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『日本で一番悪い奴ら』『ケンとカズ』『クズとブスとゲス』 門間雄介が“暴力”を題材にした映画を考察

2016年07月13日 12:11  リアルサウンド

リアルサウンド

『日本で一番悪い奴ら』(c)2016「日本で一番悪い奴ら」製作委員会

 暴力を題材にした映画が近頃多い。『アイアムアヒーロー』『ヒーローマニア-生活-』『シマウマ』『ディストラクション・ベイビーズ』『ヒメアノ~ル』『クリーピー 偽りの隣人』『葛城事件』……ざっとこれだけの作品が何らかのかたちで暴力を扱っているが、そのモチベーションやアプローチの仕方は当然のことながら異なっている。


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 暴力を描くことは映画におけるひとつのタブーだ。そんなタブーとしての側面に果敢に挑んだのが『日本で一番悪い奴ら』だろう。タブーとは何か。ひとまず未成年者による鑑賞の是非を判断する、映倫(映画倫理委員会)の審査基準をそのもの差しにしてみる。映倫が審査するのは、映画が法や社会倫理に反しているかどうか、例えば性・暴力・麻薬や犯罪などに関する表現の度合い、文脈との関わりなどだ。いや、驚いた。「性・暴力・麻薬や犯罪」って、すべて『日本で一番悪い奴ら』が大っぴらに描いていることじゃないか。


 『日本で一番悪い奴ら』は稲葉圭昭による手記『恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白』をベースにしている。北海道警察銃器対策課のエースと呼ばれた男が、実は約200丁の拳銃や末端価格40億円相当の覚醒剤の取引に関わっていたというとんでもない実話だ。主人公の諸星は組織をのし上がりながら、性や麻薬に溺れ、やがて暴力と犯罪のうちに破滅していく。描かれるのは警察官の汚職や裏社会との癒着、そして公権力の腐敗である。この作品にタブーを犯していないところを探すほうが難しい。


「夜道にはくれぐれも気をつけます」


 作品の感想を伝えたとき、白石和彌監督が冗談めかして言った言葉は、あながち冗談でもなかっただろう。それでも相応の覚悟をともない、実録犯罪劇を手掛けるリスクを背負いながら、白石が作りあげようとしたのは徹底的に「インモラル(不道徳)」な映画だ。


「今でも覚えている映画やテレビってインモラルなものが多いと思うんですよ。今はテレビだとそういうものが出来なくなって、日本映画もそれに近いものになりつつある。だからこの映画に関しては、インモラルなことを出来る範囲でやらなきゃダメだと思ったし、なおかつ面白い映画をめざしました」(『日本で一番悪い奴ら』プレス資料より)


 白石にとって本作のような暴力や犯罪描写は、日本映画の現状に対するアンチテーゼである。一方、作品をきちんと観れば、この物語を貫く太い背骨の存在に気づく。これは純粋で一途な青年が、純粋で一途であるあまり悪事にずぶずぶとはまり込んでいく哀しい転落記だ。白石は前作『凶悪』で、実際に起きた連続殺人事件を題材に平然と殺人がおこなわれる異様な状況を描きながら、一方で事件にのめり込んでいく雑誌記者の生活に密着した。その興味の対象が暴力や犯罪の上面ではなく、もっと深層にあるもの、暴力や犯罪を起こす人間の側にある彼の映画は、だから人間の生を切りとった作品として面白い。Netflixオリジナルドラマ『火花』で彼が演出を手掛けた第4話を観ると、哀切な人生に迫る白石の演出の確かさがさらにわかる。ちなみに、あれだけの性・暴力・麻薬や犯罪に関する描写を盛り込みながら、『日本で一番悪い奴ら』の映倫による区分は「R15+」(15歳以上が鑑賞可)。実際、劇場には若年層が多いという話も聞く。


 暴力という題材に関心を示す若い人たちのなかには、受け手も作り手も含まれる。1986年生まれの小路紘史監督による初長編作『ケンとカズ』は、暴力と隣り合わせに生きざるを得ない若者たちの青春が苦く切ない。舞台は千葉県郊外。腐れ縁のふたり、ケンとカズは自動車整備工場で働きながら、覚醒剤の密売で金を稼いでいる。だが敵対する勢力と手を組み、販路を拡大しようとしたことから、ふたりは人生の坂を転がり落ちていき……。


 いや、主人公ふたりの人生はすでにこれ以上転がり落ちようのない底辺にある。だからそこから這い上がろうとして、彼らはみっともなくあがき苦しむ。その選択が未来を犠牲にするとも知らずに。小路は彼らの不器用な生き方に安易な希望を見出さないが、かといって突き放すわけではなく、むしろ愛おしさをもってその隘路を見つめている。


「男と男の間はいつでもこうあってほしい。言葉がなくても伝わるものを描きたかった」(『ケンとカズ』プレス資料より)


 小路みずからの発言にあるように、彼は暴力描写を言葉なしに何かを伝える表現ととらえ、暴力が生きるすべでもある男たちの物語をクソまみれな理想郷のうちに描きだした。だから男たちは殴り、また殴られる。こういった作劇は、任侠映画やヤクザ映画でかつてよく目にした、きわめてオールドスクールなスタイルかもしれない。でも時代が二回りくらいして、日本の映画やドラマから暴力が消えかけたとき、新しい作り手はそこに映画でなければできない表現を、日本映画の現状を打破する突破口を見出したのだろう。『ケンとカズ』はインディペンデント映画でありながらインディペンデント映画を越えようとしている。カットのひとつひとつまで考え抜かれ、編集は適切なリズムを刻み、劇伴は壮大なスケールすら感じさせる。何より優れているのは、まだ無名と言っていい役者たちを起用して、彼らをすべて輝かせた演出だ。


 話は少し逸れるかもしれないが、暴力を扱った映画が俳優たちの魅力を十二分に引きだすことが多いのはなぜだろう? いまこうして作られている、暴力に関連したたくさんの映画のルーツを辿ると、2010年の『冷たい熱帯魚』に行きつく。そこで園子温監督が吹越満やでんでんと言ったバイプレイヤーたちのポテンシャルを存分に引きだしたように、この手の作品はキャスティングの不自由さを逆手に取って、未知の役者を世に知らしめたり、著名な俳優のパブリックイメージを覆したりすることができる。白石が『凶悪』で起用し、是枝裕和監督作『海よりもまだ深く』や西川美和監督作『永い言い訳』など、いまやほうぼうで強い印象を残す松岡依都美は前者の例だし、後者の例は『ディストラクション・ベイビーズ』の柳楽優弥、『ヒメアノ~ル』の森田剛、そして『日本で一番悪い奴ら』の綾野剛などだ。『ケンとカズ』を観た後、役者たちの顔がいつまでも脳裏から離れないのは、この映画がその力を存分に生かすことに成功しているからだ。


 1986年生まれの奥田庸介監督による『クズとブスとゲス』はタイトル同様に内容もえげつない。主人公は女を薬物で拉致し、裸の写真をネタにしてゆすりで生計を立てる男。だがヤクザの女に手を出した彼は、落とし前として大金の支払いを要求され、罠にはめた女をヤクザに売り飛ばしてしまう。やがて純情愚直な女の恋人をも巻き込む、この卑劣な暴力映画の大きな特色は、全アクションシーンがガチで、流れる血もすべて本物だというところだ。みずから主人公を演じた奥田は、撮影中にビール瓶で頭を割り、12針も縫う大けがを負ったという。


 こんなのは映画でも何でもない。ただの醜悪な見世物じゃないか。率直な感想は大きく否に傾いている。でもそこに幾ばくかの誠実さを見るとしたら、この映画が奥田自身の虚空に手を伸ばすもがきそのものでもあるからだ。2011年、『東京プレイボーイクラブ』で商業映画デビューを飾りながら、その後、奥田は思うように映画が撮れずにいた。彼は言う。


「この映画をたとえるならば、15の夜に行き先も分からぬまま、暗い夜の帳の中を盗んだバイクで走り出すかわりに、28の夏に生き方も分からぬまま、辛く無意味な人生の途中で怒った奥田が暴れだす、といった感じだと言ったら分かりやすいでしょうか。最早映画とは呼べないぐらい個人的なシロモノなのですが、薄汚く自己正当化しますと、今のこの日本文化の有り様だからこそこんな映画があっても良いと思います」(『クズとブスとゲス』プレス資料より)


 不器用な映画だが、「お前不器用なんだよ!」と頭をはたきたくなる、かわいげもここにはある。捨て身の一撃は誰かの脳天に響くだろうか。(門間雄介)