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竹内涼真と土屋太鳳、“ありえないキャラ”を普通に見せる『青空エール』の演技

2016年08月22日 13:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『青空エール』(c)2016映画「青空エール」製作委員会 (c)河原和音/集英社

 『青空エール』。なんとも、こっぱずかしいタイトルである。なにしろ、青空にエールだ。この単語と単語の二重奏は、おいおい、どんだけ青春してたら気が済むんだよとツッコミを入れたくもなる。
 
 ところが映画『青空エール』には、こちらの先入観からくる照れを、心地良く粉砕するエナジーがある。なんなのだ、いったい。ひやかしてやろう、ぐらいのつもりで観たら、むしろ、そんな自分の上から目線が恥ずかしくなってしまった。この、なかなか形容しにくい、爽やかな敗北感は、ある意味、未知の領域かもしれない。


 爽やかで、なにが悪い? この映画は決して声高に何かを語るわけではないのだが、全身からそんな無言のメッセージを放っている。爽やかで、なにが悪い? うん、なにも悪くない。いまのわたしは、そんなふうにまっすぐ答えたいとさえ思う。


 物語は単純すぎるほど単純だ。甲子園出場をめざす野球部員の男子高校生がいる。応援に憧れ吹奏楽部に入部した女子高校生がいる。主人公ふたりの紹介をしただけで、なにが始まるかはもうわかるだろう。そして、ふたりがどうなるかも。そして、まさにそのようになるのだが、想定内であるはずの物語は序盤から、なにかを超越して、わたしたちを呆然とさせる。


 高校1年の春。新クラスで自己紹介をする場面。その男子高校生は「甲子園に行きます!」と、ほとんどなんの躊躇もなく宣言するのだが、まず、その爽やかさが尋常ではない。彼が長身であることも問答無用の説得力につながってはいるが、体躯を超えた、ほとんどスピリチュアルと言ってもいいサムシングが、演じる俳優、竹内涼真にはある。彼は一種の超人だ。言ってみれば、この<超人的な爽やかさ>が映画を規定し、最後の最後まで、観客を連れてゆく。いいのか? こんなに爽やかで? という、当然こぼれるはずの疑問もまったく生まれない。いいのだ、これでいいのだ、とつぶやくしかない。超人とはそうしたものだろう。そもそも、人智を超えた存在が超人なわけだから、わたしたちのせせこましい常識などはるか彼方に打ち飛ばしてサヨナラホームラン、てなもんである。


 そして、土屋太鳳扮する女子高校生は<おそるべき鈍感力>の持ち主で、なにがあってもへこたれない。彼女は、全国コンクールをめざしている吹奏楽部で「野球部の応援がしたい」とのたまい、白い目を向けられる。高校の吹奏楽部なら中学から続けている部員がほとんどだろうに、ここで初めてトランペットを手にし、そのあまりの初心者ぶりに、エリート同学年から「頼むから部を辞めてくれ」と懇願される。いちいち列挙するのもはばかれるほど、そんなエピソードが無数にある。もちろん、その都度、傷つきはするし、迷いも生じたりはするのだが、あの男子高校生を応援したい、という一念だけはダイヤモンドのように輝きつづける。周囲の圧力に屈することがない。闘うわけではない。ただ、オーガニックに貫きつづける。それが私の本能だから、と言わんばかりに、水を吸い、土の養分を得、日の光を浴びながら、すくすくと花を咲かせ、たんたんと実をつけてゆく。朽ちることがない、という表現が正しいと思うが、底知れぬ生命力を持ったヒロインである。雑草のごときしぶとさが、とにかくまぶしい。


 この映画のもっとも素晴らしい点は<超人的に爽やかな>男子と<おそるべき鈍感力を蓄える>女子とが、なんの理由もないまま、互いの応援を選択することにある。おそらく、一目惚れではない。訳もなく、そうなった。いや、ただ出逢ってしまっただけなのだ、と言わんばかりの素っ気なさで、映画はそのシークエンスを捉えている。ドラマティックに盛り上げたりはしない。電光石火の一瞬もない。このふたりにとって、それは<普通>のことだったのだ、という確信の下に、ふたりの出逢いは描写されている。この、ほとんど無欲と言っていい潔さが、全編を包み込んでいる。


 監督の三木孝浩は『ソラニン』『僕等がいた』『陽だまりの彼女』『アオハライド』といったヒット作を手がけてきた人物だが、<青春ロマンス専科>といったなんとなくのイメージが先行しているだけで、その作家性はほとんど語られていない。思うに、彼の特性は、本来ありえない設定や展開やキャラクターなどを、すべて<普通>に見せてしまうことなのではないか。<超人的な爽やかさ>も、<おそるべき鈍感力>も、映画『青空エール』のなかではまったく変わったことには映らない。ふたりとも、ただひたむきなだけである。ひたむきさが<ひたむきすぎる>ことなんて、決してない。これが三木流のフィクションの在り方なのではないか。向かっている地点が<普通>だから、彼の映像やタッチには派手さがないし、奇を衒った自己主張は微塵もない。だからこそ、彼は映画作家として認識はされないし、おそらく、そんなことは彼自身が望んでいないのだと思う。


 凡庸ではなく<普通>。中庸ではなく<真っ当>。きわめて地味な目標地点を、この監督は志向している。<ひたむきすぎる>ことなんてない、という、しぶとく強く明るいひたむきさによって。そんな彼の姿は、職人というより、超人を思わせる。<普通>をめざすのがいちばん困難な道だからだ。路地裏でひっそり佇む超人、三木孝浩のエッセンスが凝縮されているからこそ、『青空エール』は正々堂々と爽やかなのである。


(相田冬二)