自分の仕事は社会の役に立っているのだろうか…。自分は就職したら一体何に貢献できるのだろう…。そもそも何をしたいのかすらわからない…。
もしそんな悩みを持っているならば、全国に根強いファンを持つ北海道の人気テレビ番組「水曜どうでしょう」のカメラ担当ディレクター、「うれしー」こと嬉野雅道氏のエッセイ『ひらあやまり』(KADOKAWA刊)を読むといいかもしれない。
これを読めば、「自分もよくはわからないけれどもきっとなにかの役には立っているかもしれない…」って少しは気楽に考えられるようになるはずだ。
■自分の撮った番組を「ラジオのよう」と言われる心情やいかに
「水曜どうでしょう」を「ラジオのようだ」と評価する人は多いそうだ。
一応、旅番組ではあるが、旅先での風景を映すのみではなく、移動中の車内でのくだらない会話やちょっとした喧嘩でほとんどが構成されている回も多い。
正直、車内でオジサンたちが会話する様子は、テレビとして華やかな絵だとは言いがたい。
つまり、車内の様子などわざわざ見なくてもいいのであり、そのため、耳だけでも楽しむことが可能なことから「ラジオのよう」という評価につながるのだ。
実際、筆者自身もテレビで観ていたら、その音声を聴きながら家事をしていた母親が笑っていたということがあった。
他にも、筆者の知人である生粋の「どうでしょう」ファンが、「受験生時代には勉強しながらラジオみたいに聴いていたよ。聴いてるだけで落ち着くんだよね。」と言っていた。
この「ラジオ感」という評価、一見よさそうに思われるが、よく考えてみてほしい。
この番組にもしっかりカメラマンはいるのである。それがこのエッセイの著者である嬉野氏だ。
「あれ?オレの仕事はそんなにも印象に残らないってことね?」(147ページより引用)。
しかも嬉野氏、昔からよく「『どうでしょう』での嬉野さんの役割はなんですか?」と聞かれるのだそうだ。
いやいや、カメラマンでしょう。
■生きてたらきっとなにかしらの役には立ってるからさ…
自身のカメラワークにも注目されず、挙句の果てに「番組内での役割はなんですか?」とまで聞かれてしまう。まさに、仕事における自分の役割が見えにくくなっている状態であると言える。
確かに、「水曜どうでしょう」は家庭用ビデオカメラで撮影されているため、世間の認識としては「適当で気楽な番組」かもしれない。だからこそ、視聴者からはカメラワークは嬉野氏の仕事のうちにカウントされにくいのだろう。
では、自分は何をしているのか?
自問自答しても出てこなかったそうだ。しかし、嬉野氏は悲観的にならなかった。
なにもしていないにもかかわらず、20年以上「水曜どうでしょう」に携わっているということは、「きっとよくわからないけれども、自分はなにか役に立っていて、それに気づいている人がいるのだろう」と思い至ったのだそうだ。
確かに、この視点を持つと私たちもちょっと楽になれるような気がする。
今こうして生きているということは、自分の役割に気づいている他者がいて、その他者が、自分が生きることを許しているということだ。
そして、自分ではその役割には気づいていないかもしれないけれども、きっと誰かの役に立っている。そう考えることができるのでは?
この「根拠のない自信」は実は大事なのではないか。
この自信があるからこそ、嬉野氏は会社の就業時間中に会議室を占領してカフェなんかをやっちゃったりする。勤務時間中にもかかわらず、会社でカフェをやることが、なにかしらの役に立ち、きっとみんなよい方向へはずだという思いのもとで始めたのだそうだ。
会社内のカフェの効果はいつどこで役立つかはまだわからない。でも、「役に立つ」とはそんなものではないか。
自分ではいつ役に立っているかわからないもので、何年か後にふと、あの時の自分は誰かの役に立っていたのかもな…と思うのかもしれない。
自分が役に立っている理由が今、見つからないからと言って焦る必要は全くない。「それでもいいんじゃないかい?オレもそうだからさ。」と嬉野氏が肩をたたいてくれる、そんなエッセイである。
(ラベンダー青井)