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宮台真司の『シリア・モナムール』評:本作が『ヒロシマ・モナムール』の水準に留まる事実への苦言

2016年07月23日 18:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『シリア・モナムール』(c)2014-LES FILMS D'ICI-PROACTION FILM

■『二重生活』との共通性ーー社会よりテクノロジーに適応せよ


 『シリア・モナムール』は、シリア内戦で現地の人々が撮影してYouTubeやSNSにアップした映像を再構成したドキュメンタリーで、『二重生活』同様、社会も人格も、<関係の偶発性>に身を晒した途端にリアリティが失われる程度の、「書割」と「影絵」に過ぎないにも拘わらず、その程度のショボい営みが数多の悲惨さを生み出す事実によって、我々に衝撃を与えます。


参考:宮台真司の『二重生活』評:あり得たかもしれない演出を考えることで、普遍的寓意へと到達できる


 シリアからパリに亡命したオサーマ・モハンメドが、包囲攻撃中の街で暮らすクルド人女性シマヴとSNSで繋がり、彼女が送って来る記録映像から現地の様子を追うーーこれは<関係の偶発性>そのものです。「国家」や「国境」や宗教の「敵/味方」に関係なしに繋がる2人は、インターネットに先立って80年代半ばのテレクラが切り開いたのと同じ<匿名的親密さ>を生きます。


 全ての家族が個室のPCや携帯情報ツールを通じて見知らぬ誰かと繋がって<匿名的親密さ>を生きるーー80年代の日本に始まるこの営みを<一つ屋根の下の赤の他人>と表現して来ました。<匿名的親密さ>は<一つ屋根の下の赤の他人>を可能にすることで容易に境界を越えます。「屋根」という言葉の所に「国家」や「宗教」という言葉を入れれば思い半ばに過ぎるでしょう。


 テレクラからSNSまでの系譜を描き出す「出会い系」に人がハマるのはなぜか。<一つ屋根の下の赤の他人>というリアルが、リアリティを変性させるからです。正確には「出会い系」が<一つ屋根の下の赤の他人>というリアルをもたらした訳ではありません。始めからそれがリアル(現実)ですが、そのリアルの暴露が我々に新たなリアリティを感じさせるようになっただけです。


 人は長らく、家族が一つ屋根の下でリアルをシェアしている、というリアリティ=ファンタズムを生きて来ました。それが「出会い系」ーー性愛系に限らずテレクラからSNSまでの系譜を一括ーーを通じて<関係の偶発性>に面した途端、「誰もがこれ程の複雑性の海に棹さしていたのか」と気付き、<一つ屋根の下の赤の他人>というリアル=未規定性へと、開かれるてしまうのです。


 これは重大な感覚です。「出会い系」というテクノロジーを通じて、家族や地域の共同体を含めたどんな「仲間」も、社会という言語的プログラムの構成物を支えるための言語的に構成されたファンタズムに過ぎない事実ーー<ウソ社会>ぶりーーに開かれると、そのリアルの、過剰なリアリティがもたらす享楽jouissanceゆえに、かつてのリアリティに戻れなくなるのです。


 家族から国家に到るまでの全てが、言語的に構成された社会を支える、言語的なファンタズムに過ぎない事実に、気付いた者達が直面する渾沌と、再出発ーー。『シリア・モナムール』と『二重生活』に共通するモチーフです。アリテトテレスが2400年前に気付いた通り、大規模定住社会はファンタズムが与える<なりすまし>(=最高善)なしに回らないことーー。


 パーソンが<なりすまして>生きる社会。正確には個体がパーソンに<なりすます>ことで支える社会。社会には国家もあれば信仰共同体もあれば血縁共同体もあれば党派もあります。ローテクノロジーによる不可視性が<なりすまし>のファンタズムを支えて来たのが、テレクラからSNSに到るテクノロジー(が与えるアーキテクチャ)がリアル=未規定性を暴露したのです。


 そこで露わになったリアルを、新たなリアリティ=ファンタズムが覆います。『シリア・モナムール』の劇場パンフレットには、それは「愛」であると語られます。国境に隔てられた人の繋がりを、テクノロジーが無効化し、かわりに「愛」が人を繋げます。実際「愛」であるのか否かは別にして、国民共同体や信仰共同体とは別の境界設定が持続的に可能になりつつあります。


 テクノロジーがより重大なリアリティ=ファンタズムを既に浮上させているのに、重大でなくなりつつある旧来的なリアリティの枠の中で、なぜこれ程の悲惨が起こるのか。それは家族共同体の・国民共同体の・信仰共同体の悲惨ですが、『シリア・モナムール』も前回扱った『二重生活』も共に、この奇妙で滑稽な事態への新たな構えを促していると言えるでしょう。


 冒頭に申し上げた通り、映画が何を描くかに関係なく、人は今日このことに疑問を持たざるを得ないし、持つべきです。この映画自体、YouTubeやSNSにアップされた悲惨な映像ばかりかき集めているので、「悲惨さ」という感情的事実に制作者が注意を奪われ、観客も同じく縛りつけられています。でも「悲惨だ、何とかすべきだ」という理解では本質的モチーフに届きません。


 制作者が自覚するか否かに関係なく、この映画は「何が悲惨さをもたらしているのか(答え=ファンタズム)」「そのことに気付かせてくれるものは何か(答え=テクノロジー)」をモチーフにしています。制作者の意図とは無関係に、「社会よりもテクノロジーに適応することによって、社会が<なりすまし>のゲームに過ぎない事実に気づけ」と促しているのです。


■ショボい「書割」の中での薄ぼけた「影絵」の戯れ


 政治的な正しさを括弧に入れて言えば、悲惨さを前に「人を殺してはいけない」「宗教的寛容が必要だ」と対抗するのは、それ自体が「書割」的リアリティの内部で営まれる「影絵」のゲームなので、実は無力です。「戦争」も「平和」も、そうした記述自体イデオロギー(虚偽意識)であって、「書割」的リアリティに過ぎないことは、一般市民にとってすら自明になりつつあることでしょう。


 「戦争」や「平和」の記述は、国民共同体や信仰共同体などの共同性を前提にします。要は共同体にとっての戦争であり平和です。でも、国民共同体も信仰共同体も大規模定住社会が要求する「影絵」。「影絵」がないと大規模定住社会は存続できない。自分も生きられず、仲間も守れないのです。だから、本来「仕方なく」<なりすまして>戦争や平和を語るのです。


 「仕方なさ」を思い出すべく、かつて祝祭がありましたが、祝祭なき後も暫くは、祝祭の機能的等価物として、制御不能を旨とする情熱愛がありました。ただの男や女を自分にとっての全体だと崇め奉る「ありそうもなさ」ゆえに疑わしい「真の心」の存在を、結婚を以て証する所から、情熱愛は近代家族形成に利用される一方で、タブー侵犯の享楽にも満ちていました(倫ならぬ恋!)。


 祝祭がそうであるように、制御不能な性愛も、定住社会の法から見れば非日常のアブノーマリティですが、このアブノーマリティにこそ人の本来の姿があると正負を反転させるマルキ・ド・サドからバタイユに連なる系譜もあります。そうした本来性から見れば、<社会>こそ希薄な「書割」であって、我々はそこを「影絵」に<なりすまして>生きているのです。


 性愛におけるこうしたサド=バタイユ的な感受性の継承線も、日本や先進国では、僕らの世代でプッツリ切れています。例えば、『LOVE【3D】』評で触れた、乱交ならぬスワッピングーー愛する相手に生じた享楽を自らに移転して享楽し、愛する相手への見知らぬ男(女)の興奮を自らに移転して享楽する営みーーも、僕らの世代が最後だと言えます。


 フロイトが「死の欲動」に引きつけた、享楽に満ちた性愛は、サドの営み程でなくとも、本来<社会>とーー定住社会の法とーーと両立しません。「それゆえ」、社会の秩序ならぬ性愛のカオスこそが本来性ではないかとの感覚をシェアし、『赤い殺意』で日常に再帰的に着地した主婦の如く社会の秩序を<なりすまして>生きようという感覚を抱くーー今の若い人たちにはありません。


 だから、『LOVE【3D】』評や『二重生活』評などで繰返し語ったように、何が「仮の姿」ーー<なりすまし>ーーで、何が「真の姿」なのかという古典的な主題は、今日ますます論じる価値があります。マジガチで素朴に<社会>を生きることが益々まずくなりつつあります。『シリア・モナムール』で描かれるような悲惨を益々量産しがちになっているからです。


■近代社会の崩壊過程の一端が表れた『シリア・モナムール』


 近代社会は[(1)主権国家・(2)資本主義・(3)民主政]のトリアーデですが、グローバル化による資本移動を背景に、それがトリレンマ(三方並び立たず)に変化しました。それを象徴するのが、アメリカのトランプ騒動と、イギリスのEU離脱騒動です。双方に共通するのは「誰が国民なのか?」問題です。それが、素朴に<社会>を生きる態度の、まずさを象徴することを説明します。


 米国大統領共和党候補者ドナルド・トランプは元は民主党員だったのが排外主義者に「変節」したことを訝る向きがあります。これが愚昧なのは、再配分主義リベラル「だからこそ」排外主義者になるからです。再配分は所詮は「仲間内」で行うもの。誰が仲間かが自明でなくなれば「アイツは仲間じゃない!」とフィンガーポインティングが始まるのは当たり前です。


 国民共同体を支える「国民は仲間」という意識は、フランス革命とそれに後続するナポレオン戦争(1789~1815年)の成果で200年の歴史しかありません。ちなみに主権概念が政治的に自明になったのは、30年戦争に引き続くウェストファリア条約(1618~1648年)の成果で、その160年後に国民概念が成立した結果、「国民主権」という[(1)主権国家と(3)民主政の結合]が生まれました。


 その程度の歴史しかないので、見ず知らずの範囲を「仲間」と見做す国民国家の安定性が、歴史的検証を経たとは到底言えません。寄席集めの傭兵と違って国民軍は強いというのがナポレオン戦争の教訓で、それゆえ日本の維新政府が国民意識の形成に注力して近代天皇制を導入したのは有名ですが、早くもベトナム戦争の時代には「国家のために死ぬ」のは困難になりました。


 万の単位で若者が戦争で死ねば政権が倒れるーーウォーターゲイト事件でのニクソン大統領の失墜(1972年)が示すことです。それに学んだ米国政府と兵器開発企業は以降、トマホークからドローンに到る遠隔操縦兵器の開発に勤しみます。ドローンの誤爆が昨今話題になり、地上部隊が調査してから攻撃すべきだとの議論がありますが、こうした経緯に鈍感過ぎて無力です。


 「国民は仲間」という意識はその程度にヘタレました。結果、「その程度の仲間のために死ねるものか」という意識が高まり、命知らずの国民軍が無理になる一方、「あんな奴は仲間じゃない」という意識も同時に高まります。「国民は仲間」の自明性があった内はリベラル・ユニバーサリズムのふりが出来ても、自明でなくなればリベラル・ナショナリズムに縮退します。


 リベラル・ユニバーサリズムは、人権という普遍価値に基づき、政治に普遍主義的な正当性を与えます。リベラル・ナショナリズムは、最初にどこで生まれたかで「人権」の座席に座れるか否かが決まり、本人に責任がない理由で「コイツは人間、ソイツは人間モドキ」と選別します。正当性よりも事実性が優位するから、「じゃあ喰うか喰われるかで勝負だ」となります。


 アメリカでは、民主党員だったトランプが排外主義的言動でブルーカラー・リベラルを吸引します。イギリスでは、労働党支持者の三分の一がEU離脱に賛成しましたが、彼らもブルーカラーです。双方とも「あんな奴は仲間じゃないからシェアから外せ」と噴き上がる<劣化左翼>。両者が結託する形で、排外主義の統一戦線が生まれつつあるのです。


 「温かい共同体」を目差す筈の左翼が、排外主義の<劣化左翼>に堕する一方、言語的理路を過剰に信頼せず共通感覚の醸成を目差す筈の保守が、血筋や人種に拘る排外主義の<劣化右翼>に堕する。<劣化左翼>と<劣化右翼>が手を取り合って近代に正当性を与えてきた普遍主義(人権!)をゴミ箱に投げ捨てるーー昨今の政治状況をかつての左右概念で括るのはもはや無理です。


 イギリスを見ると、労働党が、インテリ層=リベラル・ユニバーサリズム、非インテリ層=リベラル・ナショナリズム、という具合に分解する一方で、保守党は、都市部=伝統的な保守主義、地方部=国粋ナショナリズム、という具合に分解しています。フランクフルト学派の枠組通り、人権の普遍価値からすれば救われるべき弱者層が、<感情の劣化>に見舞われるのです。


 <劣化右翼>の国粋ナショナリズムと、<劣化左翼>のリベラル・ナショナリズムの結合は、どの先進国でも例外なく進みつつあります。背後にあるのは、グローバル化による資本移動がもたらした中間層分解と共同体空洞化(ソーシャルキャピタル崩壊)が、「国民は仲間」という国民共同体のありそうもない奇蹟を、文字通りあり得ないものにした、という共通の展開です。


■トランプ問題とEU離脱問題の共通性に社会の不可能性を見る


 『シリア・モナムール』を適切に評価するには、連載でも論じた『カルテル・ランド』と同じで、近代社会の崩壊過程を自覚する必要があります。お話しして来たように左右概念の陳腐化をもたらす近代の崩壊過程は、[(1)主権国家、(2)資本主義、(3)民主政]のトリアーデ崩壊として記述できます。その過程をイギリスのEU離脱騒動に即して、もう少し詳しく見ておきます。


 イギリスのEU離脱国民投票は、主権で幸せになるか(離脱派)、資本で幸せになるか(残留派)を、民主的に選ぶという形で、[(1)主権国家、(2)資本主義、(3)民主政]の今日的トリアーデを象徴しています。グローバル化による中間層分解&貧困化ゆえの資本主義イメージの悪化と、同じくグローバル化ゆえの移民流入を背景に、この二者択一では「主権で幸せ」が選ばれがちです。


 諸国がグローバル化する中で「主権で幸せ」を選べば、益々国際経済上の地位が沈下、益々中間層分解&貧困化が進み、理由がグローバル化による主権弱体化に帰属され、益々「主権で幸せ」を鼓舞する政治家が選ばれ、益々貧窮化…という悪循環が回ります。トランプ騒動も同じ悪循環を示します。これを支えるのが<感情の劣化>による民主政の故障です。


 逆に言えば、1960年代米国テレビドラマ的な「郊外家族のバラ色の夢」という資本主義への肯定的イメージがあったのは、非グローバル化を前提とした製造業の隆盛ゆえに、トマ・ピケティが言う「G(労働による利益)>R(投資による利益)」が実現して中間層が膨らんだからです。それがもたらす分厚いソーシャル・キャピタルが、メディアに直撃されない「公衆」を支えました。


 ところが1991年の冷戦体制終焉と、5年間の「平和の配当」を挟んだ後、とりわけ97年からの急速なグローバル化を背景に、中間層分解&貧困化が進んで資本主義イメージが悪化すると同時に、ソーシャル・キャピタルの減少が排外主義を餌とした<感情の政治>に釣られる<感情の劣化>を被った「大衆」を復活させ、民主政に墓穴を掘らせるようになります。


 EUはグローバル化を主権連携で制御する試みです。TPPも、無関税化が専ら焦点になりがちですが、潜在的にはグローバル化を主権連携で制御する試みです。ところがこの試みには二つの重大な欠陥があります。これから説明するような、(1)抜け駆け問題と、(2)広域民主政の困難です。それゆえに主権連携の試みは今後益々失敗しがちになることでしょう。


 (1)から言えば、2014年に導入が図られたEUトービン税からのイタリアなど各国の離脱に象徴されるように、主権連携が進むほど抜け駆けによる利益が大きくなり、一国が離脱すれば「ぼやぼやしてると抜け駆けされる」と“蟻の一穴”的に抜け駆けが進みます。先に述べた<感情の劣化>もあるので、こうした方向への動きに民主政を以て抗うことは殆ど不可能です。


 次に(2)ですが、欧州委員会選挙の低投票率ぶりに見る通り、ブリュッセル官僚の如き広域行政エリート(を操縦する政治エリート)が「我々」のことを考えてくれるとは思うのは困難です。それは、EU(欧州連合)に似た亜細亜連合が出来たとして、クアラルンプル官僚の如き広域行政エリート(を操縦する政治エリート)なるものを想像すれば、思い半ばに過ぎます。


 EUの如き主権連携的な広域政治は民主政に馴染みません。ルソーが『社会契約論』で民主政の人口上限を2万人に設定していた事実に関連します。上限内に収まれば、決定によって誰がどんな目に遭うか全員について想像でき、全員がそれを気に掛けます。これらが満たされる限りで討論した後なら、決定は多数決でも籤でも皆を気に懸ける王様でも良いーー。


 主権連携的広域政治を敷けば、政策は自ずと「お前には分からんだろう」的なパターナリズム(上から目線)になり、そこで政治を営む者は低投票率の選挙で無残な敗北を喫します。[(1)主権国家、(3)民主政]の組合せに依拠する限り、主権連携的な広域政治(に基づく行政)、即ち主権移譲に基づく超国家化は、(2)資本主義による中間層分解ゆえに不可能だと言えます。


 米国民主党大統領候補ヒラリー・クリントンのTPP反対への変節は、TPPが単なる非関税化よりむしろ主権連携によるグローバル化の操縦可能性を示す枠組であるのを思えば、「主権連携に民主政で支持を取り付けること」が、中間層分解下の<感情の劣化>を前提とした「感情の押しボタン」合戦の中では、高い知能を持つヒラリーにとってさえ難しいことを象徴します。


 ことほどさように[主権国家・資本主義・民主政]のトリアーデならぬトリレンマは、誰かがうっかり間違えたがゆえの困難ではなく、また、どこかに存在する巨大な悪がもたらしたものでもなく、誰が何をどうしようがどのみち陥らざるを得なかった困難だと言えます。それは、連載で何度も語ってきた通り、大規模定住社会が本質的に孕む困難に起因します。


 折しも京都市でOECD会議がタックスヘイヴン問題で「グローバル・ガバナンス」を討議しています。参加国が100に及びますが、「だからこそ」グローバル・ガバナンスに失敗するでしょう。多くの国がグローバル・ガバナンスに参加する程、抜け駆けした国の利得が増えるからです。グローバル化を主権連携で制御する試みの絶望的な困難さを指し示します。


■<神経症モデル>から<精神病モデル>へのシフトを支援せよ


 僕が過去に何度も述べてきたことを再確認します。言語の獲得(4万年前)が定住化(1万年前)を可能にしましたが、定住社会の大規模化が文字言語を要求し(3千年前)、文字言語が大規模定住社会化を可能にしました。ところが文字言語は、言語使用を文脈から切離するので動機づけに問題を抱えやすく、それが今日の晩期近代社会に於ける数多の困難の背後にあります。


 特殊な歴史的文脈に支えられて初めて、大規模定住社会に於ける「見ず知らずの人々」を「仲間」だと「感じ」られます。連載では、アリストテレスの時代に既にそのことが気付かれていた事実をト・アリストン(最高善)の概念を元に説明しました。そうした歴史的文脈は特殊なのでどのみち持続可能性はありません。「見ず知らずの仲間」にマジガチで依存する作法は放棄されるべきです。


 『シリア・モナムール』は、『二重生活』同様、社会も人格も、テクノロジーの産物が突き付ける<関係の偶発性>に身を晒した途端にリアリティが失われる程度の、「書割(社会)」と「影絵(人格)」にすぎないのに、その程度の営みが数多の悲惨を生み出す滑稽を描きます。テクノロジーがファンタズム(書割と影絵)を可能にした歴史もありますが、今日では完全に逆向きです。


 テクノロジーは様々な局面で越境を可能にします。そのことがトライバルな集住を超えた大規模定住に必要なファンタズムをもたらしました。そのテクノロジーが大規模定住を支えるファンタズムを壊しつつあります。しかし[(1)主権国家、(2)資本主義、(3)民主政]のトリレンマを克服できるようなファンタズムを新たにもたらす可能性は未だに全く見えません。


 むしろファンタズムの崩壊がもたらす未規定性が、フロイト的な補償(埋合せ)として、イスラム国やウヨ豚に見るような、極端に滑稽なファンタズムを呼び寄せます。ラカン派の言う<神経症モデル>です。しかし今述べた如く、テクノロジーの発達がもたらす未規定性が、ファンタズムを生きられない人々を量産しますーー<神経症モデル>から<精神病モデル>へ。


 繰返すと、家族から国家に到るまでの全てが、言語的に構成された社会を支える言語的なファンタズムに過ぎない事実に、気付いた者たちが直面する渾沌と、再出発ーー。『シリア・モナムール』と『二重生活』に共通するモチーフです。ファンタズムなき後の大規模定住社会は<なりすまし>なしに回りません。その事実の自覚から全てを建て直す他ありません。


 制作者が自覚するか否かに関係なく、この映画は「何が悲惨さをもたらしているのか(答え=ファンタズム)」「そのことに気付かせてくれるものは何か(答え=テクノロジー)」をモチーフにしています。制作者の意図と無関係に「社会よりもテクノロジーに適応することによって、社会が<なりすまし>のゲームに過ぎない事実に気づけ」と促している、とは、そういうこと。


 「制作者が自覚するか否かに関係なく」と申し上げたのは、「見ず知らずの仲間」への<愛>という新しいファンタズムのために命を落とすことを奨励しているように受け取られる可能性を、映画自身が防遏していないからです。ショボい「書割」の中の薄ぼけた「影絵」どものゲームの「中で」、何かを崇高だと思い込むことは、ソレが何であれ滑稽な茶番に過ぎません。


 ショボい「書割」の中の薄ぼけた「影絵」どものゲームを、マジガチで自明に生きられる存在は、ラカンの言うように妄想性障害(パラノイア)を患っています。彼に従えば、フランスが存在するとか、日本が存在するとか、本当に存在するならここに出して見せてみろよ、という話になります。これらは所詮「皆が“存在する”と言っている」という域を少しも超えないファンタズムです。


 とはいえ、これまた連載で繰返しましたが、M・アントニオーニ監督『欲望』(1966年)のラストに於ける集団パントマイムのシーンが示すように、ファンタズムに過ぎないものが実際に存在するかの如く<なりすまして>生きること抜きには、親しき仲間も家族も守れず、我々が知る喜怒哀楽の感情劇も享受不能になる。でもそれでいい。それしかないのだから。


 我々は三文小説の茶番を生きるーーその自覚が全ての出発点であるべきです。但しこの出発点は「何でもあり」のニヒリズムを分泌し得ます。だから、三文小説の茶番がそれでもそれなりに持続的に成り立つ奇蹟ーーありそうもなさーーに感情的に開かれる必要があります。その開かれをもたらすことが、映画という表現の役目であってもいいと思います。


 この役目に照らせば、『シリア・モナムール』より『二重生活』が表現の質が上です。『二重生活』に於ける尾行の享楽が、『シリア・モナムール』に於ける戦闘の日常に比べ、「呑気」な戯れに見えたとしてもーー否、「呑気」なものに見えればこそーー『二重生活』が上です。『シリア・モナムール』の弱点は、制作者が映画が孕むモチーフを充分理解していないことです。


 この無自覚は、『ヒロシマ・モナムール』(1959年/アラン・レネ監督/邦題『二十四時間の情事』)のように<国境を乗り越える愛しみ>が可能だ云々といった具合に、所詮は「書割」の中の「影絵」のゲームの枠内に映画的想像力が縛りつけられる可能性を準備します。その意味で、本作は潜在的可能性において特筆すべきですが、表現型に注目する限りでは70点です。


 映画の後半は、子どもが「蝶よ花よ」と戯れるが如きシーンが頻出します。これは観客に対する媚びだと言えます。観客たちの日常の枠内にある「蝶よ花よ」の快楽に照らすことで、遠く離れたシリアの現場を観客たちの近くに引き寄せた上、その快楽に照らして悲惨を印象づけることでコミットさせる戦略です。残酷だ、何とかしなければーーそういう話でいいか。


 連載でも繰返して来たように、そもそも<性愛>と<社会>は両立しない。ならば性愛が国境を超えるのは当たり前。より一般的に、吉本隆明『共同幻想論』を引いて言えば、対幻想と共同幻想とは、突き詰めた部分では両立しない。それは共同幻想が言語的プログラムに圧倒的に多くを負うからです。「~は国境を越える」とする発想は、所詮は概念的思考が弱いのです。


 ちなみに、日本を筆頭とする先進各国(?)の現状は、もっと嘆かわしいものです。そこでは、「愛は国境を超える」=「<性愛>と<社会>は両立しない」という共通感覚すら失われつつあります。<性愛>を含む対人関係の営みが、<社会>と両立できる範囲内での損得勘定のゲームへと、神経症的に縛り付けられるようになりました。<精神病モデル>化に抗うバックラッシュです。


 <性愛>と<社会>の両立不可能性を出発点に、<社会>ーー大規模定住社会ーーの不可能性と、それを「しのぐ」ための<なりすまし>の必要性への自覚に到るには、かかるバックラッシュに映画が加担してしまう可能性を、倫理的に防遏しなければなりません。しかし映画の多くはこうしたバックラッシュに巻き込まれざるを得ないので、批評的言説による介入が必要なのです。(宮台真司)