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菊地成孔の『ケンとカズ』評:浦安のジュリアス・シーザー/『ケンとカズ』を律する、震えるようなリアルの質について

2016年08月06日 11:31  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)「ケンとカズ」製作委員会

■HIP HOP(中でもG-RAP)の特異性


 今では、「お茶の間の人気者」の臨界まで来ていると言って良いMC漢の名著「ヒップホップ・ドリーム」に活写される、あるいは氏のリリックにエグいまでに描かれる、新宿をフッドにしたハスラーライフのリアルに関して、ほとんどの日本人は、深く納得し、震えながら、同時に納得できないでいる。構造的な矛盾と言って良い。


 それは「これは本当のことだと思うのだけれど、でも、これが本当のことで、なぜ、本に書いたり、ラップにしたり、MVに本物の大麻が大量に写ったりしても捕まらないのか?」というもので、氏を疑っているのではない。絵に描いたような、これはパラドックスであって、おそらく当のMC漢氏も、思考のどこかで気づいている(=とぼけている。と言っているのではない。氏はパラドックスを生きている)。


 HIP HOP、特にG-RAPというカルチャーの特殊性がここにある。所謂「不良文化」の中でも、程度や量的な差ではなく、明らかに質的な特異性がある。彼らも含め、DQNを正視する事ができない人々は、物が正視できない人間の限界として、何でもかんでもごっちゃにしてしまう。


■「不良文化」のエンターテインメント化について


 筆者は歌舞伎町在住時に、今は亡き「歌舞伎町クラブハイツ」で不定期に行われていた「素人の喧嘩の地下大会」である「頂上 (「てっぺん」)にも通っていたし、これを前田日明氏がアマチュアスポーツにブロウアップした「THE OUT SIDER」の立ち上げから数年間は、ほぼ全大会を観戦した。


 「頂上」はリングドクターもおらず、怪我があった際は、急患の受け入れ態勢が整っている、会場に隣接した「大久保病院」に 急患で運ぶ事になっていた。筆者はインフルエンザの罹患でここの深夜急患となった事があったが、後頭部がばっくり割れて背広の背中を血で染めながら携帯電話で事務所に指示出しをしている者や、泡を吹いて暴れ、看護婦たちに抑えつけられている者、怒鳴り続ける者、筆者のような、地域住民で急病にかかった者などが入り混じり、公衆電話の上には「治療が終了したのに長居した者、大声を出した者、器物を破損壊した者がいたら即補導措置を取ります 新宿警察」という張り紙が貼ってあった。


 アンダーグラウンドからオーヴァーグラウンドにステージを移したものの、初期の「THE OUTSIDER」の入り口にはバウンサーがおり、観客は荷物を金属探知機に通され、エモノ(柄物)があった場合は没収された。


 とはいえ、ほぼ全員に和彫りが入っていた(現在はそうでもないが、開催当初は和彫りの展覧会という側面もあった団体だった)選手たちは、「格闘技によって」「更正した」という錦の御旗があった。それは一部ではリアルだろうし、一部ではフェイクだったろう。しかし、公式見解はそうなっていた。


 遠い古代では「ロックンローラー」もそうだった。彼らは「音楽によって更正した」というデフォルトで、どれほどワイルドに振舞おうと、それは「昔の名残」をカリカチュアライズしたものだった。


 彼等を「怖い」と思う人々は、彼等の「昔の名残のカリカチュア」に恐れおののいていることになる。「怖さ」とは何だろうか?


 しかしロックンローラーもラッパーも音楽家、つまりはエンターテイナーだ。我らが50CENTのブリンブリンのネックレスやクソでかいアメ車がレンタルだった。というニュースの悲しみには「やっぱりな」という感覚に立脚している。しかし、50の体内にはまだ取り出せない銃弾が埋まっている。リアルはどっちだ。


 しかし、「リアル」を旨とし、「フェイク」は撲滅しなければいけないG-RAPPERたちは「更正しないままエンターテイナーに成る」というパラドックスを生きる(麻薬中毒患者もしくは精神病者が一流プレイヤーであるとイメージされた、60年代までのジャズミュージシャンも同様である。筆者はここ「にも」ジャズとヒップホップの隔世遺伝性の一端を見る)。


 これは100%の新種ではない、むしろ幼形成熟と似ている。ロックンローラーも、ブルーズメンも、ジャズのダンスバンドのリーダーも、ソウルシンガーさえ、発達の最終段階では「更正」したことにする。その構造だけが「遵法の不良」として唯一のものだからだ。実際、どれだけ楽しいエンターテインメント業界の、どれだけ楽しいエンターテイナーが、どれだけの犯罪を犯し、裏ではどれだけ「怖い人」なのかは、観客には想像もつかない。誰もが怖い人と認識するG-RAPPERたちは「遵法の犯罪者」なのか「違法の犯罪者」なのかさえ、空中に浮いている。パラドックスがそのままリアルとして凍結保存されている。


 そして転ぶことも簡単だ。怖い者、は、面白い者、に、比較的簡単に反転する。あのチーフキーフがとうとうセルフパロディをやり、MVに登場する(ほぼ間違いなく本物の)軽機関銃をランボーのようにぶっ放し、特殊メイクの敵が、頭部だけ吹っ飛ばされた時、我々は手慣れた調子で、転向を一つ数え、微弱な寂しさとともに、肝の底からホッとするのである。未発達のまま、独自の危険なリアルを放っていた、異界の住人が、自分の友人になるからだ。


 刺青もパーティーグッズの札束も、チャカの一発も引かない事よりも、「ケンとカズ」に流れる音楽に筆者は強く感心した、この作品を観た者が誰でも言うであろう「シェイクスピア的な血の悲劇」のバックに流れるのは、逐語訳のようにして、重く暗い和音の継続、つまりシェイクスピア悲劇に流れるような音楽のみで、HIP HOPを(状況音としても)一切流さない。


 勿論筆者は、ハスラーライフとエンターテイナーの二律背反を、フェイクと言っているのでは全くない。彼らの非常に奇妙でアクロバティックな立場と比べれば、本作「ケンとカズ」の登場人物は、もっとずっとシンプルにリアルで、彼らは、簡単に言えば、「音楽どころではない」暮らしをしている。


 空族が製作した傑作「サウダーヂ」は、地方の暴力団が、(後に殺人を犯す)ラッパーに向かって「なあお前、ヒップホップもいいけど、そろそろ止めてウチに来ねえか?」という名台詞を積載したが、ケン、カズ、テル、藤堂、田上、国広等スクエアプッシャー及び、その指示者等の暮らしは、音楽どころではないどころか、あらゆる、それどころではない、底辺の暮らしである。一瞬の気も抜けず、悲しみと真実だけが張り巡らされる血の悲劇である本作の中で、救済の、導引の天使は、音楽やダンスやペイントや、車や酒やセックスやドラッグですらない。ギリギリまでカズを守る彼の妻と子は、本作のラスト、美しいまで惨たらしく、流麗とすら言えるナイフの移動を見せる刃傷沙汰の数日前に、逃げてしまう。それは、冒頭近くに一瞬出てくるパチンコ、そして、藤堂の好物であるプッチンプリンとビールだけだ。


■浦安とは如何なる場所だろうか?


 ご存知の通り、ネヴァダ州ラスヴェガスはネヴァダ砂漠のど真ん中にある人口の楽園であり、周囲には核実験場で有名なネヴァダ砂漠が広がっている。


 本作の第一のリアルは、初めて「東京ディズニーランド」という人口の楽園の周囲を描いたことである。米軍基地のある街とも、昔の屠殺場がある街とも違う。東京ディズニーランドに向かう者たちが全員抑圧している「楽園の外に広がる闇」に何があるか。まだいくつか残っているこの国のタブーのひとつを、30歳の監督は「自分の家の近くだから」という理由で突破した。


 バロウズは言った。「ジャンキーも、プッシャーも、組織も、自然にしていれば劣化する。麻薬自体もだ。それが自然だ」。本作の第二のリアルは、バロウズの金言に忠実であること、それが現実社会と完全にシンクロしていることである。混ぜ物が多く、外国からの密輸ではなく、そこらの工場内で精製してしまう、安物の覚せい剤のマーケットが広がる。多少危険でも、効果が劣化しても、安価さに人は群がる。たったそれだけのことが、この物語をシェイクスピア悲劇にまでスムースに運行する。


■「完璧」という状態がもたらす、極度の緊張感と幸福感の同居


 ブレッソン式とは若干違う、とはいえ、「有名な役者の顔は写さない」という縛りは、完全に成功している。大した数ではないと思いながらも、よく考えると結構な数の登場人物たちに、一人も無駄顔はない。演技もそうだ。毎熊克也の見事なゴン太顔自体は珍しいものではない。しかし、「不良がなぜ不良になったか」というフロイド的な、つまり、かなり図式的な設定を、ここまで見事に演技に取り込んだ俳優がいたであろうか?


 アルトマン版「ロンググッドバイ」のエリオットグールドにしか見えない、カトウシンスケの「良い顔」と「良い体つき」ぶり、高野春樹の演技プランとその実行によってもたらされる「恐ろしいほどの不安定さ」は、高野が不安定なのか、高野演ずる藤堂が不安定なのか全く区別がつかない。


 「日本の有名な俳優」達は、演技をしているのだろうか? 蜷川のシャクティパットを失った我が国の「オーヴァーグラウンダーの演技力」に、どれほどの砂金が残されているのか? 筆者は「素人(乃至、「素人に近い俳優」)を使えば、リアルになる」という考えの安易さには否定的だ。しかし、本作は、間違った顔をした者も、間違った演技をしている者も、一人もいない。誰もが映画を見ながら、約束事のようにして、この事を信じたがる。しかしこれは、実際には驚くべきことだ。


 何故ここまで、ある程度は特殊な世界の出来事を、これだけの俳優達が、ドキュメンタリー性の全く無い完全無欠の劇映画で、全員が完璧な演技を遂行できるのだろうか。


■浦安のジュリアス・シーザー


 脚本自体は、「さらう」等々のスラングも含め、一貫してリアルではあるが(彼らがスマホ持ちでなく、全員がガラケーを使っているのは、言うまでもないが、貧困や文化的な遅れとかではない)、否、リアルであらばこそ、終結部まで実は大したことは起こらない。不自然な仕掛けも、どんでん返しも、伏線とその回収もほとんどない。彼らの境遇も、浦安という舞台も、ひたすらリアルなだけであって、つまり、驚くべきことはほとんどない。セットされた状態が壊れ始めるのは、前述の「ドラッグカルチャーが劣化に向かう」という定理だけだ。


 そして、そうした「ほとんど何も起こっていないというリアル」の果ての果てに、本作は、多くの有識者が指摘するであろう、シェイクスピア劇や歌舞伎にも似た、高い様式性へと到達する。


 数名の人物の立ち位置、そこを、本作で初めて登場する凶器である、一本のナイフ(厳密には1・5本)が、美しいまでの移動軌跡を見せる。運命の糸に操られるようにして、男たちは計算されたように見事なフォーメイションで刺し合い、殺し合い、一人だけが生き残る。愛なき世界での愛が、蒸せ返るように湧き上がり、交差し、そして、すれ違って行く。歌舞伎の黒子のように。


■しかし。である。テーゼは冒頭に戻る。


 異形のエンターテイナーであるG-RAPPERとは真逆に、俳優たちは全員がフェイクである。30歳の監督は一体、どんな 人物なのであろうか? 友人にプッシャーや準構成員がいるのであろうか? それとも、あのフェリーニが「甘い生活」のラストの乱行パーティーシーンについて、「実際私は乱行パーティーなど見たことも聞いたこともなかった」ので「取りあえず、そういう経験がありそうな、パゾリーニに話を聞きに行った」ようにして、誰かに聞きに行き、そしてフェリーニのように「いや自分もそんな経験はない」と一蹴され、仕方なく自分のイマジネーションで埋め尽くしたのだろうか? 筆者は、エンドロールを眺めながら、ただ虚脱していた。それは、90分以上、極度の緊張感が続き、それがクライマックスで、逆方向に振り直された事に依る。「最後の、ジュリアス・シーザーの幕」は、一見、そこまでのリアルさが平行に継続しているように見えるが、実は違う。演技から物語まで、リアルさが反転するのである。様式美は、フェイクというより、アンリアルだ。リアルの果てにアンリアルを「そうとは気付かせないように」設置した監督の手腕は恐ろしいほどである。再び、監督は、妄想と実体験、どちらを使って、この、男の友情と、人生の選択、そして運命論的な悲劇を描くセッティングを整えたのだろうか? もしそれが妄想なのだとしたら、G-RAPというエンターテインメントと、底辺の人々を描く劇映画というエンターテインメントの質差は、豊かすぎると言えるほど大きい。(菊地成孔)