2016年08月21日 11:51 弁護士ドットコム
『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が総監督をつとめた映画『シン・ゴジラ』が大ヒット上映中だ。7月29日の公開から3週間目で観客動員230万人、興行収入33億円を突破した。ツイッターやブログなどでも「すごい映画だった」といった絶賛の声があがり、何回も観に行くリピーターも多くいるようだ。
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アニメや漫画、特撮など「コンテンツ」に造詣が深い国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)客員研究員で、現役官僚の境真良氏はどのような感想を抱いたのか。境氏に寄稿してもらった。
(本文は一部ネタバレを含みます。ご了承のうえお読みください)
『シン・ゴジラ』は、すごい映画だ。何がすごいって、賞賛しないといけないような空気になっているのがすごい。いやいや、天邪鬼にもなんてイヤミをいうんだと思われるかもしれないが、それだけの空気を巻き起こすのは、やはり非凡な映画である証拠だろう。
それぞれ『DAICON FILM』の一員として伝説の自主作品に関わり、『新世紀エヴァンゲリオン』でその名を不動のものとした庵野秀明氏と、平成『ガメラ』で世に出た(というか、筆者はそれでその名を知った)樋口真嗣氏が牽引したこの作品を観た最初の感想は、誰かがネットで呼んだとおり、まさに『自主映画』であった。
それも、いわゆる『オタク第一世代』のいい大人が、これでもかというくらいのキャスト、技術人材、資金その他の商業映画のリソースを使って思う存分につくった贅沢な自主映画だ。
過去の作品へのオマージュや、現実の武器や機器などのリアリズムへのこだわりは、『作り手の全開感』のとばしりとなって、観客を魅了する。メカニックの描写、登場時のテロップ、BGMの入れ方など、こだわりがわかって共感できる人たちはなおのこと、そうでなくてもまるで文化祭のような『空気』はどことなく楽しいものだ。
実は、筆者が鑑賞前に気にしていたのは、登場するゴジラがCGで描かれるという情報だった。円谷流の『特撮』を愛する彼らとしてみれば、やはりそこは『着ぐるみ』でくるのではなかったか。なぜCGなのかとずっと思っていた。
だが、観すすめるうちに、そんな杞憂はどこかに飛んだ。まず、第一に、爬虫類らしい眼のゴジラは、映像として成功している。作品中で上手く消化しきれてはいない気もするが、(おそらく)群生体であるこのゴジラは、私たちがこれまでの『ゴジラシリーズ』で目にしたような単なる巨大生物・ゴジラではない。
幼体(?)からかなり無茶な変態をするし、巨神兵やビオランテを彷彿とさせるような開口で熱線を吐くわけだし、「イデオンか!」とツッコミを入れたくなるような「360°自動追尾ビーム」を発する。まぁ、これを描写するにはCGでしかなかったんだろう、と合点もいった。
けれども、そのうち沸々と、実は逆なのではないか、という思いも湧いてきた。本当は、『特撮博物館』プロジェクトで制作された短編『巨神兵東京に現る』で明らかにされた企図、つまりCGという時代の制約の中で円谷流『特撮』を発展・継承してみせるという挑戦が先にあり、それを『特撮』待望論を抱いた観客にも自然に納得させるためにこうした設定を作ったのではないか。筆者は、どちらかというと、今はそう考えている。
つまりは、凝り性の天才クリエイターが思いきりこだわって、考え抜いて作った映画がこれだということになる。ネット上では、ハリウッド作品よりよほど低予算だという批判の声も目にしたが、このこだわりは低予算だから光るもので、大作ならいいってわけじゃない。
だが、それだけに「あれ?」と思うシーンがちょいちょいあったのも事実である。
官邸内の官僚ドラマでは、たしかによく調べられていて、小道具のPCやコピー機のセレクトまでこだわっていたのは感心したが、他方でちょっと不自然なくらい役所用語をこれ見よがしに使うなど、誇張、カリカチュア的表現もいくつかあったと思う。
とくに経産省系の用語が多く、旧内務省系の表現が少ないように感じた。「まぁ、安倍政権だから…」というのは冗談で、取材源が偏ってたのかもしれない。『新しい放射性物質』だって、半減期が20日というかなり安定的な放射性同位体の新種が今さら見つかるなんて、ちょっと現実味がない。
リアリズムは、時としてリアリティから道を踏み外す。この作品でリアリティ感の基礎として採用された軍事、科学、行政などにくわしい人から見れば、おそらく、この作品はツッコミどころが満載で、見ようによっては、あたかも学生がどこかの専門書を読みかじっただけの難しそうな用語で知性を装うような(そういう意味でも『文化祭』的な)表現の軽さ、ハッタリに本作は満ちているのではないだろうか。それは、個人的には好みではない。
でも、まぁ、筆者も自分のくわしい部分以外のハッタリには気がつかず、リアリティを感じているのだろうし、ここは謙虚に、大目に見たいと思う。そもそも『映画』で追求すべきは『リアリティ感』であって『リアリティ』ではないし、だいたい本当にリアリティだけで作品を構成するなら『ゴジラ映画』そのものが成立しないだろうよ(苦笑)。
ただ、この映画の最大の弱点は、こうした細部へのこだわりに没入しすぎている点なのかもしれない。
こうした多くのこだわりに全力投球する一方で、この作品は、子どもも楽しめる『怪獣映画』としてのテイストを捨てている。いや、捨てすぎている。東日本大地震と『ゴジラ』を重ねあわせ、これに立ち向かう日本と日本人を描いた仮想『プロジェクトX』(ただし、田口トモロヲの名ナレーションは抜き)だということはわかる。だが、筆者には、逆に言えば、過度に仮想ルポルタージュ的で、強いわかりやすい主張は抑えられているように思う。
だから、こうした作者たちの『こだわり』や高揚感に共感しない観客には、ちょっと辛い映画かもしれない。お役所用語や軍事用語、科学用語を注釈なしに使って、それをリアリティ感の欠片として聞き捨てられる観客ではなく、「何だろう?」と思って疎外感を感じてしまうような観客は、少し置いてけぼり感を感じるかもしれない。子どもなら「怪獣と自衛隊がすごくかっこいい」という印象しか残さないかもしれないし、大人なら、映画自体を楽しめず「政治家、官僚礼賛の映画だ」とか的外れな解釈にいってもしまう可能性だってある。
政治家や官僚のドラマツルギーが真ん中に来るのは、仮想『プロジェクトX』なんだから、リアリティあるストーリーの範囲内で、顔が見える人々を描写すれば、ごく自然なことだと思う。それに、民間企業や大学の研究者だって十分活躍していたし。もし、一人の普通の自衛隊員や市民が大活躍してゴジラを撃退するとか、<普通の市民>がみんなで石を投げたり歌を歌ったりしたらゴジラが海に帰ったみたいな話だったら、それはもうファンタジーを越えて、喜劇になってしまうじゃない。
けれども、そういう意味では、作者のやりたい放題の開放感を味わえない、シンクロできない観客にどう魅せるかとの両立までは、本作は至っていないといっていいかもしれない。筆者はむしろ、万人向けの作品を評価する立場に立つので、これにはネガティブな印象を持つ。
けれども、この作品の魅力はその割り切りと引き替えに生み出せたのだからそれでよし、という評価もあろう。この作品から『リアリティ感』を受け取って、強いメッセージがない映像をああでもないこうでもないと考えて楽しむ人以外楽しめない映画、つまりは万人向けではない映画が、万人といってもいいほどの多くの人に賛辞を浴び、批判されないということそのものが、『<マス>が消滅した』と表現される現代という時代感なのかもしれない。
だから、結論として、この作品はぜひ見ておくべき映画なのだと思う。結果的に気に入らず、二度と観ないと思うのだとしても、やはり一度は観るべき価値がある映画だ、ということだ。
さて、本作への評論はここでお終いなのだけど、最後に二つ付け加えたい。
まず、この作品は、市川実日子演じる『尾頭ヒロミ』という素晴らしいヒロインを誕生させた。市川実日子という女優とそれが演じる『尾頭ヒロミ』というキャラを堪能するだけでも観る価値が十分ある。作品の最後の最後でようやく見られる彼女の笑顔こそ、この作品のクライマックスである(念のため強調しておくが、これはまったくの私見である)。
そして、もう一つ。オープニングがあれだけ初代『ゴジラ』を意識したのだから、ラストシーンでは、『あのゴジラが最後の一匹だとは思えない』というセリフを意識してほしかった。最後の最後がなんか抜けてる気がするんだよね。入口がオマージュなのに出口がまったく違うという、カッコの両側がうまく対応してないような違和感がある。
ただ、その拍子抜け感を引っ張って「続編」に持ち込もうという大戦略かもしれない、と筆者は疑ってもいる。実は、生体反応が残っている尻尾から群生体であるがゆえに、全体が再生、進化した第2のゴジラが現れ、『そりゃあ、あのゴジラが最後の一匹だとは思えなかったけれど...』という安田に、尾頭ヒロミが『いえ、新たな一匹ではありません。あれはあの時の一匹です』などと答える大展開が数年後に待っていることを、多分、大きな釣り針に釣られているんだろう筆者としては楽しみに待ちたい。
(弁護士ドットコムニュース)