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THE YELLOW MONKEYは“日本のロック”を堂々と鳴らすーーサマソニ出演に寄せる期待

2016年08月20日 13:01  リアルサウンド

リアルサウンド

THE YELLOW MONKEY『イエモン-FAN'S BEST SELECTION』

 THE YELLOW MONKEYの再集結後初のライブ、2016年5月11日の国立代々木競技場第一体育館での1曲目が「プライマル」であったことには、感慨を覚えた。このバンドは、2001年1月8日の東京ドーム公演後、『プライマル』を発表し活動を休止した。吉井和哉が歌った詞は、バンドからの卒業を自ら祝う内容だった。次のリリースがないまま2004年に解散を発表したから、それがラスト・シングルになった。この過去を踏まえれば、再集結最初のライブ演奏を「プライマル」から始め、バンド卒業の時点から歩み直そうとした姿勢は、よく理解できるものだった。


THE YELLOW MONKEY『イエモン-FAN'S BEST SELECTION』


 同曲を録音した時、バンドがプロデュースを依頼した相手がトニー・ヴィスコンティだったことも、復活後最初の演奏に選んだことと無関係ではないと想像する。ヴィスコンティは、デヴィッド・ボウイやT・レックスなどイギリスのグラム・ロックをはじめ、多くのロック・アルバムを手がけた名プロデューサーだ。


 THE YELLOW MONKEYの音楽的中心である吉井和哉は、以前よりデヴィッド・ボウイからの影響を公言してきた。ボウイの代表作には、異星から来たロック・スターを主人公にしたコンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト』(原題=The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars。直訳=屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群)があった。これに対し、THE YELLOW MONKEYのメジャー・デビュー作が『THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE / 夜行性のかたつむり達とプラスチックのブギー』(1992年)と長い題を与えられていたこと、サードの『jaguar hard pain 1944~1994』(1994年)が戦死した若者の恋人探しの時間旅行を題材にしたコンセプト・アルバムであったことなどは、ボウイからの影響だった。初期のビジュアル戦略もそうだ。


 THE YELLOW MONKEYが再集結を発表したのは、今年1月8日のことである。MONKEYの名を持つバンドが申年に動いたわけだが、同日にはデヴィッド・ボウイが新作『★(ブラックスター)』をリリースしていた。2日後の10日にボウイは69歳で病死したが、遺作となった同作をプロデュースしたのも、トニー・ヴィスコンティだった。再集結後のインタビューで吉井和哉は、ボウイの死の衝撃についても語っている。結果的に再集結は因縁めいたものを感じさせるタイミングとなり、バンドになにかを引き継ぐような思いを抱かせることにもなった。


 かつて、THE YELLOW MONKEYが解散に至る過程には、吉井自らが認める洋楽コンプレックスがあった。「THE YELLOW MONKEY=黄色い猿」という日本人・アジア人の蔑称であり、悪ガキも意味する言葉をバンド名に選び、そのうえで洋楽っぽいロックをやる。1980年代に活躍したYellow Magic Orchestraにもみられた、洋楽に対する屈折した意識を、吉井も抱えていた。


 だから、台風に襲われた1996年の第1回フジロック・フェスティバルにTHE YELLOW MONKEYが出演した際、トリだったアメリカのレッド・ホット・チリ・ペッパーズなどとの間に感じた自分たちとの差は、彼を悩ませた。この先のTHE YELLOW MONKEYをどうすればいいのか、試行錯誤して自分たちを追いつめていった先が、活動休止、解散だった。


 吉井は、THE YELLOW MONKEYとしての活動期間をふり返ったインタビューで、レディオヘッド、パルプなどブリット・ポップ全盛だった当時のイギリスのバンドについて「きっと話が合うだろうな、この人たちと」と思い、同時代意識を感じていたことを語っている(秋元美乃・森内淳編『ロックンロールが降ってきた日2』)。また、自分たちもブリット風味になろうとしたら売れたと、「(笑)」入りの冗談混じりで話していた。その発言は、コンセプチュアルでグラム色が強くマニア向けだった初期から、よりポップでキャッチーな間口の広いロックへと変貌した出世作『smile』(1995年)の時期を指すのだろう。同作のジャケットは、ブリット・ポップの先駆けだったSUEDEのジャケットを意識したようなデザインだったことも、発表時は一部で話題になった。それくらい海外バンドを意識していたために、フジロックでの経験は大きかったのだろう。



 THE YELLOW MONKEYは再集結後にライブ・ツアーをスタートし、ROCK IN JAPAN FES.にも出演した。続いて、2016年のサマーソニックには、THE YELLOW MONKEYとSUEDEが、別ステージではあるけれど、同日に出演する。このことに感慨を覚える。いずれも1990年代に活躍した日英の両バンドは、デヴィッド・ボウイを筆頭とするグラム・ロックの影響を受けて出発し、解散していた時期を経て再集結した点が共通する。また、THE YELLOW MONKEYが登場するサマソニのメインステージでは、その日のトリをレディオヘッドが務める。そういえば、今年のフジロックの大トリは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズだった。時代の周期、めぐりあわせーーなんてことを感じてしまう。


 ただ、その周期のなかで、日本のロックのアーティストとファンの感覚も変わった。国内のロックが発展し、自給自足的に満たされる面が大きくなるにつれ、洋楽を意識する層は減った。ロックのサウンドに日本語の歌がのることに疑問や違和感を覚える人は、今では少数派だろう。洋楽の影響を受けながら日本のポップ・ミュージックを作ってきた過去の積み重ねが、現在の状況を作っている。THE YELLOW MONKEYもそうした先人に数えられるバンドだ。


 吉井和哉は洋楽志向ではあったが、彼がこの国の言葉で歌うメロディの抑揚や響きは、日本の歌謡曲、ニューミュージックの美点を継承してもいた。THE YELLOW MONKEYは、ハード・ロックをベースにした洋楽的演奏の骨太なグルーヴのうえに、昭和の歌謡スターだった沢田研二の系譜にあるような、吉井和哉の艶のあるボーカルがのるところに醍醐味がある。その意味では、とても日本的なバンドでもある。一般的な人気を得たのは、このためだと思う。


 吉井は、THE YELLOW MONKEY再集結の前年にあたる昨年、歌謡曲、演歌、ニューミュージック、ジャパニーズ・ロックのカバー集を2作まとめていた(『ヨシー・ファンクJr. ~此レガ原点!!~』『ヨジー・カズボーン~裏切リノ街~』)。2作において彼は、洋楽をとりこんで成長してきた日本のポップ・ミュージックのありかたを追体験したといえる。それは、ロックを含めJ-POPと呼ばれる現在の国内音楽の成立過程を、肯定する作業だったようにみえる。


 このため、今回の再集結は、吉井が洋楽に対する自意識に決着をつけ、THE YELLOW MONKEYはTHE YELLOW MONKEYとして日本のロックを鳴らせばいいという境地に達した結果だと、私はとらえている。彼らは再集結後、バンドの王道的サウンドの新曲「ALRIGHT」を発表し、そこでは今の自分たちをあらためて肯定し、再び羽ばたこうとする姿勢が歌われている。


 そして、意識が変わったTHE YELLOW MONKEYはサマーソニックに登場し、海外バンドや、J-POPの成立以後に結成された日本の後輩バンドと対峙する。この構図には、わくわくさせられる。(円堂都司昭)