メルセデスのルイス・ハミルトンとニコ・ロズベルグによる因縁のチームメイト対決が繰り広げられている2016年のF1は、束の間の夏休みに入っている。2000年以降のF1シーンを振り返る特別企画を全3回に分けて掲載しよう。
21世紀の夜明け前、ミハエル・シューマッハーとミカ・ハッキネンの一騎打ちとなった2000年シーズン。それはシューマッハとフェラーリの黄金時代の幕開けとなり、2005年にフェルナンド・アロンソとルノーに王座を明け渡すまで終わることはなかった。今回は、シューマッハーとハッキネンの熾烈なチャンピオン争いが行われた2000年以降、幾つかの印象的なシーズンを英AUTOSPORTのグレン・フリーマンが振り返る。
2000年:フェラーリ、長年の悲願達成
1997年、1998年、そして1999年と、あと一歩のところでタイトルを逃し続けてきたフェラーリ。ミハエル・シューマッハーは、フェラーリドライバーとして、1979年以来のドライバーズタイトルを獲得。ミハエルとハッキネン、2人きりの激しい争いが終始続いたシーズンであった。
両者にとってハイライトとなるレースは、間違いなくベルギーGPと日本GPだろう。ハッキネンはスパ・フランコルシャンで歴史に残る劇的なオーバーテイクを披露し、当時のウイナーに与えられる10ポイントを稼いでみせた。一方のミハエルは、フェラーリ移籍後初のタイトルを獲得した日本GPが自身のハイライトだと、2009年、英オートスポーツ誌に語っている。
火花散る2人のチャンピオン争いは、2000年シーズンの退屈な側面さえも覆い隠してしまった。シーズン全戦でフェラーリとマクラーレンの2チームだけが勝利し、ポールポジションとファステストラップをも独占。ミハエルとハッキネンは17レース中、じつに13レースで勝利を分け合った。フェラーリとマクラーレンの2チーム以外で表彰台を獲得したのは、ジャンカルロ・フィジケラ(ベネトン)、ラルフ・シューマッハー(ウイリアムズ)、ハインツ=ハラルド・フレンツェン(ジョーダン)の3名のみというシーズンであった。
ちなみに、前年の1999年シーズンは4チーム、6名のドライバーが勝利し、11名のドライバーが表彰台を獲得。フェラーリとマクラーレンのチャンピオン争いにジョーダンのフレンツェンが加わるなど、ミハエル・シューマッハーの負傷欠場もあり、波乱のシーズンだった。
2003年:予選方式とポイントシステムに大幅な変更
2002年、フェラーリが圧倒的な力を誇示し、シーズンを支配したことを受けたFIAは、大幅なレギュレーション変更を行った。最も大きな変更は、1時間のうち、12周の走行が許されていた従来までの予選セッションを、1周のタイムアタックにより順位を決定するワンショット方式へ変更したことだろう。
このレギュレーションは、金曜日と土曜日に1回ずつアタックを行い、金曜のアタックで土曜の予選の出走順を決定し、土曜のアタックで決勝レースのグリッドを決定するというものであった。
また、予選で搭載した燃料のまま、決勝レースをスタートするレギュレーションを利用するチームやドライバーが目立ち始めた最初のシーズンとなり、第2戦のマレーシアGPでは、ルノーのフェルナンド・アロンソとヤルノ・トゥルーリがフロントロウを独占した。
ポイントシステムに関しても1991年以来の変更となり、トップ6のドライバーに与えられていたポイントがトップ8のドライバーにまで付与されるようになった。それに伴い、1位と2位のドライバーに与えられるポイント差が2ポイントに縮まったことで、ミハエル・シューマッハーの独走に歯止めをかける一定の成果をもたらした。
これらのレギュレーション変更にもかかわらず、ミハエルは自身6度目のタイトルを獲得してみせた。とはいえ、2002年シーズンは7月に決定していたチャンピオン争いは最終戦まで持ち越され、マクラーレンに所属する若きキミ・ライコネンを2ポイント差で下してのタイトル獲得であった。
2003年シーズンは8名の勝者を生み(前年の2002年はフェラーリが17戦中15勝を記録した)ミハエル・シューマッハー、キミ・ライコネン、ファン・パブロ・モントーヤの3名のチャンピオン争いを演出する結果となった。
改定されたポイントシステムが接戦のタイトル争いをもたらしたものの、シーズン後半戦、FIAの指示によりミシュランがタイヤ構造の変更を強いられたため、結果的にチャンピオンの座は、シーズン最多の6勝を記録したミハエル・シューマッハーのものとなった。
予選方式やポイントシステムの大幅な変更の一方、マシンに関するレギュレーションに大きな変更はなく、マクラーレンは2003年シーズン途中に投入を予定していた悪名高いMP4-18を使うことなく、前年の改良型であるMP4-17Dでシーズン最終戦まで戦った。