お笑い芸人コンビ「ピース」のボケ担当、という表現が似つかわしくなくなるほど、芥川賞のイメージがすっかり強くなった又吉直樹。新刊のタイトルは「夜を乗り越える」(小学館よしもと新書)という意味ありげなものだ。
生きていれば誰にでも、死にたくなるような苦しい夜がある。そんなとき、ひとつの言葉、一行の文章が自分を救い、その夜をなんとか乗り越えられる。文学には、読書にはそんな力がある――。そんな思いを真摯に伝えている本だ。(文:鈴本なぎこ)
「思春期の自分に聞かせてあげたい」言葉がある
例えば中村文則の「何もかも憂鬱な夜に」(集英社)を読んだときの感動を、「その言葉に僕は救われました」と綴っている。
「その言葉に触れ、僕は子供の頃から抱えてきた疑問が解消されたように思えました」
「少なくとも僕は、これであと二年は生きられると思いました。別に死のうなんて思っていなかったのにそう思いました」
これまで、それに近いことを聞いたことがあったかもしれないけれど、その言葉は「小説の力、作家の力があってこそ」響いた。思春期の自分に、この言葉を聞かせてあげたい。この小説は、誰かにとっての夜を乗り越えるための一冊になりえるかもしれないと語る。
しかし、それがどんな言葉だったかは記されていない。それは自分が救われたという話であって、その言葉だけ切り取っても他人に伝わるとは限らないと分かっているからだ。
本書には「夜を乗り越える」という言葉が繰り返し登場する。「僕と太宰治」の章では、太宰が心中した夜さえ乗り越えられればと、その死を惜しむ。自著「東京百景」でも「死にたくなるほど苦しい夜には、これは次に楽しいことがある時までのフリなのだと信じるようにしている」と綴り、「火花」にもネットの誹謗中傷に対する、こんなセリフがある。
「それがそいつの、その夜、生き延びるための唯一の方法なんやったら、やったらいいと思うねん」
「火花」への評価に対する葛藤も明かす
繰り返されるこのフレーズから、彼が過ごした幾千の辛い夜を感じ、「誰にとってもそんな夜がある、でもそれを乗り越えなくてはダメだ」という力強いメッセージも受け取れる。大切な意味がこもったタイトルなのだと思う。
そんな彼は、常に「大人が理解できなくて怒り出すような、新しい価値観を発見したり発掘しなければならない」という思いでライブや文筆活動をしている。そのため「火花」にも、上の世代に対する挑発的な視点を盛り込んでいたようだ。
例えば24歳の芸人・神谷が、こんな持論を語る場面がある。新しい表現が現れた時に邪道とみなして排除するのは、たいがい老けた奴らだと批判し、「鬱陶しい年寄りの批評家が多い分野はほとんどが衰退する」とまで言わせている。ここまで書くには、かなりの勇気が要ったことだろう。しかし、その点に関する反響は皆無だった。
「『火花』を書き終えた時に、これは議論になるんじゃないかと思いました。でもまったくなりませんでした。僕が思っていた議論には」
結局、話題は芸人が小説を書いて売れたということでしかなかった。彼は本書で、ネットの反応を見た時の思いやメディアに対する失望を赤裸々に明かしており、「哀しいというか、悔しいのは読まれもせずに小説として扱ってもらえない時です」と嘆いている。
オススメの文学作品も読んでみたくなる
しかし厳しい怒りを含んだ批判は、決して恨み節ではない。「自分の才能の問題」として、自身へのダメ出しや自己分析も丁寧に行い、表現に対する熱い思いと誠実さが伝わってきた。ネット上の真摯な書評に対して、「今夜、あなたのおかげで生き延びれます」と書き込んだことも明かす。
テレビでは分からない又吉直樹の「深い部分」が盛りだくさんの本書は、読者と創作者の視点から分かりやすく解説される様々な文学作品も、猛烈に読んでみたくなる。特に章ひとつ使って語りに語る太宰治には、中学のころ衝撃を受け、「人間失格」は毎年初めに読むと決めており、その度に発見があることや今だから泣ける箇所などを紹介している。
現代の日本文学についても、感覚がずば抜けているという西加奈子の「サラバ!」や、大量殺人を題材にしながらもこんなに笑った小説はないという町田康「告白」、そして冒頭の中村文則の「銃」や「掏摸」等々を紹介している。
熱心な文学愛と分析力を感じられるところが楽しいが、頑固に推すのではなく「本って面白いよ!」と軽やかにオススメする姿勢があって読みやすい。気取った教養主義ではなく、生きる糧として読書する楽しさを感じられる本だった。
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