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初代ゴジラの“呪縛”から逃れた『シン・ゴジラ』 モルモット吉田が評する実写監督としての庵野秀明

2016年08月17日 06:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『シン・ゴジラ』(c)2016 TOHO CO.,LTD.

 公開3週目を迎えても『シン・ゴジラ』の勢いは依然、衰えを見せない。IMAX、MX4D、通常上映と、毎回環境を変えて観ていたが、この原稿を理由にまた劇場に足を向けてしまった。高圧縮の情報量、現実の反映、オマージュ、トリヴィア、語られないまま終わった謎への解釈など、まるで20年前の『新世紀エヴァンゲリオン』テレビシリーズ放送終了後から翌年の劇場版公開にかけての熱狂が再現されているようだ--と言っては言いすぎだろうか。いずれにせよ、繰り返し観ることで細部を語る魅力が増す作品であることは間違いあるまい。


■マイナスをプラスにさせる庵野秀明のアレンジ
 ここでは、〈庵野秀明にとってのゴジラ〉から話を始めてみたい。というのも、特撮好きなエヴァの監督というイメージから誤解されがちだが、これまで庵野はウルトラマンほどの熱狂をゴジラには見せていなかったからだ。『シン・ゴジラ』の原点となる第1作の『ゴジラ』(54年)を庵野が最初に観たのは高校生の時というから、1976~78年頃だろう。地元、山口県の映画館で3本立ての1本として観たという。


 庵野は第1作について「幸か不幸か一作目にして完璧(略)映画として最初の『ゴジラ』を超えることは、それを作った人ですら無理」(『文藝別冊 総特集 円谷英二 生誕100年記念』河出書房新社)と絶賛する一方で、あまりにも完璧すぎたせいで、その後の日本の特撮映画は「初代『ゴジラ』の呪縛から逃れてない」(『アニメージュ・スペシャル Gazo画像 VOL.2』徳間書店)とも指摘する。
 
 1作目へのリスペクトはあるが、ゴジラ自体はそれほど好きでもないという庵野が『シン・ゴジラ』を撮るにあたって、「初代『ゴジラ』の呪縛から逃れ」るために取った戦略は、〈ゴジラが現れたことがない世界〉を設定したことである。だが、これ自体は庵野の独創でも奇抜なアイデアでもない。1993年に出版された『神(ゴジラ)を放った男 映画製作者・田中友幸とその時代』(田中文雄著/キネマ旬報社)の中で、東宝でプロデューサーを務めてきた田中文雄は、自らも参加した1984年版の『ゴジラ』をこう総括する。


 「最初の(昭和)二十九年版『ゴジラ』をリメイクすればよかったのである。なにかわからないが怪物が現れて日本にやってくるという設定なら、自衛隊が攻撃しようが何をしようと不自然さはない。(略)それなのに、このネックに気づくのがおそすぎた。“あの”ゴジラがやってくるという話を作ってしまったのである」
 
 そう、84年版『ゴジラ』は30年前に日本を襲った“あの”ゴジラが再び襲来するという物語だった。その後、日本で製作されたゴジラ映画も全て、「“あの”ゴジラがやってくる」世界観が踏襲され、『ゴジラ2000 ミレニアム』(99年)に始まる、いわゆるミレニアムシリーズでは基本的に1作目以外の物語が毎回リセットされるのがお約束になっており、「初代『ゴジラ』の呪縛」が極まった感がある。この縛りについて評論家の切通理作が『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(01年)を監督した金子修介へのインタビュー(『特撮黙示録1995-2001』太田出版)の中で、1作目をなかったことにしようと考えなかったのかと尋ねるくだりがある。


 金子の回答は「ゴジラでは難しいなと。これだけ作られていて知られている中で」というもので、確かに劇中の設定として、1作目をなかったことにすれば物語の自由度は広がるだろうが、観客からすれば、おなじみの「“あの”ゴジラ」に変わりはない。
 
 では、劇中の人物と共に観客も驚かせるにはどうすればいいか? 庵野が取った戦術はゴジラの形態を段階的に変化させることだった。冒頭の羽田沖で海上に姿を見せる巨大な尾に、〈“あの”ゴジラ〉と見くびっていた観客は、蒲田に上陸したそれが見たこともない巨大不明生物であることに驚くことになる。つまり、1作目のゴジラをなかったことにするという発想は先人も持っていたが、それを成立させるための手法を考えたのが庵野ということになる。
 
 これは『シン・ゴジラ』全体を通しても言えることで、精神的には1作目を継承しつつ、実際の映画の内容は84年版『ゴジラ』の修正リメイクと言っていい。原点回帰を目指し、現代の東京にゴジラが上陸したらどうなるか、災害、政治、国際社会との観点からリアルにシミュレーションした84年版には穴が多く、ありていに言えば失敗作なので手が届きやすい。ようは「初代『ゴジラ』の呪縛から逃れ」る抜け道となるのだ。


 一例だけ挙げると、84年版で有楽町のマリオン横を進むゴジラの前に乗客を乗せた新幹線が走ってくるシーンは失笑を買った。1作目でゴジラの足元に走行中の急行列車が衝突して転覆する有名なシーンのリメイク的な意味合いがあったのだろうが、運行管理システムで制御された現代に、ゴジラの目の前をノコノコ走ってくることがありえるだろうか。


 ところが庵野は『シン・ゴジラ』で逆に、どうすればゴジラと新幹線の組み合わせが失笑を買わずに可能になるかを考えるのである(鉄道好きだからでしょうな)。結果、『新幹線大爆破』(75年)を引用しながら、意外な形でそれを実現させ、1作目の列車衝突シーンを発展させたものを生み出した。84年版を間に挟むことでマイナスをプラスに転じさせるアレンジを可能にしたのである。
 
 ここまで84年版が『シン・ゴジラ』とって大きな意味を持つのは、時代の影響も無縁ではあるまい。前年には庵野が監督した伝説的な特撮自主映画『DAICON FILM版 帰ってきたウルトラマン』(83年)が完成し、『シン・ゴジラ』の監督・特技監督である樋口真嗣は84年版『ゴジラ』でプロの現場を初めて体験することになる。


 その後、庵野に紹介されて樋口は自主特撮映画の大作『八岐大蛇の逆襲』(85年)の現場に加わるわけだが、樋口は「『DAICON FILM版 帰ってきたウルトラマン』なんかを観ると、明らかにそちらの方が画づくりに対する、正しい取り組みと工夫を感じる。(略)あの頃、プロの現場にいて、『大阪の学生でもこれだけやってんのに、大の大人が集まってこの体たらくはなんだ』と感じて」(『ガイナックス・インタビューズ』堀田純司・GAINAX 著/講談社)と『ゴジラ』の現場に参加していた当時の心境を語っているが、実際、『シン・ゴジラ』には、この自主特撮映画2本の設定、描写が多数引用されている。


 30数年の時を経て、若き日の願望を実現させたとも言えるが、それが「初代『ゴジラ』の呪縛から逃れ」ることを可能にすると同時に、今度は若き日の自身という呪縛に囚われることになったのは皮肉でもある。


■正統派の原田と邪道の庵野
 次に、庵野の実写監督作品として『シン・ゴジラ』を考えてみたい。これまで長編実写として『ラブ&ポップ』(98年)、『式日 SHIKI-JITSU』(00年)、『CUTIE HONEY キューティーハニー』(04年)を撮ってきたが、個人的に『ラブ&ポップ』は90年代日本映画を代表する傑作と思うが――最初の2作はアニメ監督の余技であり、実験作と言っていい。ところが『キューティーハニー』は、一般観客向けのサービスを盛り込んだものの、庵野の考える実写エンターテインメントとのズレが露呈し、無惨な作品となった。それだけに『シン・ゴジラ』の総監督が庵野と発表された時に、実写での履歴を思うと不安を覚えた。


 庵野自身も過去に「実写とアニメでは業界からの見方が違ってきますから。『アニメやる』と言ったらすぐお金が集まると思います。(略)実写だと『庵野さんは実績がないから作れない』と。そこが大きく違います」(『文藝別冊 庵野秀明』河出書房新社)と語るように、バジェットの大きなゴジラ映画を撮るにあたって、これまでとは異なるアプローチを余儀なくされるのではないかと予想した。
 
 庵野の実写演出の特徴は、劇中で描写されるものを即物的に描こうとすることだ。『ラブ&ポップ』で、女子高生のヒロインが援助交際する相手の男が大事に持っているぬいぐるみは、原作に沿えばディズニーランドにあったアトラクション『キャプテンEO』に登場するファズボールである。しかし、商標権の問題があり、映画に登場させるわけにはいかない。通常ならば架空のキャラクターなどに置きかえるところだが、庵野はぬいぐるみにモザイクをかけ、台詞にはピー音を被せて画面にそのまま登場させた。出せないから映画らしく工夫する、置き換えるという工程をすっ飛ばしてしまうのだ。


 だから、この作品で女子高生が描かれると言っても、庵野にとっては理解不能の存在である。そこで無理矢理分かったふりをするのではなく、映像手法によって分からない内面を補完しようとする。当時はフィルムが主流だった映画撮影に、家庭用のデジタルビデオカメラを複数台導入してドキュメンタリー的に長時間の映像素材を撮影し、饒舌なまでのモノローグを挟みこみ、編集によって女子高生の内面を作り上げていくのである。
 
 そんな映画の作り方は邪道と思われるかも知れないが、例えば同時期に原田眞人が監督した『バウンス ko GALS』(96年)も同様に女子高生の援助交際を描いているが(庵野は自作の撮影前に現場を見学したという)、映画としては正統なアプローチを行って佳作に仕上がっているものの、女子高生を理解しようとしたせいで、おじさん目線の女子高生像に矮小化された感は否めない。


 これは、それから20年後に原田が再映画化した『日本のいちばん長い日』(15年)と、『シン・ゴジラ』の関係にも同じことが言えるだろう。共に岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(67年)が起点となっているが、映画としては真っ当な作りの原田より、邪道な作りの庵野の方が現代にふさわしい『日本のいちばん長い日』を作り上げているのではないだろうか。
 
■市川崑と庵野秀明
 一方で、庵野実写映画の最大の欠点となるのが、俳優という自意識を肥大化させた表現者をコントロールできないという問題である。基本的に演技は俳優にお任せで、庵野はカメラアングルや、画面内のレイアウトを作りこむことに専念しているのは映画を観ても伝わってくるが、『ラブ&ポップ』の様なドキュメンタリー的な手法が内容にも合致する場合は成功するものの、『式日』で藤谷文子と大竹しのぶのアドリブ合戦を長回しで見せるなどというシーンになると、過剰な演技を編集で除去できなくなり、映画全体の均衡すらも崩している。


 『キューティーハニー』は実写でギャグアニメ的な表現を再現する意図があったが、これこそ監督による演技のジャッジが重視されるにもかかわらず放置したことで、個々の俳優の資質、作品への理解が如実に反映されてしまう。嬉々として悪役をオーバーな芝居で照れずに演じてみせた及川光博だけがアニメ的演技に合致していることが明白になってしまう。
 
 こうした理由もあり、大勢の俳優を捌かなければならない『シン・ゴジラ』に不安を抱いたわけだが、自身の不得意な一面を自覚した上で状況劇に徹した物語が考えられたように、演技においても庵野は対処法を考えだした。まずは、『進撃の巨人ATTACK ON TITAN』『進撃の巨人ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』(16年)でアニメ的演技を自発的にこなしていた長谷川博己と石原さとみをピックアップして中心に据えることで、アニメの方法論を問題なく演技に持ち込めることになった。


 これまでの庵野実写映画は、アニメの様に細かく決め込まずに、思うままにいかない不自由さを庵野は新鮮に感じていたが、バジェットの大きな『シン・ゴジラ』ではそんな悠長なことは言っていられない。得意とするアニメ演出を実写で駆使し、いかに全体をコントロールできるかに成否がかかっている。脚本・編集・音響設計・画像設計・画コンテ・ゴジラコンセプトデザイン等まで手中に収めて総監督の席は確保したが、さて次の問題は主演以外の俳優たちをどうするか。そこで有効に機能するのが〈早口〉である。情報量の圧縮という表向きの理由だけでなく、早口は余計な感情表現や芝居の間を取らせる暇を与えない作用もある。
 
 ところで、次の言葉は誰のものか分かるだろうか?
「いつもぼくの脚本は二百五十枚ぐらいになるので、会社では百八十枚に短くしてくれという。枚数を縮めなくても会話のテンポを早くして百八十枚分の長さに短縮してみせる。日常生活だって、われわれはずいぶん早口でしゃべっているじゃないか、といってやった」
 
 『シン・ゴジラ』の早口の意図について説明する庵野の言葉と思いそうだが、『キネマ旬報』(1956年夏の特別号)に掲載された『市川崑自作を語る』からの引用である。これは『結婚行進曲』(51年)というコメディ映画について語ったものだが、この映画では登場人物全員が異様なまでの早口で喋ることで狂騒的にテンポアップされていく。
 
 ここで唐突に市川崑の名前を出したのは、『シン・ゴジラ』は岡本喜八の影響が濃厚と語られがちだが、映画全体の構造は確かに喜八映画とは思うものの、細部はむしろ市川崑ではないかと思えるからだ。市川崑と庵野と言えば、『エヴァ』のクレジットに見られた極太明朝体が、市川崑の金田一シリーズからの引用として語られることが多いが(塚本晋也が演じた生物圏科学研究科准教授が両手をポンと合わせて閃く仕草に、金田一シリーズで加藤武が演じた警部の決めポーズを連想したのは筆者だけではないだろう)、それ以前にアニメーター出身で即物的な描写を好む市川崑は、体質的に庵野とかなり近い。『ぼんち』(60年)でシネマスコープの画面に煙突を全部入れたいと言い出し、カメラを横倒しにして撮影して驚かせるなど自由奔放なアングルや目まぐるしい編集、『東京オリンピック』(65年)で人間よりも建物やメカニックなものへ執着を見せたところなど、庵野との共通点は少なくない。また『竹取物語』(87年)の特撮部分を市川崑はなかなかOKを出さず、光の加減など微細な注文を出してリテイクを繰り返したところなど、『シン・ゴジラ』のCGカットに庵野がなかなかOKを出なかったことを思わせる。
 
 閑話休題、『シン・ゴジラ』では特撮部分は〈過程〉を丁寧に描くのに、本篇のドラマは〈過程〉を省略するという特徴がある。冒頭の会議の席で、「中略」という字幕が出て台詞が省略されるが、巨大不明生物の出現から上陸、また自衛隊によるタバ作戦などは丹念に順序立てて描かれるのと対照的に、本篇は誰かを集める、何かを頼む、誰かを探す、何かを準備するという過程はすべて省略され、直ぐに結果が提示される。まさに「仕事が早い」。


 前述の庵野実写演出の特徴にも通じるが、描写を積み重ねて〈過程〉を描くことに興味がないのだ。そこが庵野実写の重大な欠落部分でもあったが、『シン・ゴジラ』でその欠点が目立たずに済んでいるのは、膨大な情報量と台詞を絶えず流し込むことで、過程の省略を補っているからだろう。そして、これまでの実写作品よりもアニメの方法論に意識的に近づけることで、本篇の描写がすべて記号として機能することになる。


 多用される顔のアップにしても、感情の流れでアップになるのではなく、戦車や電柱と同じく記号の一部となる。それこそ平泉成や渡辺哲の顔の凹凸をIMAXで観ると、まるでゴジラのように見えてくるが、実際、膨大なキャストの大半は顔で選ばれたのではないかと思えるほど、見事に顔の特徴が異なる。比較しやすいので再び原田眞人の作品を例に出すが、『突入せよ!「あさま山荘」事件』(02年)では同じ年頃で風貌も似た俳優が何組か登場するので混同するという声があったが、これは俳優をどう捉えているかの庵野と原田の違いである。
 
 こうして自らの欠点と得意とする部分を熟知した上で、アニメの様に実写映画を撮ることで『シン・ゴジラ』は従来の庵野実写映画にはない普遍性を獲得したが、映画の中心部に最初から空いていた穴を、八方手を尽くして埋めたような空虚感を感じなくもない。何度も観ている観客の一人ではあるが、その穴はまるで映画の最後に登場する科学技術館の屋上から東京駅までの間にポッカリ空いた都心の空白地帯を思わせる。


(モルモット吉田)