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『ファインディング・ドリー』が持つ、小市民映画としてのやさしさーー痛みとともに描く人生の意味

2016年07月22日 13:31  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

 「キャラクターに歌わせないこと」、「願いごとをするシーンを入れないこと」、「幸せな村を描かないこと」、そして「ラブストーリーを排除すること」。これらが、結成から間もない時代にピクサー・スタジオのクリエイターたちの間で決められた作品づくりのルールだという。それは『美女と野獣』に代表される「ディズニー第二期黄金期」と呼ばれる90年代当時、繰り返し描かれていた典型的表現への反発であり、より新しいものを生み出そうとする彼らの心意気だった。


参考:前作から20年『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』の政治性をどう捉える?


 ピクサー・アニメーション・スタジオ立ち上げ以来、作品の製作を続けているジョン・ラセターは、もともとディズニー・スタジオのクリエイターだったが、CGによるアニメーション作品の可能性を訴えたことで非難を浴び、失意の中で会社を解雇されたという過去を持っている。だが彼が中心となったピクサー作品が快進撃を続けることで、かつて追い出されたディズニー・スタジオに再び招かれ、ラセターがディズニー、ピクサー両スタジオを統括するようになった今では、そんな彼らの作品づくりこそがむしろ主流となり始めている。だから、両スタジオでは現在、『インサイド・ヘッド』や『ズートピア』など、既成の物語や決まりきった描写を逸脱するような傑作が次々に生まれているのだ。


 『ファインディング・ニモ』は、まさにこうした精神が行き渡ったピクサーの代表的作品である。オーストラリア、グレート・バリア・リーフの海に二匹で暮らしているクマノミの父子が離ればなれになりながらも互いを理解し合い自分を変えていくという物語は、それまでのディズニーアニメの構築してきた表現に頼らず、自分たちが考え抜いた描写を徹底することで、人生の普遍的な問題について深いところまで伝えることに成功している。


 ニモを捜す父親マーリンの旅に同行してくれるのが、ナンヨウハギという鮮やかなブルーの魚のキャラクター、ドリーだ。彼女は極度に忘れっぽく、数秒前のこともすぐ忘れてしまうので、マーリンは息子捜しを協力してもらいながら、彼女のケアにも追われることになる。監督のアンドリュー・スタントンによると、ドリーはニモのいない間の擬似的な子供としての役割が担わされており、マーリンが親として成長していくために必要な存在になっているという。もうひとつ重要なのは、ドリーという存在が、ピクサーの物語づくりの手法を象徴しているということだ。スタントン監督は、物語には強いテーマと登場人物の目的が必要だが、その物語を観客が楽しんでいる瞬間瞬間では、それらを意識させず、忘れさせていなければならないと述べる。


 続編である本作『ファインディング・ドリー』では、彼女が主人公となり、今度は彼女の子供時代に生き別れになった両親を捜す旅が描かれることになる。ドリーは続編になってやっと自分に家族がいたことを思い出したのだが、この「忘れっぽい」描写は、本作ではユーモア表現をはるかに超えて痛みすらともなうものとなっている。彼女の生活や冒険が逐一描かれていくことによって、物事を長い時間覚えていられないということが、どんなに不便でつらいことなのかということが観客に印象付けられていく。ニモの片方のヒレが生まれつき小さいように、ドリーにも生まれつきこのような不便な特徴が与えられている。だがスタントン監督や、脚本に関わるピクサーのスタッフたちは、もちろんここでそれを安易に「克服すべき障害」として、現実に存在しないような魔法で記憶を取り戻させ「解決」するようなことをするわけではない。そのような決して軽くない困難と付き合いながら、どのように生きていくのかを描いているのだ。


 1955年に製作された『ふろたき大将』という日本の実写映画がある。ベテラン俳優・石橋蓮司が、60年以上も前に子役として主演した、東映児童映画第一回作品だ。子供向けながら物語は過酷で、戦争で母と離ればなれになった子供が戦争孤児として施設に入所するが、読み書きやそろばんが全くできず、他の生徒たちにノロマだと馬鹿にされてしまうという、かなり気の毒なものだ。彼の楽しみは、外でひとり佇みながら、母親との一番楽しかった思い出にひたることだけである。ただ風呂を焚くことだけが得意な少年を演じている子役時代の石橋蓮司も、現代的な愛らしい子役としての見た目ではなく、現在の石橋蓮司がそのまま子供になっているような顔で、一見なんとなく共感を呼びにくい。だが本作は、だからこそ深い感動を呼ぶことも確かだ。


 有能で勇敢で見た目もいいキャラクターというのは、実写、アニメ作品を問わず、万人に好まれ主役になりやすい。しかし多くの人々にとって、そのような登場人物に憧れこそすれ、深い共感を得て自分の人生と重ね合わせるようなことは困難だろう。もちろん、映画はひとときの夢を与え、つらい現実を忘れさせるという役割もある。だが一般的な目線で、自分の能力の範囲の中で、どうやって現実に対処し、どうやって幸福を得るかという問題を描く作品も、同時に必要とされているはずだ。それが、『ファインディング・ドリー』や『ふろたき大将』が持っている、小市民映画としてのやさしさなのである。


 しかし、ドリーには素晴らしい能力もあった。ニモの父・マーリンは、絶体絶命のピンチに陥ったとき、いつも前向きに状況を打開することができるドリーに対して、「不思議な力がある」と感想を漏らす。だが、その力とは、主役を特別扱いするような魔法でも奇跡でもなかったことが、ドリーの過去の謎が解かれていくことで明らかになってくるのである。それはドリーの両親が、彼女の能力について絶対に否定的なことを言わず、長所を肯定し続けるという愛に溢れた教育方法に起因していた。表面的な理解で得るような情報はすぐに忘れても、何かを成し遂げたときに精一杯褒められて評価されたという嬉しさそのものは忘れにくい。彼女は幼少時の成功体験によって救われ、忘れていたはずの両親の愛情に支えられて、いままでひとりで生き抜くことができたのである。


 本作『ファインディング・ドリー』は、前作以上の深さで、耐え難い痛みを乗り越えながら、人間とは何か、人生を生きる意味とは何かということを考えさせ、ひとつの説得力ある答えを与えてくれる作品である。英雄として世の中を変えるのではなく、自分自身の人生を切り拓き、幸福を実感する静かなラストシーンがあまりに感動的だ。紛れもない傑作である。(小野寺系(k.onodera))