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スポーツ界最悪の薬物スキャンダルの真実ーー『疑惑のチャンピオン』が問いかけるもの

2016年07月07日 17:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『疑惑のチャンピオン』

 2013年、世紀の薬物スキャンダルでスポーツ界に激震が走った。世界最大の自転車ロードレース「ツール・ド・フランス」で7連覇を達成したアメリカ人チャンピオン、ランス・アームストロングが、長年にわたる自身のドーピング疑惑をはじめて認めたのだ。栄光のスターは一転して詐欺師となり、不正の横行によって競技への信頼をも失墜させた。このスポーツ界最悪の不祥事を映画化したのが本作『疑惑のチャンピオン』だ。


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 ランス・アームストロングの半生は、たいていの映画よりもはるかに波乱万丈だ。彼が自転車競技で頭角を現しはじめた頃、不運にも若くして睾丸と脳を癌に冒されてしまう。一命はとりとめたものの肉体は衰弱し、後の選手生命は絶望的と思われた。だが、ランスはドーピングを推奨するイタリア人医師を訪ね、科学的トレーニングと薬物によって飛躍的な運動能力を得る。いきなりツール・ド・フランス優勝という快挙を遂げると、そこから前人未踏の7連覇を達成し、違反を重ねながら自転車競技界に君臨、有名企業とのスポンサー契約や多額のCM出演料で財を築き、自家用ジェットまで所有するようになる。その驚異的成功からたびたびドーピング疑惑が持ち上がったが、ランスは記者会見やインタビューで、自身が協力する癌撲滅運動や世界の癌患者たちを盾にしてまで無実を訴え正義を主張した。そしてその裏では、敵対する人物に圧力をかけ破滅に追い込んでいたのだ。


 イギリス人監督スティーヴン・フリアーズは、近年『クィーン』や『あなたを抱きしめる日まで』など、実際の出来事を劇映画として、質の高いドラマに仕上げ、数々の映画賞を受賞するなど評価を高めている。この二作と『疑惑のチャンピオン』が異なるのは、主人公となるランス・アームストロングが、きわめて同情しづらい人物であるということだろう。「癌を克服して競技で優勝する」というような美談を好む大衆の要請が、彼をよりスターに押し上げ、不正をエスカレートさせる要因になったことは事実だが、そのような同情的な状況をも利用し、正義の顔をして長年不正を繰り返し、自著にて自身の高潔さを語るという姿勢には、薄ら寒さすら感じてしまう。よって本作のランスは、ある種アンチヒーローとして描かれている。彼がレースで走行中、ドーピングを問題視し告発する選手のそばへ近づき、耳元で「おい、俺の金と権力でお前なんかどうにでもできるんだぞ」とささやき脅迫するシーンは、ギャング映画を観ているようだ。そう、この映画の主演俳優ベン・フォスターは、まさに『民衆の敵』のジェームズ・キャグニーや、『スカーフェイス』のアル・パチーノと同質の、際限のない権力欲に溺れた破滅的狂人としてランス・アームストロングを演じているのだ。ちなみに、フリアーズ監督はマーティン・スコセッシ製作の犯罪映画『グリフターズ/詐欺師たち』も手がけている。


 本作で最もショッキングなのは血液ドーピングの様子だ。血液中の赤血球を増加させることで、酸素をより筋肉に運ぶことができ、疲労を軽減させ過酷な上り坂を容易に登れるようになるという手法である。ランスや彼をサポートするチームの選手たちは移動車の中で輸血を行い実力以上のパフォーマンスを発揮すると、抜き打ちの血液検査のために前もって用意しておいた自分の「正常な」血液をさらに輸血することで、検査を通過していたのだ。現地やTV中継でツール・ド・フランスを観戦する人々も、まさか大会中にこのようなことが行われているとは夢にも思わないだろう。


 ドキュメンタリー風に叙情を極力排して描かれる本作は、ランス・アームストロングの派手なエピソードを、一見ただ並べただけのようにも思える。だが、注意深く演出意図を探ることで、フリアーズ監督の手腕の確かさを感じことができる。レースを題材とした映画につきものなのは、競技自体の興奮や勝敗をめぐる攻防である。だが、それが描かれているのは、ランスがまだドーピングに手を染める前のレースに限られている。そしてドーピング以降は、彼がどんなに快挙を達成しようが、そこに熱を込め描かれることはなく、ただ本人と薬物との関係、そしていかにそれを隠蔽していくかという問題に焦点が絞られていく。


 本作独自のアプローチとして面白いのは、近年成長著しい俳優ジェシー・プレモンスが演じる、ランスを告発することになるチームメイト、フロイド・ランディスの存在が大きく扱われているという部分だ。彼はメノナイト派という宗教の、電気や20世紀以降の文明の利器を排除し自給自足を奨励する、アメリカの素朴なコミュニティで育った。夜中に家をこっそり抜け出して自転車の練習に出かけると父親に見つかり、「楽しみのために自転車に乗ってはいかん」と叱責されるという少年時代の一場面が、本作に挿入されている。自転車競技の世界に足を踏み入れたランディスは、著名なランスのチームに誘われたことで有頂天になり、深く考えずランスに促されるままドーピングをはじめることになる。当時の彼の心境は、カフェでコーヒーをがぶ飲みしカップを積み上げるという無計画で奔放なシーンによって見事に表現されている。しかし、ランスの権力を利用した厚顔無恥な振る舞いや、チームが自転車を売却してまで薬物を購入していた事実を知ることで、ランディスの心は次第にチームから離れ、また故郷の英雄としてコミュニティーから賞賛されることで、罪の意識が増大していく。フロイド・ランディスは、その意味で一般の人間の感覚に近いといえるだろう。その彼と対比させることで、ランス・アームストロングの大胆さや異常性が際立つ。この差異によって本作は「何のために自転車に乗るのか」という本質的疑問を、より明確なものとして投げかけることに成功している。


 スポーツの世界に限らず、学校や職場でも多かれ少なかれ競争がある。薬物によって簡単に自分の能力がアップするのであれば、その選択は誰にとっても魅力的な誘惑となるだろう。だから、自転車競技に今まで興味を持たなかったというフリアーズ監督は、この事件を人間の倫理観を扱った普遍的な問題として描いている。叙情的なシーンの少ない本作で印象的なのは、ドーピングが発覚したランディスがチームから拒否される姿を逆光でとらえた場面と、やはりドーピングが発覚した後のランスを捉えたラストシーンである。ランスが水場に飛び込む下降のイメージと、その後自転車で坂を登っていく上昇のイメージを並べ、社会的転落が、同時に人間として再びスタートすることのできるチャンスとしても表現されている。ここでは、「何のために自転車に乗るのか」という問題が「何のために人は生きるのか」というテーマにまで昇華されているのである。(小野寺系(k.onodera))