともと自分は英語で苦労して、今でも苦労するタイミングがあるので、そういう部分で子供たちにちゃんとインストールしてあげたいという思いもあって。グローバルな社会で何が起こっていて、どういうふうに世界に自分がコミットしていくのか、その基盤をちゃんと学ぶ機会を与えてあげたいなというのも移住の理由のひとつでした。もうひとつはクリエーション。俺たちから見たら海の向こうの出来事だけど、そうじゃないんだよね。実際、ジャム&ルイス(※2014年発売のシングル『Real?』を手がけたプロデューサーチーム)とやらせてもらったときも、ジミー(・ジャム)もテリー(・ルイス)もすげえ熱い人たちで、スタジオにも普通にグラミーのトロフィーとかたくさんあるわけですよ。そこで起こっていることを肌感覚で感じることの意義というか、それを求めて移ったんですけど、いろんな勝手の違う中で親としての責任、そしてアーティストとしての責任、そこが想像よりも遥かに大きくのしかかってきて、やっぱり最初はつらかったですね。


──そういう大変さがあったと。それこそ2000年代以降はインターネットが普及したことで、日本にいても海外で起きていることをリアルタイムで知ることができるようになりましたが、やっぱり現場で肌感覚で感じることが大事なんですね?


MIYAVI:そう。もともと自分自身がそういうテクノロジーの恩恵を受けて、気がつけば地球の裏側のブラジルに自分のファンコミュニティがあって、そこに何千人もいたりする。そういう部分は今の時代ならではのつながり方なんだろうし、クリックひとつで世界中の人たちとつながれることの素晴らしさがあると同時に、そこに対する責任感も生じる。だって自分の何気ない一言が世界中に広まるわけでしょ?


──そうですね。


MIYAVI:じゃあこの中でどうやって自分の作品とメッセージを世界中に届けられるのか、と。今までは内需ばかりだったけど、外需を見たら今は非常に面白い時代だと思うんです。例えばハワイやモンゴルから相撲を学びに日本に来る外国人の力士がいるじゃないですか。一緒なんですよ、僕がロックしにアメリカに行くのも。やっぱりそこで生まれたもの、そこのルーツを感じることによって、改めて「自分とは?」「MIYAVIとは?」っていう部分をもっと日本人として、アジア人として意識することができるんです。もちろん勝手も違うしテンポまで違うんで、正直つらい部分もある。BPMなんて5から10ぐらい落ちるんじゃないかな。そういう意味でも、リズムのポケットやグルーヴの谷間を楽しむという文化も含めて、日々学んでます。


■「若手とセッションをする中でカリフォルニアロールを作りたい」


──前作『The Others』と今作『Fire Bird』をいちリスナーとして聴いたとき、「日本だから」とか「海外だから」とかそういうことを感じさせない、そして何かにカテゴライズされない、純粋に楽しい作品だなと感じたんです。


MIYAVI:嬉しいですね。良くも悪くも日本臭さというものをどうアレンジするかは、魚を調理するときにお酒を入れたりみりんを入れたりするのと一緒だと感じています。あとは音楽的なアナロジーでいうと、カリフォルニアロールがひとつのキーワードでした。


──お寿司のカリフォルニアロールですか?


MIYAVI:そう。今回は若いソングライター、特に20代前半のソングライターたちとたくさんセッションをしたんだけど、ジャム&ルイスとかドリュー&シャノン(※前作『The Others』を手がけたナッシュビルのプロデューサーチーム)とか大先輩から学ぶこととは違っていて。どちらも刺激的ではあるんですけど、今回は若手とセッションをする中で、また沢山の発見がありました。そして今、MIYAVI が作るべきものはカリフォルニアロールなんだ、と。それが今のMIYAVIの、第何章かはわからないですけど、このタイミングでの使命だと思っているんです。僕はワサビもシャリも海苔も持ってるけど、アボガドは持ってない。そのアボガドというのがグローバルなミュージックの視点でのメロディ感覚だったりグルーヴだったり、言語の響きであったりして、ある種臭みを消すブリッジになる部分なんです。


──なるほど。


MIYAVI:僕はカリフォルニアロールをマジな寿司だとは思わないし、そもそも食べないけど、あれが日本文化を広めるに当たって残した功績は大きいと思うし、そこはしっかり評価した上で、解析すべきだと思うんですよね。あれをクッションにして寿司がこれだけ世界に広まったという。俺はこれまでスラップを通じて、ある種、ワサビで勝負してきたんですね。インパクトでいうと皆、「なんだこれは!?」とインパクトとオリジナリティはある程度あるんだけど、じゃあそれを朝昼晩食いたいかというとそうではないじゃないですか。コンシューマー(消費者)に「もっと食べたい!」と言わせて初めて勝ちというか。そこで今は、アボガドの分量をアジャストしながら、新しいオリジナルロールを作ってる感じなんです。前作の『The Others』では、パンで巻いちゃったりケチャップを付けちゃったり、もっと試行錯誤してたんですけど、今作でようやくカリフォルニアロールの形になってきたかなと。各曲ともアボガドの分量は違うんですけど、やっと寿司っぽくなってきたなというのはありますね。


──そのへんが今年に入ってから掲げているテーマ「NEW BEAT, NEW FUTURE」につながっていくと。今回このテーマを掲げて活動していこうという理由は?


MIYAVI:断片的に曲を作っていく中で、どの曲も「解き放つ」というマインドが共通していて。「心さえ折れなければ何度だって飛べる」っていう、その不屈のスピリットみたいなものは一貫してあった上で、今作の全体像がだんだんと見えてきたところで、これがこのアルバムのテーマとしてぴったりだと思ったんです。


■「ギターの持つ衝動を、この現代にもう一回取り戻したい」


──前作は「洋楽と和の融合」というイメージが強かったですが、今作ではそこからさらに一歩踏み出した内容になっていますよね。


MIYAVI:はい。だから前作はパンベースの作品なんですよね。米がなかったんで。だから今回は米とかしょう油とかいろいろ持ち込んで作った感じ。プロデューサーのレニー(・スコリニク)もすごい働き者で。日本人より働くアメリカ人というのを初めて見ましたね(笑)そして、当の俺自身よりもMIYAVIのことを信じてくれている。俺より熱いですから。彼だけじゃなくて他の若いライターも含めて、今の流れ、どこに向かっていくべきなのかっていうのを意識しながら作れた。「NEW BEAT, NEW FUTURE」というテーマに関しても、やっぱり時代ってビートとともに変わると思うんですよ。結局人って踊りたいんですよね。歌いたくて、踊りたい。日々嫌なことやつらいことがあって、それを外に吐き出したいんですよ。ある種排泄行為やカタルシスみたいなものなんじゃないですかね。


──確かにそういう側面はありますよね。


MIYAVI:そこで、音楽を供給する側としてはしっかりとした栄養素を入れたい。あとはビート感……さっきも言ったように、ビートがその時代を作ると言っても過言ではないぐらい、結局ビートなんですよ。ジャズでもロックでもヒップホップでもR&Bでも、全部そこなんですね。そこで今回、トラップビートとかフューチャリスティックなガレージサウンドを入れてみたんです。新しいビートを感じられると、おのずと“NEW FUTURE”が見えてくるというか。


──例えば、年齢的な差で出てくる曲のアイデアやメロディの要素は変わってくるものなんですか?


MIYAVI:世代的な差は確かにありますね。聴いてきた音楽も違うし、もっと言えば、ターンテーブルを回したことのないDJもいるわけじゃないですか。うちの子供たちだって雑誌代わりに、普通に(スマホやタブレットを)フリックして、SkypeとかYouTubeとかで情報を得るようになってる。何が正しいとかではなくて、その時代の中でどうクリエイトしていくか、サヴァイヴしていくかってことだと思うので、そういう意味で僕も新しい世代のギタリストとして、今までのやり方、今までギタリストとして当たり前だったことを踏襲しないというか、ギターの弾き方、奏で方、使い方ひとつにしても邪道と言われても関係ない。もしかしたら、他のギタリストからしたら俺はギタリストじゃないのかもしれない。けど、そんな固定概念なんてクソ食らえだし。現に今ってギターミュージックが鳴ってないじゃないですか。


──確かに。


MIYAVI:いいバンドはたくさんいるんですよ、ALABAMA SHAKESとかTAME IMPALAとか。でもギターミュージックかと言われると、俺の思うそれとはちょっと違う。俺はギタリストとしてギターという楽器の持つ衝動を、この現代にもう一回取り戻したいんですよね。それがある種ギタリストとしての責任だとも思ってます。


■「俺が歌わないほうがその曲が映えるんであれば、それでよくね?」


──その意志は、このアルバムを聴いたときに強く感じました。ギターをひとつの素材にして、そこから新しい音楽を作っていこうと実践してるなと。


MIYAVI:でもまだまだ進化の途中だと思います。この作品を通じてまた幅が広がって新しい引き出しを作ることができたと感じています。なによりやっぱり、今作ではギターで歌うことができるようになったというのがすごく大きくて。今まではどちらかというとスラップでの縦のアプローチが多かったんですけど、今回はメロディを奏でる、ギターで歌うということにチャレンジできた。ある種その一歩を大きく進められた作品になったんじゃないかなと思います。


──なるほど。あとメロディに関して言うと、歌という部分においても必ずしもMIYAVIさんが歌わなくていい曲も増えましたよね。そこもかなり新鮮でした。


MIYAVI:もう、そこどうでもいいやと思って(笑)。別にそれ前提で作らないくていいというか、他の表現で完結できるんだったらそれでいいかなと。もちろん歌いますし、叫び続けますけど、歌い手のそれと比べたら表現力の差っていうのをどこかで感じてしまうんですね。でもある種コンポーザーとしては、演者の能力でその楽曲のポテンシャルを制限したくない。シンガーとしては歌いたいですよ。自分の声で、自分の言葉で表現したいという気持ちはあるんだけど、まずは「なんのために音楽をやってるの?」と。「メッセージを伝えたいんでしょ?」と。極論はそこで、コンポーザーやプロデューサーとしての視点で見たときに、「俺が歌わないほうがその曲が映えるんであれば、それでよくね?」っていう。そこらへん頭を切り替えていかないと、いつまで経っても世界を変えられないし、古い世界にいたままだと思う。特にギターミュージックはそのフェーズに10年くらい前から突っ込んでるんですけど、もうそろそろ次、行かないとダメですよね。


■「僕にとってはチャレンジし続けることは娯楽」


──このアルバムはギタリストが作ったアルバムというよりもいちアーティスト、いちプロデューサーが作った、音楽やメッセージをシンプルに伝えるための作品という気がします。そういう意味では、歌詞もよりシンプルになってきてますよね?


MIYAVI:そうかもしれないですね。喋ってる感じでいい。そうじゃないと響かないし。結局僕たちって指導者、啓蒙する側だったりもして、そういう意味でも難しい言葉を使ったところで届かなければ意味がないので。深い言い回しはいいんだけど、録り方も音の作り方もトラディショナルな方法があるわけじゃないですか。そこに対してのリスペクトはあるんですけど、新しい時代の子供たちにも響く音楽を作るときにはそこに固執している暇はないなと思って。だから全部ぶっ壊してやりたいなと思う。


──なるほど。アーティストとしてはすごく正しいやり方だと思いますよ。


MIYAVI:いやいや。ファンが求めるものを供給するというプロとしての役割を忘れがちになることがあるんですけど、次のステージに連れていくという責任もアーティストにはあると俺は思うんです。それは子供に対しても一緒で、「子供が甘いものを食べたいと言って食べさせてばかりいるのが果たして子供に対していいことかどうか」を考える責任が俺たちにはあるんですよ。甘いものを与えればたくさん集まりますし、聴きやすい音楽を作っていれば喜ぶ人も多いんでしょうけど、それではオーディエンスの人生にとって、ただアーティストの音楽に依存するだけで終わってしまう。僕はそれを良しとしたくないし、自分自身も自分自身にスリルを感じながら生きていたいし、ドキドキ、ワクワクを失わずに生きていたい。なので、こういう新しいことにチャレンジするのは僕の人生にとっても大事だし、僕を応援してくれる人たちにとってもどこか意味のあることであればいいなって思う。それがソロアーティストの醍醐味でもあると思うし、僕にとってはチャレンジし続けること自体がエンターテインメントというか人生の娯楽なんですよね。


■「もっとでっかい景色をたくさんの人と共有したい」


──9月には全国ツアー「NEW BEAT, NEW FUTURE」もスタートします。ちょうどアルバム初回限定盤の付属DVDに「Introduction to “NEW BEAT, NEW FUTURE”」と題したスタジオライブ映像が収められていますが、ああいう世界感が期待できるライブになるんでしょうか?


MIYAVI:そうですね。ああいう、フューチャリスティックかつエモーショナルなものにしたいなと思ってます。今回ヴィジュアルに関してはファンタジスタ歌磨呂くん、ビデオのディレクションはモニカ(・バイエルスカイト)という偶然マリブで知り合ったクリエーターがやってくれていて。あと照明やレーザーはYAMACHANGが担当しているんですけど、本当にチームですよね。今まではBOBOくんと2人でどれだけ肉体の限界に挑めるかやってきたけど、そろそろ次に移行しようと。例えばオーディエンスが5万人いたとして、ステージ上でやってる足元のループマシンでの作業に気づいて評価してくれる人はその中で、たぶん5人ぐらいだと思うんです(笑)でも、もうそこじゃないなと。あとの4万9995人は単純に音楽を感じたいんですよね。それを感じさせるためにはどうするかっていう話なんですよ、単純に。


──そういう意味では、今作ではひとつの作品をいかにしてリスナーのもとまで届けるか、その手段としてアートワークや映像などを駆使している。それを大勢の人たちで作っている印象が、今まで以上に強まってる気がしました。


MIYAVI:確かに。でも人に委ねられることのありがたさと同時に、そこに信じられるものがないとそれは無理だし。共有できるマップがないとそれも無理なので、もっとでっかい景色をたくさんの人と共有したい。それはファンに対しても一緒で、どんどん大きくなって同じ景色が見られるようにしていきたいなと思います。


──そこを委ねられる仲間たちというのは、MIYAVIさんと共通点や共有できる何かがあるんでしょうか?


MIYAVI:みんな前しか見ていないところは共通している。あとは、みんな孤高を恐れない。だからチームなんだけど、それぞれは個なんですよ。ただ実際にマップだけは共有できてるから、同じ速度感で進めるし一緒にいられる。BOBOくんにしてもレニーにしても、俺たち別になあなあでやりたいから一緒にやってるわけじゃない。お互いにやっていて刺激を受けて、かつ未来を感じられるからやっているわけです。


──先ほど「もう次を見ている」とおっしゃいましたが、MIYAVIさんが考える次のステップについて、今はどういうものをイメージしていますか?


MIYAVI:それはまだ言えないですね。でもワンワードだけ言うとしたら、「Simplicity」かな。


──その言葉をヒントに、今後の展開を楽しみにしています。その前に、まずはこのアルバムがどう届くかですよね。個人的にはこのアルバムは日本だけじゃなくて、世界中で鳴っていてほしいと思ってます。


MIYAVI:俺もそこしか見てないので。海外という意味では、すでに何曲か英語バージョンとか違うバージョンを録っているので、虎視眈々と準備しています。あと、海外の「Spotify」のいくつかのプレイリストにも『Fire Bird』が入っています。先日たまたま「Spotify」を聴いてたら、突然『Fire Bird』が流れてきて。他の音楽に全然負けてないと思う。もっともっとガチでいきたいなと思ってます。