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荻野洋一の『トランボ』評:まれに見る戦いの物語であり、映画そのものへの愛の物語

2016年07月20日 15:41  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2015 Trumbo Productions, LLC. ALL RIGHTS RESERVED

 『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』は、映画業界の内幕ものである。主人公はシナリオライター。そもそも座ってタイプライターを打っているだけの人間を主人公にした映画なんておもしろいのか? ーー確かに。しかし『トランボ』はまれに見る戦いの物語であり、友情の、挫折の、家族愛の、信念の、そして映画そのものへの愛の物語であって、観客があくびをする暇はないだろう。座ってシナリオを書いているシーンもあるにはあるが、それさえもスイング感が漂う。私たち凡人の書いている姿は単に退屈な光景だろうが、一流のライターの執筆シーンは、まるで鍵盤楽器の演奏のようである。


参考:荻野洋一の『シリア・モナムール』評:死体の山の上で、人はそれでもシネフィルであり得るのか


 ダルトン・トランボという実在のシナリオライターをご存じだろうか? ハリウッドの最盛期と言われる1930年代から脚本を書き始め、1940年代末にはハリウッドで最も高額なギャランティを取るライターになっていた。ハリウッドで一番ということはすなわち、世界で一番リッチな物書きということだ。


 しかし、アメリカとソ連の冷戦が激化した1947年、共産党員であることで「非米活動委員会」(略称HUAC フアックと呼ばれる)に召喚され、ワシントンの聴聞会で答弁を拒否し、議会侮辱罪となって刑務所行きとなる。釈放後もブラックリストに載ってしまっているため、仕事が来ずに困窮する。いわゆる「赤狩り」の時代である。


 そこで彼は偽名をもちいて、ブラックリスト追及のゆるいB級映画専門プロダクション向けに大量のシナリオを書いたり(その多くは、エイリアンが農婦と不倫セックスする物語など、劣悪な題材ばかりだが)、親友のシナリオライターの名前を借りて書いたりして、親友とギャランティを折半しつつ、なんとか弾圧の時代をしのいでいく。


 思想の自由、表現の自由が保障された民主主義大国アメリカにおいてさえ、「赤狩り」のような思想弾圧、自由抑圧の時代があったのである。ハリウッドは国内外への影響が大きいため、追及の手がよけいに迅速かつ厳しかった。HUAC(フアック)のブラックリストに載った者は、「あなたのお友だちや同僚で、共産主義者である者はいますか? 過去に共産主義者であった者はいますか?」という尋問を受ける。この尋問に10人の該当者を名指ししなければならない。そうしないと彼(彼女)はブラックリストから外してもらえない。ブラックリストに載った者には仕事は来ない。しかたなく友を売った者は良心の呵責に悩み、友情を失う。赤狩りの時代、経済的に追いこまれ、心身の健康を失い、命を落とした者も少なくない。ブラックリストに載ったあと、孤独の中で憤死した者の中には、ジョン・ガーフィールドのような大スターも含まれている。


 赤狩りは、喜劇王チャーリー・チャップリンのような映画界の功労者をさえハリウッドにいられなくさせ、スイスに亡命したチャーリーは二度とアメリカの土を踏むことはなかった。チャーリーのような高潔な精神の持ち主にとって、友を売るなど決してできないことだったのだろう。「名指し」、英語では「Naming Names」と呼ばれる。この「Naming Names」によって、アメリカの精神は死んだ。


 左翼思想の持ち主イコール、ソ連のスパイなどと言いきれないのに、時代はそうした思慮深さを失っており、「君は国の味方なのか、敵なのか?」という安直な二択が乱暴に発せられていたのである。現代日本に漂いつつあるきな臭さも、どうやらこの時代のアメリカに似てきているような気がしてならない。


 私たち日本人がオールタイムで最も愛しているハリウッド映画といえば、オードリー・ヘップバーン主演の『ローマの休日』(1953)ということになるらしい。そしてこの『ローマの休日』が、ブラックリストに載って公的には活動できなかったころのダルトン・トランボが、友人イアン・M・ハンターの名前を借りて著した作品であることは有名だ。皮肉にもアカデミー賞を受賞してしまうが、オスカーはイアン・M・ハンターが「代理で」受けた。さらに皮肉なことに、このイアン・M・ハンターもまもなくブラックリストに載ってしまうのだが。


 「赤狩り」の時代、トランボは以前にもまして多忙をきわめるようになる。B級映画への執筆のためだ。保守派からの圧力に屈せず、トランボに仕事を与え続けたキング兄弟のようにギャングまがいの剛胆な経営者が、弾圧された左翼映画人にとって救いの神となった。キング兄弟に政治的な関心はなく、彼らの関心はもっぱら金儲けであり、上手いシナリオが安く早く手に入るから起用しているだけなのだが。本作『トランボ』でキング兄弟の兄フランク・キングを演じた巨漢俳優ジョン・グッドマンの怪演は、一見の価値がある。乱暴でがめつく、ガラガラ声のこの怪人が、アメリカの民主主義、思想と信仰の自由を復活させるのに、無意識的にでも寄与したのだ。野球のバットを振り回して、警告に来たHUAC側の者を追い出すシーンは、「これぞアメリカ」というシーンではないか、西部劇やギャング映画の時代から綿々と続くハリウッド映画の無意識的な正義の体現ではないか、とそう思わずにいられない。


 本作で最も割に合わない役ーーつまり、赤狩りをリードするゴリゴリ反動派の女性ゴシップライターーーヘッダ・ホッパーを熱演したヘレン・ミレンには「本当にご苦労様」と声をかけたい。「悪役」と言っていいヘッダ・ホッパーは実在の女性で、ゴシップライターとして成功する前は、無声映画の女優だった。スターになる夢を叶えられなかったこの元女優が、思想弾圧という手段をもちいてハリウッドで怪気炎を上げるわけだが、単に反動思想に突き動かされた、というだけではない、劣等感と復讐心のなれの果てのような何か暗い闇を抱えているーーそういう影の部分をも見え隠れさせたヘレン・ミレンは、彼女が単にエリザベス女王を上手に演じるだけの女優ではないことを、(前作の『黄金のアデーレ 名画の帰還』ではあまりそのあたりを払拭できていなかった……)あざやかに証明したのだ。


 拙文の冒頭で、主人公トランボのシナリオ執筆シーンは、鍵盤楽器の演奏のようにスイング感が漂うと賞讃したが、この映画が魅力的だとすれば、それは、赤狩りというアメリカ史の恥部がなまなましくえぐられている点だけではない。権力の誤った濫用によって危機に陥った1人の男が、勇気と実行力と友情の力によって、何年もかけて名誉回復を果たしていく物語を、あたかもトランボその人が書いたシナリオ作品のごとく、ロマンティックにそして効率的に、エキサイティングに語りおおせている点なのである。


 ダルトン・トランボは1947年に弾圧ですべてを失い、1960年に名誉回復、スタンリー・キューブリック監督『スパルタカス』(1960)以降ようやく実名で仕事ができるようになった。しかし、ブラックリスト時代の作品『ローマの休日』のオスカー像が正式にトランボ夫人クレオに手渡されるのは、トランボ本人が死去して17年後となる1993年のことに過ぎない。(荻野洋一)