トップへ

荻野洋一の『ゴーストバスターズ』評:ポール・フェイグ監督がリブート版で捧げたオマージュの数々

2016年08月14日 16:41  リアルサウンド

リアルサウンド

『ゴーストバスターズ』より

 こんどのゴーストバスターズは中年女性たちによって結成される。この性別の転換こそ、新『ゴーストバスターズ』の中心テーマだ。しかも彼女たちはいわゆるデキる女性たちではなく、どちらかというと隅に置かれ、成功から見放された女性たちだ。幽霊退治は彼女たちにとって敗者復活戦の色を帯びる。


参考:池松壮亮がラブシーンに起用されまくる理由 そのドライで甘美な魅力を読む


 このリブート版『ゴーストバスターズ』の製作はトラブル続きで、難産の末にようやく陽の目を見たもののようである。もちろん作品はそうした困難をまったく感じさせない、じつにバカバカしく楽天性に満ちたホラー・コメディに仕上がっている。しかしながら、2008年ごろから準備が始まり、のちに製作中止に追いこまれた『ゴーストバスターズ3』を、ぜひ見てみたかったことも事実だ。


 クランクインさえできぬまま未完に終わった『ゴーストバスターズ3』は、1984年のパート1、1989年のパート2の正式な続編として企画され、監督アイヴァン・ライトマン以下、前作のゴーストバスターズチーム——ビル・マーレイ、ダン・エイクロイド、ハロルド・ライミス——が再結集しつつも、若手も登用するというものだったそうである。しかし、ウェス・アンダーソン、ジム・ジャームッシュ、ソフィア・コッポラなどのいわゆる「作家の映画」の人にすっかりなっているビル・マーレイが脚本に難色を示して出演を辞退、製作が一時凍結する事態となった。その後、気むずかしいビル・マーレイは辞退を撤回。やるならもっとヘンテコな役にしてくれという本人の要望にもとづいて、主演のビル・マーレイが上映開始5分で死亡してしまい、以後はゴーストとして登場するという内容となったらしい。


 そんな事情で撮影開始が遅延し、公開予定日もどんどん後ろにずれていた2014年2月、バスターズのメンバー、ハロルド・ライミスが病死。アイヴァン・ライトマン監督は『ゴーストバスターズ3』の製作続行はもうムリだと降板を発表し、お蔵入りとなった。アイヴァン・ライトマンは、『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』(2011)の監督ポール・フェイグを後任に指名。後を託されたポール・フェイグのもと、企画は続編パート3としての性格を完全に捨て、オリジナル版へのオマージュ作として再始動となったのだ。


 今にして思えば、ポール・フェイグの監督起用は大成功だった。旧作のアイヴァン・ライトマン監督とダン・エイクロイドをプロデューサーとして巧みに持ち上げつつ、キャストもスタッフも、完全にポール・フェイグ組によって仕切られている。新ゴーストバスターズチームを結成する2人の中年女性を演じたクリステン・ウィグ、メリッサ・マッカーシーはポール・フェイグ喜劇の常連コメディエンヌであり、クリステン・ウィグはシナリオライターとしてもフェイグ監督作『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』でアカデミー脚本賞にノミネートされている。ポール・フェイグは「他の人ならもっとうまくやれたのかもしれない」と謙遜しつつも、「僕に対してひどい言葉を投げかける人がいたら、 “ゴメン、でも僕のところに話が来たんだ” としか言いようがないよ」と語っている。


 映画は主役のクリステン・ウィグが、終身雇用の講師職をめざしていたコロンビア大学から解雇されるところから始まる。幽霊研究がデタラメだと白眼視されたのだ。これはまさにビル・マーレイと同じ運命で、彼も30年前、コロンビア大学から放逐されたのである。ゴーストバスターズという存在は、大学のアカデミズムから爪弾きにされ、次いで行政からも詐欺師あつかいされる。日陰の存在に甘んじた結社にすぎないが、そこには暗さも卑屈さもないという魅力がある。彼女たち(旧作では彼らたち)のアッケラカンとした、少し冷淡なくらいなありようが、このシリーズの最大の魅力なのではないか。好きなものの研究と対峙に人生の時間を全面的に投入しているという実感が、ゴーストバスターズたちを社会的な成功や、家庭の幸福からまったく切り離された、ある倒錯的な愉悦へと到達させているためである。


 そして何といっても、全世界の誰も知っているあの有名なテーマソングである。映画の最初の方でさっそくレイ・パーカーJr.によるオリジナル版が流され、その後もヴァージョン違いで変奏されていくが、原子力エンジニアのケイト・マッキノンが自作のビームガンをゴーストたちに向けて乱射するシーンで、テーマソングが大音量で流れる。これは本作で最もボルテージが上がる場面だった。役立たずの電話番として出演するクリス・ヘムズワースは、女性映画としての本作における白一点として、最高のヘタレぶりを披露する。『ラッシュ/プライドと友情』『白鯨との闘い』『スノーホワイト/氷の王国』『マイティ・ソー』と最近は2枚目ヒーローばかり演じてきたクリス・ヘムズワースが、テーマソングに合わせて、80年代風ディスコダンスをバカバカしく見せつけるエンドのタイトルバックによって、この新『ゴーストバスターズ』がどういう映画だったのかが、改めて理解できるだろう。


 1984年の大ヒット作『ゴーストバスターズ』は、ユダヤ系チェコ人アイヴァン・ライトマンを一躍ハリウッドの名匠入りさせた。彼は、ハンガリー出身のカメラマン、ラズロ・コヴァックスを撮影監督に起用した。ラズロ・コヴァックス(ハンガリー語では苗字と名前が日本と同じ順序となるため、正しくはコヴァーチ・ラースローとなる)はハンガリー動乱の際にアメリカに亡命してきたカメラマンで、『イージーライダー』『ファイブ・イージー・ピーセス』『ラストムービー』『ペーパー・ムーン』など、いわゆる「アメリカン・ニュー・シネマ」のカメラマンとして名を馳せた。


 アイヴァン・ライトマンがラズロ・コヴァックスを起用した理由として、同じハンガリー人のヴィルモス・ジグモンドと共同でスティーヴン・スピルバーグ監督『未知との遭遇』(1977)の撮影監督をつとめたことが上がるだろう。SF映画の金字塔『未知との遭遇』は、とりわけ夜間の場面における幻想的な光の扱いに特徴のある作品であることは、誰もが知っているだろう。SF映画のファンダズムに、ラズロ・コヴァックスが持ちこんだ「アメリカン・ニュー・シネマ」的リアリズムがみごとに融合した傑作だった。


 アイヴァン・ライトマンがラズロ・コヴァックスを招聘し、『未知との遭遇』を想起しながら『ゴーストバスターズ』を作ったのはまちがいない。夜のイルミネーションに照らされたニューヨークのマンハッタンにゴーストが跳梁跋扈するという図を妖しく画面に焼きつけたのは、チェコ出身の監督アイヴァン・ライトマン、ハンガリー出身の撮影監督ラズロ・コヴァックスという東欧コンビだった。そこには、ハンガリー動乱、チェコ事件(プラハの春)から遠くない東西冷戦の末期としての1980年代という時代が色濃く反映されている。


 今回の監督ポール・フェイグと、撮影監督ロバート・ヨーマン(ロバート・イェーマンという表記もあり)のコンビもライトマン=コヴァックス組に決して負けていない。『ファンタスティック Mr. FOX』をのぞくウェス・アンダーソン監督の長編作すべての撮影を担当したロバート・ヨーマンは、ポール・フェイグともコンビを組んできた。『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』(2001)を撮った(もちろんアメリカではカメラを回すのはオペレーターであるが、比喩的に)ロバート・ヨーマンが再びマンハッタンにファインダを向け、夜の街角に数えきれぬほどのゴーストを跳梁跋扈させる。この光景に興奮できる感性こそ、映画的感性と言っていいだろう。


 そしてラスト、マンハッタンのイルミネーションには泣かされた。大学のアカデミズムから爪弾きにされてキャリアを絶たれ、行政やマスコミにはペテン呼ばわりされても、市井の人々は彼女たちの貢献をちゃんと分かっているのである。撮影ロバート・ヨーマンの面目躍如だろう。


 余談だが、シリーズ前作はもちろん、さまざまなSFやホラーへのオマージュが込められた本作でとりわけ印象深かったのが、スタンリー・キューブリック監督への言及である。むかし書いた幽霊本を恥じるクリステン・ウィグが、販売停止を頼みに久しぶりに共同著者メリッサ・マッカーシーに会いに行く場面。メリッサ・マッカーシーは「Well, well, well, well, well…」と応じるのだが、これはキューブリック『時計じかけのオレンジ』(1972)で、暴力性除去の洗脳施術を受けたマルコム・マクダウェルが、警官に転身したかつての悪友に出くわす場面でその警官が「Well, well, well, well, well…」とマクダウェルに向かって言う、その口まねをメリッサ・マッカーシーはしていたのである。


 そしてバスターズの唯一の黒人女性レスリー・ジョーンズが、幽霊を捜索しながら、「私は『シャイニング』の双子姉妹と出くわすのはゴメンだよ」と言ったとたん、目の前の部屋におびただしい数のマネキン人形が立てかけられている。これはスタンリー・キューブリックの初期作品『非情の罠』(1955)から来ている。そのマネキンがいつのまにか移動しているのは、ウィル・スミス主演のSFホラー『アイ・アム・レジェンド』(2007)から来ているだろうし、マネキンがドアを叩き壊して部屋に入ろうとする場面は、キューブリックがD・W・グリフィス監督、リリアン・ギッシュ主演の名作『散り行く花』(1919)に思いを馳せながら演出したというホラー映画『シャイニング』(1980)のあまりにも有名な斧の場面から来ているだろう。


 本作は、エンドクレジットの最後で、亡きハロルド・ライミスに捧げられている。(荻野洋一)