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高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第10回 新海誠「君の名は。」の句点はモンスターボールである―シン・ゴジラ、Ingress、電脳コイル

2016年08月28日 18:52  アニメ!アニメ!

アニメ!アニメ!

イラスト:mot
■ 高瀬司(たかせ・つかさ)
サブカルチャー批評ZINE『Merca』主宰。ほか『ユリイカ』(青土社)での批評や、各種アニメ・マンガ・イラスト媒体、「Drawing with Wacom」でのインタビューやライティング、「SUGOI JAPAN」(読売新聞社)アニメ部門セレクターなど。
Merca公式ブログ:http://animerca.blog117.fc2.com/

■ 新海誠『君の名は。』の句点はモンスターボールである――シン・ゴジラ、Ingress、電脳コイル

社会学者の鈴木謙介は『ウェブ社会のゆくえ――〈多孔化〉した現実のなかで』(NHK出版、2013年)で、多孔化した現代社会における他者との共生関係について論じている。「現実の多孔化」とは、「現実空間の中にウェブが入り込み、ウェブが現実で起きていることの情報で埋め尽くされる」(12頁)ような「現実空間に情報の出入りする穴がいくつも開いている状態」(同前)のことを指す。

わかりやすくは、友人との会話中に、ソーシャルメディアで別の友人の近況を知り、仕事のメールを送受信することが当たり前となった、あるいは「ウェブは既に(というより始めから)現実空間と区別の付かないものになっており、それゆえに、ウェブで起きていることだけを独立して論じたり、あるいは現実はウェブよりも重要で優先されるべきものであるという前提に立って議論したりすることが、もはや無意味になっている」(11頁)現代における、現実とバーチャル(というもう一つの現実)との折り合いのつけ方のことだが、(2010年の構想時には拡張現実/ARをテーマに想定されていた)本書がそうした現状の先に問うのは、(神戸という土地に阪神淡路大震災後に移り住んだ立場から)東日本大震災を受けて「その場所がどのような場所で、どのくらいのリスクを抱えていて、かつてどのような被害を受けたのかということを、私たちが忘れないようにしなければならないという課題」(13頁)であり、そして「空間の情報化が〔…〕社会の分断を招く一方で、その特性を活かして多様な人々の間を取り結ぶような「情報」で、意味的に分断される空間をハッキングするという課題」(17頁)である。

震災をもとにとらえ返される「場所(空間)」と「情報」と「記憶」。
新海誠監督による2016年8月26日公開の劇場アニメ『君の名は。』は、まさにこのような問題へと踏みこむ作品ではなかったか。

もちろん当連載における文脈においては、ゲームのOPというMV的な出自を持ち、岩井俊二の美意識とも共振しつつ、自らが(ビデオコンテや背景美術以上に何より)コンポジット(撮影)というプロダクションの最終工程(および編集というポスト・プロダクション)を担当することで映像をコントロールし、映画館での上映ではなくスマートフォン/タブレットでの視聴を想定した作品制作を試み(『言の葉の庭』)、また自作に対して「アニメ/映画」ではなく「ムービー/映像」【注01】と語ってきた新海誠は本来、いわゆるアニメ監督というよりポストメディウム的文脈における代表的映像作家として論じられるべきであろう【注02】。

じじつ、2000年以降のデジタル/ソーシャル時代の商業アニメを考えるうえで、新海誠を起点にすることで、『ほしのこえ』(2002年)におけるセカイ系的想像力がKey作品や『涼宮ハルヒの憂鬱』をアニメ化した京都アニメーション(および山本寛)へと受け継がれ、現在では山田尚子の映像美学へと至るという連続性から、あるいは美少女ゲーム『ef』のOPを介したシャフト(および新房昭之/大沼心)への継承から、いまだ取りこぼされたままにある2005年以降のTVアニメの表現史をたどりなおすことができるだろう(さらには絵コンテ・演出・作画・彩色・3DCG・コンポジットまで担当する近年の山下清悟の活躍まで。あるいは逆に、新海誠を起点にすることで、90年代の庵野秀明の映像美学を遡及的に位置づけなおすことも可能かもしれない)。

2016年9月17日公開の山田尚子監督作『聲の形』はその検討をはじめる最良の機会となるかもしれないが、本稿ではその前にまずは、『君の名は。』をAR(Augmented Reality)と震災を補助線に考えてみたい。

▼注01:インタビューなどでたびたび口にしているが、たとえば下記の記事など。新海誠×西島大介×東浩紀「セカイから、もっと遠くへ」東浩紀『コンテンツの思想』青土社、2007年。

▼注02:詳しくは下記を参照のこと。高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第8回 ポストメディウム的状況のアニメーション美学をめぐって 「劇場版 響け!ユーフォニアム」 http://animeanime.jp/article/2016/05/22/28629.html(2016年8月22日閲覧)。

【※本稿は、『君の名は。』、および『シン・ゴジラ』等に関するネタバレへは配慮しないため、未視聴の方は注意されたい。あるいは視聴済みの方も、作品論以前の文脈の整理が大半を占めるため、その部分は必要に応じて読み飛ばされたい】

■ 2016年夏の話題作

2016年夏の日本のカルチャーシーンと言えば、アプリゲーム『ポケモンGO』と実写映画『シン・ゴジラ』が大きな話題を呼んだ。同時期に公開された『君の名は。』は、作品としての強度は言うに及ばず、その想像力においても両作と強い共振を示していたように思う。
『シン・ゴジラ』との関連はわかりやすい。ともに5年前の3 ・11が重要なモチーフとして導入されているからだ。それをどのていど主題的なものと見なすか/見なさないかという宗教戦争はさておき、インタビュー記事などからこれらが明確に意図された仕かけとわかる発言を拾うような瑣末な根拠づけに走るまでもなく、むしろこの両作を体験するうちに3・11をまったく連想しないことのほうがむずかしいだろう(その文脈で素直に読めば、『君の名は。』はたとえば、入れ替わりというフィクションを導入することで、東京とは無関係の遠くの地の大災害――それは1954年の初代『ゴジラ』と同様、地元の神事舞として伝承されていた――を、自らを事件として引き受け、それを忘れないようにするための物語とでもなるだろうか)。
むしろここで重要なのは、3・11という現実をモチーフにすることが、新海誠の作家性をより際立たせたように見える点である。本稿ではこの問題を検討してみたい。

また他方で、『君の名は。』から『ポケモンGO』を想起する人は、もしかしたらあまりいないのかもしれない。しかし、上記のような文脈で見たとき、この両作は共振する作品として読めるように思う。たとえば『君の名は。』で重要なモチーフ、時をつなぐ「組紐」。これはいわば、『ポケモンGO』における「モンスターボール」のようなものとしてなかったろうか【注03】。

▼注03:およそ余談だが、『君の名は。』の主人公・立花瀧が、飛騨旅行中に着ていたマウンテンパーカの左腕にあるロゴマークが、『ポケモンGO』のトレーナー(プレイヤー)であれば思わずモンスターボールを連想してしまうデザインだった点は、本来的にはまったく指摘する必要はないにもかかわらず、本稿が発想された原点の一つとして指摘しておきたい。なのでもちろん、タイトルは半ば冗談ではあるのだが、物語も「君の名」を「ゲット」する話ではあるので、あながち間違ってはいないとも言える(かもしれない)。

■ 『ポケモンGO』と『Ingress』

少々長くなるが、前提となる知識をおさらいする。
『ポケモンGO』は任天堂の世界的人気ゲーム『ポケットモンスター』のIPを活用し、Googleの社内ベンチャーであったナイアンティックと、任天堂が出資する株式会社ポケモンとが共同開発した位置情報ゲームである。2016年7月6日にアメリカなどで先行配信され熱狂とともに受け入れられたのち、7月22日に日本でもサービスが開始された。プレイヤーは現実世界を歩きまわりながら、スマートフォン越しに、特定の場所と紐づいた情報空間上の「ポケストップ」と呼ばれる拠点でアイテムを補充しつつ、遭遇したポケモンをモンスターボールを投げ捕獲し、育成・バトルしていく。

位置情報ゲームと言えば、2000年はガラケー時代の『クリックトリップ』や『誰でもスパイ気分』にはじまり、2003年の『コロニーな生活』を経て、ことにGPSやジャイロセンサー、Google Mapを搭載したスマートフォン時代に入り、2009年のARアプリ「セカイカメラ」やSNS「Foursquare」、そしてナイアンティックが開発し2013年にサービス開始したSF仕立ての位置情報ゲーム『Ingress』と急速な成熟を見せたジャンルの一つである。このとき、全世界に点在するポケストップについての膨大な位置情報というのが、その『Ingress』における「ポータル」に由来していることは無視できない。このポータルは、現実世界における歴史的・文化的な場所やモニュメントが主な対象とされているが、これらはゲームプレイを楽しむなかで自然と動機づけされる、ユーザーによる自発的な申請情報をもとに運営側が承認・登録したもので、こうしたヒューマンコンピュテーション的手法によってはじめて、開発サイドだけでは到底不可能な世界規模での情報収集が実現されている。『ポケモンGO』のポケストップは、『Ingress』ユーザーによって培われたその膨大なデータベースを再利用したものとなる。

プレイ経験のない方には、両者の関係性にわかりづらい面があるかもしれないが、さしあたっては最低限、『ポケモンGO』が『Ingress』のポータルを土台に成立しており、また現実世界のうえにポケモンを重ね見るというAR要素を含んでいるという点さえ押さえてもらえれば十分だ。ここでアニメ論の文脈から参照したくなるのが『電脳コイル』である。

■ 『電脳コイル』のメガネが映すセカイ

『電脳コイル』は2007年5月から12月にかけてTV放映され、第39回星雲賞メディア部門を受賞するなど、作画や物語のみならずその世界観をめぐっても大きな注目を集めた、磯光雄監督による近未来SFアニメである。

本作で中心的なギミックとして導入されたのが「電脳メガネ」というARツールだ。もちろん歴史的に振り返れば、『ドラゴンボール』のスカウターなどすぐさま前例が思い出されるギミックだが、スマートフォンの普及を背景としたARブームの先陣と同期するかたちで――2008年の「セカイカメラ」のコンセプト発表にも先駆け、2009年のオリジナルTVアニメ『東のエデン』やライトノベル『アクセル・ワールド』、2010年のオリジナルTVアニメ『PSYCHO-PASS』やゲーム『ROBOTICS;NOTES』、2013年のオリジナルTVアニメ『ガッチャマン クラウズ』などへつづいていくような――アニメにおける意識的なAR的表現のエポックとなった作品と言える【注04】。

『電脳コイル』の作品世界では、現実世界のうえに異界ともいうべき電脳空間(情報空間)が設定されており、正常であればその両者は紐づけられたままぴったりと重なり合っている。つまり現実の物理空間上で物体を移動させれば、それに対応する情報であるところの電脳物質も同じく電脳空間上を移動していく。しかしときにその繋がりはほどけてしまい、現実世界における物体の移動や損傷が、電脳空間上のそれに正しく反映されないというバグが生じる。物語の舞台である架空の特別行政区・大黒市には、そうしたバグをフォーマットする違法電脳体駆除ソフト・サーチマトン(サッチー)が走りまわり、対して子どもたちは電脳ツールという電脳空間上の情報を書き換えるアイテムを使い暴れまわる。このとき、現実の物理空間のうえに電脳空間を重ね見るためのARツールが、「電脳メガネ」というメガネ型デバイスというわけだ。

しかしここで興味深いのは、『電脳コイル』がAR技術を用い主題化するものが、怪異譚や都市伝説であり(イリーガルやミチコさん、アッチ)、そして何より「場所」と紐づいた「人の想い」であるという点だろう。電脳メガネによって視覚される異界というのは、いわば現在へと更新されていない「過去」の姿というべきものであり、人がその場所に残した「記憶」や「思い出」の隠喩として読むことができる。そして人はときに、過去の未練を断ち切れず、異界へと惹かれていってしまう(兄の死を受け入れられないイサコや、事故死したカンナの影を追うハラケン)。つまり『電脳コイル』はARという技術を通して、怪異譚や都市伝説を再解釈するとともに、人は自分の過去とどう対峙すべきなのかということを問うてくるわけだ。

2013年のゲームの発売とともに巨大なブームを巻き起こし、2014年からはTVアニメも放映中の『妖怪ウォッチ』との比較が理解の補助となるだろう。
『ポケットモンスター』の元となった昆虫採集モデルを踏襲した『妖怪ウォッチ』では、人間の悪しき振る舞いや問題発言の数々が、その当事者の人間性に起因するのではなく、すべて妖怪の悪戯によるものと見なされる。たとえばある人が理不尽に怒り出したとすればそれは人を怒りっぽくさせる妖怪が取り憑いたせいであり、嘘をついたとすればそれは人に嘘をつかせる妖怪のせいである、と。
歴史的に振り返ると、妖怪という概念はそもそも、説明のつかない世界の謎や理不尽な運命を受け入れるためのツールとして利用されてきた。その意味で、現代社会のなかに妖怪という虚構を導入し、そこに責任や理屈をアウトソーシングすることで、世界把握やコミュニケーションを円滑に進める『妖怪ウォッチ』のあり方は、オーセンティックな妖怪本来の有用性を、現代的なかたちで再利用したものと言える。

そして作中において妖怪を見ることができるツールとして存在するのが、時計型デバイス「妖怪ウォッチ」である(当り前すぎて確認するもの気恥ずかしいが、ここでの「ウォッチ」とは、「時計」型ツールであることと、普通の人間には見えない妖怪を「見る」ことのできるツールであることとのダブルミーニングである)。つまり『電脳コイル』における「電脳メガネ」が思い出という見えないものを異界として可視化したのと同様に、(現実のウェアラブル・コンピュータで言えばちょうど「Google Glass」に対する「Apple Watch」のように)「妖怪ウォッチ」は人格という見えないものを妖怪として可視化したARツールと見なすことができるわけだ【注05】。

ARという技術を通じて「子どもだけに見えるセカイ」を表現すること。
そのうえで、本稿が特に注目してみたいのがARによる「場所(空間)の意味の多重化」という性質である。というのも『電脳コイル』同様、『Ingress』における歴史的・文化的な場所(=ポータル)を引き継ぎ、(またまだ未実装のシステムではあるが、ポケモンと遭遇し捕獲した場所がステータスに記録されると予告されてもいた)『ポケモンGO』もまた、なんでもない場所が各プレイヤーにとっての特別な場所として発見される体験としてとらえられるからだ。モンスターボールを投げることは、AR的に場所の意味を多重化する行為としてある。

▼注04:いまやAR技術に関するトピックが話題にのぼるたびに引かれる定番化した一作であり、実際『ポケモンGO』を『電脳コイル』の延長線上のアプリゲームと見なす感想もよく見られた。たとえば冒頭に引いた鈴木謙介も、『ポケモンGO』について、民族学的視点から『電脳コイル』と関連づけて論じている。鈴木謙介「現実をポケモンが徘徊する~電脳コイル化するポケモンGO」『SOUL for SALE』http://blog.szk.cc/2016/07/24/pokemon-goes-the-real-world/(2016年8月22日閲覧)。

▼注05:なお本稿におけるAR的想像力とアニメ表現との関わりをめぐる議論は、次の論考から切り出し再構成したものである。高瀬司「妖怪ウォッチから考える――アニメを「見る」という体験」『反=アニメ批評 2014winter』(2014年)。またこの論考自体がそもそも『アニメルカ vol.3』(2010年)からの連載をまとめた座談会『背景から考える――聖地・郊外・ミクスドリアリティ』(2011年)をベースにしたものとなっている。

■ 記憶のポータルの建て方

人が場所に対して想いを寄せること、過去を想起すること。
ARにおけるそうした性質が、最も端的に現れたものとして『Ingress』における「記憶のポータル」を挙げることができる。
これまで、『Ingress』ではたとえば、ユーザー主導でゲーム内では敵対する両陣営のプレイヤーが協力し、広島に原子爆弾が投下された8月6日、平和記念公園に対応する情報空間上に――『シン・ゴジラ』でもキーとなるモチーフである――「折り鶴」のフィールドアートを作成するといったイベントが開催されてきた。「記憶のポータル」はそうしたユーザーの感性とも同期しているだろう公式が主催した、サービス開始以前に起きた「3・11」の津波被害で失われてしまった現実の=思い出の場所を、『Ingress』の情報空間上に登録=再建し、そこを実際に訪れることで特別なアイテムを得られるとする震災復興企画によって生まれたポータルのことである。これがAR技術を用いることで「場所に紐づいた意味/記憶」に想いを馳せる行為であることは明白だろう。

ここには想像力の循環が見て取れる。というのも、ポータルが紐づけられた対象であるところの現実の史跡やモニュメントというのはそもそもにおいて、人々が共有する「記憶のポータル」を物理空間上に設置したものであるからだ。つまりわれわれは、ARツールによって物理空間のうえに情報空間上のポータルを重ね見る以前に、想像力のなかに日々、社会的および個人的なポータルの登録を進めている――そんな当たり前でありながら(『妖怪ウォッチ』における妖怪の効用がそうであったように)一度循環しなければいまでは見えづくなってしまっていた光景へと立ち返らされる。

実際、前述のTVアニメ『電脳コイル』の最終話で、ハラケンはこう語る。「今までのイリーガルは全部、何かの感情だったんじゃないかって……。憧れとか、怖いとか、もう会えなくなってしまった誰かに会いたいとか、そういう気持ちを……誰にも知られずに消えていくはずの気持ちを……あのヌルたちは拾い上げていたとしたら……それがイリーガルなんじゃないかって……」。
ハラケンのこの解釈が正しいものであるかどうかを、作品は明らかにしていない。しかしARツール「電脳メガネ」が見せるセカイというのがそのような人の想いであったのだとすれば、、そこで視覚されるものというのは本来、人々がメガネを介することなく感じているもの、幻視してしまっているものであるはずだろう。『電脳コイル』の最終話ラストシーンは象徴的である。そこでヒロインのヤサコは、電脳メガネを外した状態で、電脳空間上にしかいないはずの(そして消えてしまったはずの)電脳犬・デンスケの姿をとらえる。

■ 喪失感が重なり合う

【※ようやく『君の名は。』へと触れるところで再掲するが、本稿にはネタバレとなる記述があるため未視聴の方は注意されたい】

宇宙と地上に引き裂かれる2人(『ほしのこえ』)、約束を果たせないまま突然姿を消すヒロイン(『雲のむこう、約束の場所』)、転校による離別(『秒速5センチメートル』)――新海誠の主要なモチーフの一つに「喪失感」がある。それは『君の名は。』においても変わらず存在している。むしろ、これまでの新海作品の歴史の糸を結ぶような集大成としてある本作においては、より複雑に二重化されていると言ってもよい。それも、すでにこの世にはいないゴーストと入れ替わるという、怪異譚を導入することによって――。

その多重化された喪失を紐解くとき、ここまで振り返ってきたAR的文脈が補助線となりうるだろう。もちろん、『君の名は。』にARツールそのものは登場しない。しかし、にもかかわらずその比喩が有効なのは、主人公の立花瀧/宮水三葉は、現在の糸守村を見下ろしながら、かつてそこにあったはずの街の姿に想いを馳せることになるからだ。
そのとき、彼/彼女は変わり果てた街のうえに、記憶のポータル=個人の思い出を重ねて見ていたと言えるだろう。立花瀧は大災害に見舞われる前の街の様子を、スケッチという別の(広義のAR的)現実として描き出していた。しかし、現実の街(物理空間)はすでに穴(言うまでもなく、これも新海的モチーフだ)へと変わり果て、スケッチ(情報空間)に描いたポータルに対応する場所と、そこにいるはずの彼女の姿は失われてしまっている。これが映像とともに示される一つ目の喪失感。
そのうえで、現在の立花瀧のなかにある3年前の記憶のポータルは、ちょうど『電脳コイル』におけるサーチマトン(サッチー)がそうして回っていたように、本来ならばあってはならない異界のバグデータとして初期化されはじめ、ついには宮水三葉の名すら失われてしまう。こうして喪失は二重化され、何を喪失したのかすらわからない、むき出しの喪失感だけが残される。

喪失感を失った/に重ねられる喪失感。新海誠のベスト盤と公式が語りもする『君の名は。』には、これまでの新海作品の様々なモチーフや細部の結びなおしに満ちているが、つまりここからは、同様に喪失感も、これまで歩んできた主題として操作の対象として(あるいは結果として)構造的に布置しなおされていることが見て取れる。そしてそうした事態を可能にしたのが、大災害=3・11のモチーフの導入だろう。喪失に対して場所というレイヤーが加わることで、組紐が伝えるように、あるいはモンスターボールを投げるように、喪失そのものの意味が多重化させてゆく【注06】【注07】。

もちろん物語的には最終的に、立花瀧/宮水三葉が失われた街のうえに見たその記憶のポータルは「宮水のご神体」がある穴という、別の情報空間へとつながるまさにポータルそのものを通過することによって再び現実と紐づけなおされもすれば、2人も運命的に出会いなおされる。

しかし、喪失感を描き出す作家としての新海誠に着目すれば、震災というモチーフは、『君の名は。』におけるアニメ表現の力と、互いが互いのカタワレとなるように混交し存在しているのではないか。
このあり方は、『シン・ゴジラ』と通じるところがある。この作品をめぐる解釈上の有力な立場には、純粋な怪獣映画(エンターテインメント)として政治性・社会性を排除して読みたい人びとのほかに、ゴジラをモチーフとすることで3・11を描いた映画であるという見立てと、それに対しての、震災をモチーフ(方便)とすることで庵野秀明の個人史/映画史を描いた映画であるというそれがあるようだ。
だがここでもし、冒頭に引いた鈴木謙介の議論にならうならば、このような立場もありうるだろう。現実とWebを区別できないように、この両者のあいだに線を引くことも不可能なのではないか、と。
つまり、のちに『On Your Mark』(1995年)を監督した宮﨑駿のもとで、セカイを焼きつくす巨神兵(『風の谷のナウシカ』)を描き、宮﨑の自伝的側面も持つ『風立ちぬ』で主役を演じた、破壊のイメージに満ちた『エヴァ』シリーズの監督・庵野秀明が、特撮=ゴジラという核爆弾の象徴とされる怪獣を描くのに、3・11を綿密に調査し、そして神の名を含むゴジラを人が生み出した放射性物質を食べ半減期の短いそれとして放出する腐海(『風の谷のナウシカ』)的な表象として描き出す『シン・ゴジラ』は、それぞれの糸が複雑に織りなされることではじめて成立しえた作品だろう。だからやや転倒した言いまわしを許してもらえるならば、庵野はつねに震災(的なもの)を描いてきた作家であり、いま庵野が個人史(ベスト盤)を描くということは、3・11を描くということである。

翻って、新海誠の『君の名は。』も同様だろう。新海はつねに、震災的な喪失感を描いてきた作家であり、いま新海がベスト盤を描くということは、3・11を描くということなのではないか。
自分の力ではどうしようもない巨大な運命のようなものによって失われるセカイを、現実離れした美しさで叙情的/感傷的に写し取ること。場所と記憶と情報という震災的モチーフを正面から取り入れた『君の名は。』は、それが招き寄せる喪失感を重ね見る視線によって、新海誠のアニメーション表現としての強度においても集大成となる作品として、その名を忘れられないものにしたように思う。

▼注06:『君の名は。』は初期PV(映画のOP)から大成建設のCMまで、新海誠のあらゆる作品の要素が詰めこまれた集大成であるが、強いてプロットのレベルで最も近似している作品を挙げれば、「いつも何かを失う予感があると、彼女はそう言った」というセリフからはじまる『雲のむこう、約束の場所』だろうが、これもまさにタイトルに場所を含む作品であった。

▼注07:なお、注05で言及した「『妖怪ウォッチ』から考える」には、本稿では触れていないまだ先の展開があり、この文脈における一つの達成として片渕須直監督『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)を論じている。そこで展開される「聖地」をめぐる論点も、新海誠を思考するうえで有効な補助線となりうるのだが、その議論は2016年11月12日に公開される、こうの史代原作で片渕が監督を務める劇場アニメ『この世界の片隅に』においてあらためて展開する予定としたい。いまの時点で一つだけ論点を先出ししておけば、『この世界の片隅に』が「戦争と広島」という失われた場所をめぐる物語である点もまた、単なる偶然とは思えない。