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演劇、音楽ライブ、落語、歌舞伎……映画館で多様なエンタテイメントを“観る”メリット

2016年07月25日 12:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『ベルリン・フィル・イン・シネマ:サイモン・ラトル指揮“ベートーヴェン交響曲第4番と交響曲第7番” 演奏曲:ベートーヴェン交響曲第4番と交響曲第7番』

 東京は立川にある独立系シネコン、【極上爆音上映】で知られる“シネマシティ”の企画担当遠山がシネコンの仕事を紹介したり、映画館の未来を提案するこのコラム、第6回は“エンタテイメントの多面化”について。


参考:滝沢秀明、濃密ラブシーンで一皮剥けるか? 今夜初放送『せいせいするほど、愛してる』への期待


 この連載でも何度か触れていますが、ここ数年、映画館ではいわゆる映画だけでなく演劇や音楽ライブ、落語や歌舞伎を撮影したものが頻繁に上映されるようになってきています。


 例えば、近い日付なら「ベルリン・フィル・イン・シネマ」が上映されました(東京・恵比寿ガーデンシネマでは7月23日から)。サー・サイモン・ラトル指揮で、ベルリン・フィルの2015年~2016年に行われたコンサートの中から選りすぐりの演奏を3回に分けて上映するというもので、第1弾はベートーヴェンの交響曲4番と7番。


 ベルリン・フィルの演奏の映像作品は4年前に「ベルリン・フィル3D "音楽の旅"」というまさかの立体映像で演奏の様子を撮影するという実験的な作品の上映もありました。


 映画館でオーケストラの演奏映像を流すということと逆に、音楽ホールで映画を上映して、劇伴を消して生のオーケストラが演奏する、というエンタテイメントがここ数年で流行り始めています。


 これまでに「ウエスト・サイド物語」や「ゴジラ」「ロッキー」「タイタニック」などで行われ、また映画を丸々1本上映するのではなくティム・バートン監督のフィルモグラフィのテーマ曲をダイジェスト映像を流しながら演奏したり、ディズニーアニメの曲をやはりダイジェスト映像とともに演奏する「ディズニー・オン・クラッシック」などもありました。


 オーケストラの演奏だけだと、なかなかお客さんを集めるのは難しくても、映画と組み合わせることでエンタメ度が格段にアップし、映画ファン、新しいもの好きをコンサートに連れてくることが可能になります。


 歌舞伎でマンガ『ONE PIECE』が題材とされて大きな話題になりましたが、この“他のエンタテイメントのお客さんを引っ張ってくる”というのは間口の拡げるのにとても有効な手段です。


 映画館も、音楽ライブに、演劇に、落語に、歌舞伎に、バレエにオペラと、どんどん手を出しています。デジタル技術の革新が、撮るのも映すのも、安価に簡単になったため、それまでは割が合わなかったことが合うようになってきたのです。そして最初は“奇手”だったものが繰り返すことでやり方が洗練されていって質が上がり、新しいエンタテイメントとして成立をし始めています。


 生の舞台や演奏を撮影して映像作品にすることは、単に記録というだけでなく、それはひとつの表現手法になります。確かに“そこで人がパフォーマンスしている”ということの実在感と緊張感は著しく失われます。これは最大の欠点。


 しかしメリットも大きいのです。まずひとつは、視点の自由化と均質化。


 生のステージでは観客がどこを観るかは観客に任せられます…というような言い方をすれば美しくも感じますが、実際は座席位置によって視点の自由はかなり制限されているわけです。音楽なら、ギターソロがヴォーカルの影に隠れてまったく見えない観客が出たり、演劇なら前の方の席で役者の表情は観られるものの、全体が見渡せず把握しづらいというのはよくあることです。映像ならば適時アップになったり、角度が変わったり、全体を引きで捉えたりして、視点は固定化されません。


 つまり生の舞台や演奏では、座席位置によって同じモノを観ても受け取るものがかなり異なっているということです。ハコが大きくなればなるほどその差異は大きくなり、例えばスタジアムのアリーナの最前列あたりの観客と3階席の右端あたりの観客とでは音響的にも視覚的にも、似ているけれど別のものを観ているといっても過言ではないでしょう。


 映像を映画館で観る場合は、それに比べると座席位置による変質はかなり小さなものです。サイズの大小はあれど、同じスクリーンを観ていれば観客は全員同じ映像を観ているわけです。ハコの大きさもせいぜい600席が最大です。


 また良し悪しは別にして、物語進行上、今観るべきところが映り続けるわけですから作り手の意図はかなり正確に観客に伝わります。脇役の女優の美しさに見惚れて、主役の重要な動きを見逃した、ということは起こりません(笑)。


 もうひとつは、細部を捉えられることです。


 役者の瞳の動きとか、ピアニストの運指などは、生の場合、最前列あたりの観客ですら観られるかどうかわかりません。


 例えばお芝居で、息子の重大な告白を父親が黙って聞く、というような場面があったとしましょう。感情を剥き出しにして身振り手振り大きく話す息子。何も言わず動かず椅子に座ったままうつむき加減の父。静と動のコントラストで関係性を描くこの場面、父は肩を震わせている。観客は表情は見えなくとも、父が泣いているのがわかります。


 しかし、どう泣いているのか? 眉間にしわを寄せているのか、わずかに微笑んでいるのか。膝に置かれたその手は固く握られているのか、開いているのか。この違いで感情の描写をずっと繊細に複雑に行うことができるはずです。しかし、それは多くの観客には見えない。


 ですが映像なら、表情を、手の演技を、すべての観客に伝えることができます。


 舞台を観たときには、父は最後に息子を許したのだと思った。しかし映像に映る父は、こらえるように強く下唇を噛みしめていたのだった。この後、息子の肩にやさしく手を置いた、その行動とうらはらに、父はやはり最後の最後まで心の底からは息子を許すことはできなかったのだとわかる、というようなことがあり得るのです。


 このように解釈の相違が起こるほどではなくても、表情や身振りの細部が見えることで、人物への感情移入度はかなり高まります。音楽ならば、ミュージシャンのテクニックをはっきり見ることができたなら、曲への理解が変わります。


 生のステージの録画映像が、単に記録、あるいは劣化した代替物というのはでなく、表現足り得ることがおわかりでしょう。このことは、ひとつの作品に対して、観客は複数のアプローチが可能になるということでもあります。


 舞台を映画化するとかノベライズするという変換ではなく、舞台そのものでありながら観る手段を変えることでその作品の持つ別の側面を観られるという面白さ。“いわゆるメディアミックス”とは別次元のメディアミックスというものがもっと頻繁に行われるようになったら絶対に面白くなります。そこには新しいカルチャーだって生まれるはず。


 具体例をあげれば、ビョークはアルバムのコンセプトにしたがって、お台場の科学未来館でライブをしました。ステージ上部をぐるりモニターが囲み、強烈な映像演出がありました。そのライブの録画が(収録場所は別)、ライブハウスと映画館で上映されました。僕は科学未来館でこのライブを生で観て、映画館でも観ました。家でヘッドマウントディスプレイを使っても観ました。同じライブでありながら、映像と音楽(と空間)が複雑に形態を変えて交錯するわけです。それぞれに別の体感があって、非常に面白い体験でした。


 こういうこと自体は以前からあって、すごく新しいことだとは言えませんが、技術革新がクオリティを上げてコストを下げたこと、インターネットの発展が頭打ちになって揺り戻しで人々が“場”を求めるようになってきたことが、これからの発展の希望を感じさせます。


 あらゆるエンタテイメントが、混じり合って進化していく未来。You ain't heard nothin' yet !(お楽しみはこれからだ)(遠山武志)