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Droogは自分の足でロックンロールの原点に立ったーー石井恵梨子のライブ批評連載スタート

2016年08月21日 15:01  リアルサウンド

リアルサウンド

Droog

 ライブレポートがつまらない。そう感じるようになって随分経ちます。セットリスト通りに状況報告して、MCはそのまま丸写し。テレビのテロップかと呆れます。ひとつのライブにあった感動的な景色は、どこから生まれ、そのアーティストの何を物語っているのか。ライブ好きな音楽ライターとしては、そういう奥底や裏側までを読みたいし語りたいと思う。そんな気持ちから新連載が始まります。


(参考:WANIMAが驚異的動員を達成した理由ーー石井恵梨子がバンドの成長と“夢の大きさ”に迫る


 8月13日、下北沢Club QueでDroog(ドルーグ)を見た。白シャツのカタヤマヒロキ(ボーカル)以外はみんなラフなTシャツ姿。これだけで、おや、と思う。


 初めて見たのは5年前だ。SEのサイレンが轟いた瞬間、スピーカーの上では赤色灯が回転し、会場が物々しい雰囲気に包まれる。ステージに現れる4人はド派手なシャツで胸元をはだけさせたり、時には黒装束、または原色のスーツ姿だったりして、「これから始まるのは非日常の、タダゴトではない何かですよ」というメッセージはビンビン伝わってきた。サイレンに赤色灯という演出ひとつを取ってみても、昔のバンド映像を相当研究したはずである。


 大分県別府市のドルーグは、ことパンクに関しては英才教育を受けてきた少年たちが結成したバンドだった。きっかけは中学教師(!)。生徒数名にピストルズを聴かせ、なんじゃこりゃと興奮する態度に我が意を得たのだろう。同時にグリーン・デイも聴かせて「どっちがいいと思う?」と尋ねたそうだ。明らかに誘導尋問のパンク入門だが、その門を14歳の彼らはまっすぐに開けた。すぐさまダムドやラモーンズを掘り下げ、ストーンズにザ・フー、グラムやハノイ・ロックスなども知り、初期のマッドカプセルマーケッツやブルーハーツの歌詞にヤラれてきた日々。まさに健康優良不良少年のできあがりだ。


 2011年にはメジャーデビュー。ストゥージズ直系の重たいエイトビートと、遠藤ミチロウのごとくに扇情的な歌詞を叫ぶカタヤマのボーカルは、「90年代生まれの若者たちが何故?」という驚きをもって歓迎された。その意味ではオカモトズや黒猫チェルシーの登場と似ていたかもしれない。だが純正パンク育ちのドルーグは、オカモトズほどの引き出しを持たないがゆえに「続き」が見えづらかった。破壊的な衝動。狂犬のような咆哮。本能を解放する爆音。そのどれもが頭を真っ白にさせてくれるけれど、具体的な物語はほとんどない。いわば「死ね!」と「愛してくれ!」という極論だけが叩きつけられるだけ。当時はカタヤマ自身も「俺はそれだけを言い続けたい」と語っていたし、まぁそういう若手がいてもいいじゃないかと私も考えていた。2013年までは。


 3年後。久々に見たライブは、新作のタイトルナンバーである「命題」から始まった。ダーティに暴走するこの曲は、笑えるくらいストレートな歌詞が印象的だ。ロックバンドが売れず、もはや必要とされてもいない現状を自嘲的に語りながら、〈でも「ロック」がいいんだ 「バンド」がいいんだ 「ライブ」がいいんだ やめられない〉と宣言する。もちろんこの歌を作る背景には、なぜ自分たちがロックバンドを続けているのかという煩悶があったはず。それまでの大手事務所を離れ、昨年には自主レーベルを立ち上げたのだから、そういうことをシリアスに考える時期が続いたことは想像に難くない。遊びの時間は終わったのだ。が、辿り着いた答えは、たぶんものすごく単純。「楽しいから」以外になかったのではないか。


 一曲目の〈やめられなーい!〉を叫び終えたあと、カタヤマは「…たっのし」と小さく呟いていた。ほとんど無意識に出てきた言葉。ステージで爆音を鳴らすのが気持ちいい、思っていること全部を歌にすることが楽しくて仕方ないという感覚を、今、彼らは清々しく噛みしめているのだろう。極論で人々を挑発する時代が終わり、まずは自分の足でロックンロールの原点に立つ。楽観でも開き直りでもない。じゃなきゃ「命題」なんてタイトル、付けられるわけがない。


 また、とにかく良かったのは同じく新曲の「TOKYO SUBMARINE」だ。こちらもパンク云々を超えた珠玉のナンバーで、荒々しい暴走の中にセンチメンタリズムやロマンティシズムを散りばめた楽曲は、かつてのルースターズやミッシェル・ガン・エレファントを彷彿とさせる。これまで「叫び」でしか表現してこなかったカタヤマが、堂々と「歌」を選択したのだ。こんな名曲が書けるバンドだったかと驚く。さらに故郷と東京を対比させながら都会暮らしを〈潜水艦〉に喩える歌詞は、暗闇の中を光りながら突き進む楽しさと、輝いているようで実は沈み続けている不気味さ、一歩外に出れば窒息するのだという恐怖を次々とすくい上げていく。こういう複雑な感情を歌えるバンドだったのか。いや、こういうロックンロールを続けると覚悟したから歌詞が変わったのか。ともかく、ドルーグは今までとはまったく新しい場所に居るのだということが十分に伝わってくるのだった。


 あっけらかんと乾いたロックンロールの「Loser」。ギターの荒金による鍵盤から始まるロマンティックな「夜明け前」など、新曲はどれもメロディがきちんと立っているものばかり。となると問われるのはカタヤマの表現力だが、これがなかなかどころか、ばっちりハマっているのも素敵だった。今までの狂犬的な振る舞いは何だったのかと思うくらい、不敵かつセクシーな歌いっぷり。タメ気味のビブラートも彼独自の味わいだ。元来、彼は華奢で中性的なボーカリスト。無理にガナって吠え続けるより、きちんと歌うほうが喉に合っているのかもしれない。本人は「自分の声が嫌いだった」と言うが、コンプレックスが他人から見れば美点だというのはよくある話。ライブはほぼ新曲オンリーで、ラストに代表曲的存在の「Love Song」と「Johnny&Vicious」が披露されたが、今となれば、新曲の色合いが断然いい。モノクロに縛られていた旧譜のほうが無理をしていたのかと感じられるほどに。


 衝動や破壊的欲求をぶちまけて花火のように散っていく美しさは確かにある。一度パンクにハマればそこに憧れて生き急ごうとする心理もよくわかる。だが、ドルーグは続けることを選択した。だからこういう音になり、具体的な意思表明をする必要があったのだろう。数々の喪失をはっきりと歌にした3年ぶりの3rdアルバム『命題』を聴きながら、改めて思う。バンドを続けていくって、ロックをやり続けていくって、こういうことだ。(文=石井恵梨子)