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UNISON SQUARE GARDENはなぜ“異色の存在”であり続ける? レジーが『Dr.Izzy』から考察

2016年07月20日 17:11  リアルサウンド

リアルサウンド

UNISON SQUARE GARDEN『Dr.Izzy』

・『Dr. Izzy』と天邪鬼精神


 「結局ね、スゴイ言語化しにくいタイプの音楽なんですよ。もっというと純粋に音楽的な音楽なんですよ。要するになにかの文脈に繋がるものではないので書きにくいのです。(中略)ユニゾンのようにただひたすら上手くていいバンドって日本の音楽ジャーナリズムってどう評価していいかわからないんですよ」(ブログ「kenzee観光第二レジャービル」2011年8月16日)


 『「ネオ漂泊民」の戦後』の著者である中尾賢司こと人気ブロガーのkenzeeが自身のブログにてこう指摘してから約5年。「キャラ」や「文脈」に依拠しがちな既存の音楽ジャーナリズムの枠組みでは語りづらい、そんな姿勢を頑なに変えなかったバンドはいつの間にかシーンの中心で動向が注目される存在になった。


 7月6日にリリースされたUNISON SQUARE GARDEN(以下ユニゾン)の新作、『Dr.Izzy』はオリコン初登場3位を記録。オリジナルアルバムとしては彼らの最高位を更新するとともに(これまでは『Catcher In The Spy』の5位が最高)、初動の時点で今まで最もセールスをあげていたアルバム『DUGOUT ACCIDENT』を上回った。


 この好成績の裏側に、2015年における彼らの大躍進があることは間違いない。15年6月にリリースされた「シュガーソングとビターステップ」はiTunesの総合チャートで年間5位にランクインし、その年を代表する楽曲のひとつとなった。また、7月には結成11年目にして初の武道館公演を開催。会場を隅から隅まで埋め尽くしたオーディエンスを前にして、ストイックな中にもショーマンシップが宿る素晴らしいライブを展開した。これまでも高度に構築されたアレンジやキャッチーなメロディ、奇想天外な歌詞に対して高い評価を受けていたユニゾンは、ここにきて名実ともにメインストリームのバンドとなったのである。


 そんな状況を受けて発表された『Dr.Izzy』は、「スリーピースのバンドでもここまでいろいろなことができるんだ」ということを誇示するかのようなバラエティ豊かなサウンドに彩られた作品になっている。3曲目に配された「シュガーソングとビターステップ」の前に鳴らされるのは、いつになく壮大な(個人的にはPerfume「Cosmic Explorer」を思い出した)「エアリアルエイリアン」とユニゾン印のドライブ感満載の「アトラクションがはじまる(they call it “NO.6”)」。アルバム中盤にはギターのリフが中毒性を生むAメロとコーラスワークがキュートなサビのギャップが心地よい「マジョリティ・リポート(darling, I love you)」、終盤にはジャジーなムードの中にバンドの演奏力が映える「mix juiceのいうとおり」などが収録されており、彼らの様々な側面を楽しむことができる。また、歌詞の面白さも相変わらずで、「BUSTER DICE MISERY」では<クルセイダー><シュレーディンガー>といった普通のポップソングでは馴染みのない単語が登場したかと思えば、「オトノバ中間試験」では<斎藤に任せといて>なんていうおちゃめなフレーズが飛び出したり、アルバムラストの「Cheap Cheap Endroll」では<君がもっと嫌いになっていく>と聴き手を思いっきり突き放してみたりと、どこを切ってもリスナーを飽きさせない展開が繰り広げられている。


 ロックバンドとしての底力が感じられる充実の6作目ーーとまとめることができる『Dr.Izzy』だが、ここでは今作を聴いた直後に感じた不思議な「肩すかし感」について告白しておきたい。聴き終えた後に残った「あ、もう終わりか……」という趣の何とも言えない感触は、ポップに突き抜けた4作目『CIDER ROAD』とも、強烈な切れ味が気持ち良い5作目『Catcher In The Spy』とも全く異なるものであった。この感じはなんなんだろう、もしかして様々なタイプの曲があるゆえにアルバムとして散漫なものになっているのだろうか……。


 そんなことを思っていた矢先に目に入ったのが『Dr.Izzy』に関する田淵智也のこんなコメントである。


「やはり「シュガーソングとビターステップ」が入るので、それ以外をどうやったら自分の意図通り、過大評価も過小評価もされないレベルでできるかなっていうのを、なんの衒いもなく計画できたアルバムなんですよ」(MUSICA 2016年7月号)


 バブルはいらない、でも自分たちのやっていることを正しく評価してほしい。そんな気持ちが垣間見えるこの発言を読むと、自分が『Dr.Izzy』に感じた印象の意味がおぼろげながらわかってくるような気がする。つまり、ユニゾンに対する「世の中の過大評価」が始まりそうなタイミングにおいて、彼らはそんなムードに冷や水を浴びせるようなアルバムを作ったと言えるのではないか。多様な曲調が飛び出す収録曲のラインナップも「「シュガーソングとビターステップ」はあくまでもバンドの一側面にすぎない」ということを強調するためだと考えれば辻褄が合う。


 「シュガーソングとビターステップ」でユニゾンに興味を持った人向けにそういったタイプの楽曲を並べるわけでもなければ、かと言って『CIDER ROAD』『Catcher In The Spy』のようにサウンドとしての統一感を出しているわけでもない。言ってみれば、「自分たちはこんなこともやるんですよ」というように手持ちのカードを順番に開示していくかのような自己紹介としてのアルバム。それこそが『Dr.Izzy』という作品の正体なのではないだろうか(ちなみに今作のキャッチコピーは「ユニゾンを解剖する。」である)。定石で考えるとこのタイミングでこういう形のアルバムを出すことは決して効率の良いやり方ではないように思えるが、そういうことをさらっとやってしまう天邪鬼精神こそがこのバンドの面白さでもある。


・ホールでのライブと「自由に楽しもう」


 「効率の良いやり方ではない」という表現を先ほど使ったが、ユニゾンの活動を見返してみると「効率良く“やらないこと”」という点においてかなり徹底されているのがよくわかる(YouTubeで楽曲のフル動画が公開されていないのもこういった活動方針の表れだろう)。訴求点をシンプルに絞ることで伝達スピードが上がるというのは商売の鉄則であり、「自分たちの特徴はこれです」というステイトメントをはっきり掲げた方が支持は広がりやすい。その程度のことは当然わかっているはずだが、それでもユニゾンはそういったやり方には背を向け続けている。


 そんな彼らのスタンスが最もわかりやすく表れているのが、ライブに対する向き合い方である。「大箱で一発やって終わり」という形ではなく地方のライブハウスやホールを丁寧に廻るスタイルは、「時間がかかってもファンの“地元”に足を運ぼう」というユニゾンの誠実さの賜物とも言える。


 ユニゾンのライブに関する特徴的な考え方として、「スタンディング至上主義への挑戦」というものがある。7月15日から始まった全国ツアーも、全44公演のうち約半数が全席指定のホールでの開催。ロックフェスの一般化も含めて「ロックバンドのライブは決まった席のない場所においてオールスタンディングで楽しむ」という考え方がすっかり定着しつつある中、彼らのこのスタンスは異彩を放っている。


 ホールでのライブにおいても、ボーカルの斎藤宏介は決まってMCで「自由に楽しんでください」と発言する。このメッセージは「オールスタンディング=席がないという“表面的な自由”が与えられない場所でも、あなたたちは心から自由に楽しめますか?」というオーディエンスへの挑発のようにも解釈できる。そして、バンド側から「精神的な自由」を担保するかのように、ユニゾンは決してライブ中に「盛り上がっていきましょう」と客席を煽ったり手拍子を要求したりしない。オールスタンディングという一見自由な空間で実は数多の「お約束」が蔓延することの多い最近のロックバンドのライブとは異なる空間をユニゾンは作り出そうとしているし、ライブに参加するオーディエンスもそれに呼応して思い思いの形で熱狂を表現する。


 ツアー初日となる東京・オリンパスホール八王子でのライブにおいても、バンドとオーディエンスが相互作用を見せながら会場全体が熱を帯びていくという素晴らしい光景が展開されていた。オールスタンディングの観客を煽り倒して「人工的な一体感」を形成するのではなく、いす席によって個々人に分断されているとも言えるオーディエンスをインパクトのある演奏のみで夢中にさせていく。ライブにおいて「皆で一緒に楽しむ」ことを重視する傾向が(アーティスト、オーディエンス双方において)強くなっている中、周囲を気にせずロックバンドの演奏を一人で無心に浴びることができるのがユニゾンのライブである。


・ロックンロールを追求し続ける


<気安くロックンロールを汚すな> (「デイライ協奏楽団」) 
<完全無欠のロックンロールを> (「フルカラープログラム」)


 ユニゾンは初期作の頃からたびたび「ロックンロール」への憧憬を言葉にしているが、それを実現するための彼らのアプローチは「いい曲を作る」「いいライブをやる」というサイクルをひたすら回し続ける古典的なものである。フェスの動員やSNSでのバズを活用して人気をテンポよく拡大していく(水増ししていく?)今時のバンドと比べると、ユニゾンが志向しているのは「フェス以前、SNS以前の時代におけるロックバンド像」だと言えるのかもしれない。


 ロックバンドはむやみに間口を広げないし、「ファン目線」に降りていかないし、中途半端にフレンドリーにはしない。それに対してファンは、想像力を働かせながら自力で楽しみ方を見つけ出していく。ステージの「上」と「下」で隔てられていた人たちがフラットな関係性を作れる時代においてファンに対しての一線を引こうとする彼らのやり方は今風ではないし、田淵は自分たちのそんなスタンスを「老害」などという自虐的な言葉遣いで評している。しかし、「本来ロックバンドはこうあるべきだ」という哲学を貫き続けた結果としてここまでの支持を獲得するに至ったユニゾンのここまでの足跡は、ゼロ年代から10年代にかけてのユニークなケースのひとつとして語り継がれていくべきものと言ってよいのではないだろうか。


 今の時代の流れを考えると、ユニゾンと同じようなことにトライするバンドというのはなかなか生まれ得ないだろう。ただ、それはすなわち彼らがこれからもシーンにおいて異色であることを意味する。「異色でオリジナリティがある」ということは、「ロックンロール」を構成する要素として重要なもののはずである。今後もバンドとしてのポピュラリティを維持しながら、「完全無欠のロックンロール」を追求する尖った存在であり続けてほしいと思う。(レジー)