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SMAPは終わらないーー気鋭の批評家・矢野利裕による新たなグループ論

2016年07月24日 13:01  リアルサウンド

リアルサウンド

矢野利裕『SMAPは終わらない 国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」 』(垣内出版)

 ジャニーズ文化の根源に迫った『ジャニ研!』(原書房)の著者の一人である、批評家・矢野利裕による書籍『SMAPは終わらない 国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」 』が8月9日に発売される。


 2016年1月、日本全体を揺るがしたSMAP解散騒動。『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)でのメンバー謝罪会見を端に、矢野氏が執筆したコラム「SMAPは音楽で“社会のしがらみ”を越えるか? ジャニーズが貫徹すべき “芸能の本義”」の反響を受け、この度緊急出版。世界にひとつだけの「SMAP」の存在と今後を、音楽と芸能から紐解いた“SMAP論”の決定版となっている。


 当サイトでは、本書の発売に先駆けて、第一章「SMAP的身体論」の一部を抜粋して掲載する。SMAPがもたらした、華やかなスター性とは異なる新たなアイドル像とは。(編集部)


■第一章 SMAP的身体論より、「解散騒動へ/から」一部抜粋


 2016年1月18日、『SMAP×SMAP』において、SMAPから視聴者に向けての謝罪がおこなわれた。解散騒動で心配をかけてしまったが、SMAPは存続するからこれからも応援して欲しい、と。メンバーそれぞれの謝罪の言葉のなかには気になるものもあったが、僕がいちばん気になったのは、やはり彼らの表情だった。そこには、これまで述べてきたようなSMAPの魅力が、まったくと言っていいほど感じられなかった。〈SMAP的身体〉の魅力を支える自由と解放の気分が、そこにはほとんどなかった。映っていたのはむしろ、自由を抑圧されて、社会のしがらみにがんじがらめになった、スーツ姿のメンバーたちであった。中居を筆頭に、言いたくもないことを言わされているような、そんな印象を抱かせる謝罪の模様だった。もちろん、これまでのSMAPだって、放送コードやスポンサーとの関係もあるし、言えないことやできないことはたくさんあっただろう。しかし、さまざまなメディアを通じてSMAPが示してきたのは、なにより社会的な関係性から解放されているような魅力だったはずである。社会からの解放など幻想?


 いやいや、そのような幻想を体現するものこそ、〈芸能〉なのではないか。社会的な関係性からほんのひととき自由になりたいからこそ、僕らは歌や踊りや芝居に触れようとするのではないか。だからこそ、自由と解放の気分をまとったSMAPを観たり聴いたりするのではないか。その、ほんの一瞬の解放感こそが、〈芸能〉的な真実ではないか。だから、僕が聴きたかったのは、社会に向けた謝罪の言葉ではありえない。そんなものにはまったく説得力がない。歌だ。歌が聴きたかったのだ。まるで個人の自由を認めない、時代遅れで旧い体制の事務所に対してだって〈時代遅れのオンボロに乗り込んでいるのさ/だけど降りられない/転がるように生きてゆくだけ〉と高らかに、そして批判的に歌うことがあったならば、それはなにより「俺たちに明日はあるのだ!」という強い決意を体現したはずだ。小沢健二がフェイヴァリットに挙げた、「俺たちに明日はある」(1995)という、あのフリーソウルの名曲こそを、あのときに聴きたかったのだ。したがって、ジャニーズ事務所の対応は間違っている。個人の意志を尊重しないありかたも大問題だが、なにより、あのSMAPから自由と解放の気分を奪おうとしたこと。SMAPが獲得した〈SMAP的身体〉を奪おうとしたこと。そのことが、〈芸能〉を社会に届ける事務所として、絶対的に間違っている。


 自由な振る舞い。個性の解放。多様性の喜び。あの生放送は、SMAPがアイドルシーンにもたらしたゆたかなものを、ことごとく踏みにじっていたように思えた。あんな表情を見せられるくらいなら、グループとしてのSMAPの存続などなんの意味もない。いっそ解散してしまえばいい、とすら思った。よし、わかった。さまざまな社会的な関係のなか、SMAPが簡単に解散に踏み切れないことは、百歩譲って理解しよう。しかし、だとすれば、あの場ではやはり、歌い、踊るべきだったのではないか。複数的なリズムとグルーヴに彩られた〈SMAP的身体〉を披露すべきだったのではないか。まったく、最悪のステージングだった。


 ただし、である。ただし、もしかしたら、あの謝罪にも見るべきものがあったのかもしれない。あんな社会のしがらみの最前線に立たされてもなお、彼らは、〈SMAP的身体〉を生きていたのかもしれない。そんなことを思ったのは、1月18日の『SMAP×SMAP』が放送された翌日、1月19日の『JUNK 爆笑問題カーボーイ』(TBSラジオ)を聴いたからだ。SMAPに詞を提供したこともある爆笑問題の太田光は、この一件について話していたのだが、そこで太田は、SMAPについてさまざま語るなかで、あの謝罪について次のように言っていた。


そこはだって、木村拓哉かっこよかったもん。昨日もちょっと口をこう(キュっと)やるあたりが、この野郎、やっぱここでもかっこよく言うなあとかさ、思ったもん、俺。ニクいなあ、この言いかた。セリフをこう、「前を向いて」って、あの感じとかさ。パワーあったもん、あの画(え)がさ。


 SMAP同様、〈芸人〉として舞台に生きる太田は、さすがに〈芸能〉に対する感受性が強い。多くの人が社会的なしがらみしか見えていなかったときに、太田は、木村の俳優としての身体に注目していた。相方の田中裕二も同じように、「それはやっぱり、ああやって5人並んでやるっていうのは、いわゆる画力(えぢから)的なことで言ったらさ、すごいじゃん」と、テレビに映し出された〈芸能‐人〉の身体を評価していた。なるほど、そのような視点で振り返ると、木村から遠く離れた位置にいた中居の、ふてくされていたような、それでいて疲れ切っていたような表情に対しても、ルーズでズレをともなった〈SMAP的身体〉の魅力を再発見できそうな気がしてきた。これはさすがに、SMAPにロマンを抱き過ぎだろうか。しかし、少なくともある人にとっては、あんな事態のただなかで、〈芸能‐人〉としてのSMAPに魅了されていた。あんな事態にあってなお、5人の身体には、多様な価値が見出されていた。汲めども尽きぬ多様な価値が。そのくらい、〈SMAP的身体〉は強い。〈SMAP的身体〉はつねに/すでに、社会のしがらみからするりと逃れ、自由と解放の気分をともなった鮮烈な輝きを発している。(矢野利裕)


※続きは、書籍『SMAPは終わらない 国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」 』にて。