英AUTOSPORTの編集者、グレン・フリーマンが2000年以降のF1シーンを振り返る特別企画。今回は蒼きマタドール、アロンソと、マクラーレンのシンデレラ・ボーイ、ハミルトンの初のタイトルイヤーをご紹介。
2005年:ルノー、フェラーリの牙城を崩す
フェラーリが2004年に再びシーズンを支配したことを受け、FIAはレース中のタイヤ交換禁止というレギュレーションを導入した。フェラーリとブリジストンはこの変更の煽りを受け、ミハエル・シューマッハーはフェルナンド・アロンソとルノー、そしてミシュランの台頭に為す術なく敗れた。
2005年は、後年に爪痕を残すシーズンである。ミハエルとアロンソが勝利を賭け、イモラで繰り広げたバトルは翌年まで持ち越されることとなった。また、ルノーとマクラーレンの開発したマシンは、5年に渡り続いたフェラーリが制してきたF1に新鮮な風穴を開けた。とりわけ、マクラーレンのMP4-20は非常に強力なマシンであった。
じつに13人のドライバーが表彰台を獲得したという、シーズンで最も印象的な統計も見られた。そのうちの1人、ティアゴ・モンテイロはジョーダン・チーム最後の表彰台を、ブリジストンタイヤを履くわずか6台のマシンで争われたアメリカGPで獲得した。安全上の理由から、ミシュラン勢が全車欠場という物議を醸したこのGPで、ミハエル・ミハエルは2005年シーズンで唯一の勝利を挙げた。
マクラーレンは、多くの信頼性の問題に悩まされていなければ、アロンソとタイトルを賭け、激しく争っていた可能性が高いが、少なくとも、ライコネンとモントーヤの2人が残した17戦中10勝という成績には満足していることだろう。
2008年:ファイナルラップで決した王座
この年に、ルイス・ハミルトンの劇的な王座決定と並び立つドラマを見ることができただろうか?いや、それはありそうもない。だが、2008年シーズン序盤にBMWザウバーがキラリと光る活躍を見せ、ファンの間ではやや食傷気味だったマクラーレンとフェラーリの一騎打ちに一石を投じた。
実際に、BMWザウバーのロバート・クビサは勇敢な走りでマクラーレンとフェラーリの間に割って入り、カナダでの初優勝のあと、彼はポイントリーダーに踊り出た。もし、BMWザウバーがより多くのリソースを有し、シーズン後半まで競争力のあるマシンを用意できていたら……。F1界につきものの、“たられば”の話は、クビサに聞くべきではないだろう。
クビサ初勝利のカナダGPから2レース後、ハミルトンは雨のシルバーストーンでの素晴らしい勝利により、ランキング4位からトップに浮上した。僅差のチャンピオン争いを、ハミルトン、クビカ、マッサ、そしてライコネンと、4人のドライバーが演じていたのだ。
シーズンも大詰めになってくると、タイトル争いはハミルトンとマッサの2人に絞られた。マッサにとっては最も輝きを放ったシーズンであり、不運に見舞われ、感傷的になるような出来事の多い年でもあった。ハンガリーGPでは、レースをリードしながらもラスト3周でエンジントラブルが発生し、シンガポールGPではピットアウトの際、燃料ホースを引きずってしまう。そして最終戦の母国GPでは、レースに勝利しタイトルを確信した直後、チームから、ハミルトンがタイトルを奪ったとの悲痛な無線を聞くこととなってしまう。
一方のハミルトンも不運に苛まれることがあった。富士スピードウェイで行われた日本GPでマッサと接触し、ライコネンとのバトルが物議を醸したベルギーGPでは、レース後のペナルティによりマッサに勝利を明け渡している。
2008年は5チーム、7名のドライバーが勝利し、14名のドライバーが表彰台を獲得した。そのなかには、当時トロロッソに所属していたセバスチャン・ベッテルがモンツァで達成した素晴らしい初勝利も含まれている。2008年が劇的なシーズンであったことは疑いようもなく、後年まで記憶されるシーズンであった。