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松江哲明の『日本で一番悪い奴ら』評:綾野剛は“渋い映画”でこそ一番輝くタイプの俳優

2016年07月04日 05:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「日本で一番悪い奴ら」製作委員会

■すごく危険な香りがするところが魅力


 白石和彌監督の『日本で一番悪い奴ら』は、まず企画そのものがすごく良いと感じて、プレスの監督インタビューを読んだところ、「『凶悪』(2013年)が公開された後に、ある人から、もっと『グッドフェローズ』とか『カジノ』みたいなアッパーな映画をやった方がいいですよって言われたんです」って書いてありました。なるほどなぁって感心していたのですが、その記事を書いたライターから「あれは松江さんから言われたそうですよ」って教えられて。完全にど忘れしていたのですが、どうやら一緒にトークショーをした際に、僕はそう言ったらしいです。白石監督がこうして形にしてくれたのはすごく嬉しいし、なんでも言っておくものだなって思いました(笑)。


参考:綾野剛はなぜ、30歳を過ぎてからブレイクしたのか? 俳優としての特異性を考察


 さて、白石監督の作品は『凶悪』にしても『日本で一番悪い奴ら』にしても、すごく危険な香りがするところが魅力のひとつで、その“ヤバい企画”に対して俳優陣が真っ向からぶつかっているのが素晴らしいです。『凶悪』は、山田孝之くんの振り切れた演技に、ピエール瀧さんやリリー・フランキーさんが乗っていくかたちで、すごく心惹かれる映画になっていました。日本映画において、こういう犯罪モノは待望だったといえます。


 近年は韓国映画で質の高い犯罪モノが作られていて、たとえばポン・ジュノの『殺人の追憶』(2003年)やナ・ホンジンの『チェイサー』(2008年)といった傑作がありました。映画ファンの間でも、「最近は韓国映画の方が優れた犯罪モノを作っている」との意見がありますが、その裏には、かつては日本映画が得意としていたジャンルだったのが、いまや韓国に取って代わられてしまったとの認識があると思います。韓国では、若手俳優やアイドルがイメージを一新して、実力派俳優としてのステータスを得るために際どい役柄に挑戦する流れがありますが、日本の場合はタレントのイメージを保つために、ごく普通の役柄しか演じられないことも少なくありません。このCMに出演しているから、こういう役柄はできないって、制約があったりするわけです。長らくそういう流れがあったこともあって、『凶悪』が出てきたときはみんな「待ってました!」って感じたんです。


■説教くさくないから、教訓が効いてくる


 『日本で一番悪い奴ら』でも、綾野剛さんら俳優陣はみんな、とても弾けた演技をしています。登場人物の多くは悪者ばかりなんですけれど、誰も自分たちの行動を後悔していないのが素晴らしいですね。だから「絶対にこんな奴になりたくねえ」「こんな奴に近づきたくねえ」って思うものの、同時に魅力も感じてしまう。悪者なのに感情移入してしまうんです。そのため、物語の中に教訓はあるものの、まったく説教くさくなくて、その生き生きとした楽しそうな演技に引き込まれていきます。


 とくに綾野剛さんは最高でした。彼は脇に回ったときも魅力的でいいけど、主役を張るときは、ちゃんと作品を背負う人なんだと思いました。「この映画を引っ張るぜ」みたいな気概を感じます。綾野剛はやっぱり映画でこそーーそれも単館系みたいな渋い作品が一番輝くタイプの俳優なんじゃないかな。自分がどんな姿勢で役に臨めば、映画をより良いものにできるかをすごく考えている感じで、本当に映画が好きなことが伝わりました。


 たとえば、覚せい剤を打つシーン。打ってしまうとこんな風になってしまうという描写はあるけれど、「だからやってはいけません」と訴える感じではない。やっぱり、映画の中で覚せい剤を打つのなら、ものすごく気持ち良さそうにやらなければいけないんですよ。「シャブセックスって、想像を絶するものなんだ」って、観ているひとに思わせなければいけない。でも一方で、人間はそれほどの快楽を味わって平気でいられるわけがないから、その後にどうやって落ちていくのか、そのリスクもしっかりと描いていく。それが大事なことで、映画としての誠実な表現だと思います。テレビの放送で麻薬のニュースを見たり、「ダメ。ゼッタイ。」みたいな広告を読んだだけだと、逆に興味をそそられるひとも少なくないはずだし、抑止力は弱いだろうなと思います。「法律で決まっているから」とか「子供に夢を与える人には責任があるから」みたいな、第三者の説教ってあまり説得力がないんですよ。


 でも、『日本で一番悪い奴ら』を観ると「シャブは絶対に手を出してはいけないな」って、身に沁みて思います。ものすごく気持ち良さそうにやっているし、だからこそ、どれだけ怖いものかもわかる。彼らに感情移入して同情もすればこそ、その過ちが生きた教訓として効いてくるわけです。映画において正義や悪を描くのであれば、こうあるべきだなと思いましたね。昨今は、すごく説教くさい世の中だからこそ、観ていて気持ちの良い映画でした。


■第三者的な目線に、白石監督の作家性を感じた


 少し意外だったのは、観る前は中島哲也監督の『渇き。』とか、そういう画面がギラギラしていて、音楽がガンガン鳴りまくっている感じのアッパー系の作品かなと思ったんですけれど、想像以上に泥臭くて、地に足が着いている感じの作風だったことです。もしかしたら、白石監督自身はコメディタッチな線を狙っていたのかもしれないですけど、僕は演出がとてもしっかりとした、リアリズム路線の作品だと感じました。おそらく白石監督の作家としての資質が、こういう仕上がりにしたのだと思います。


 とくに象徴的だったのは、綾野剛が無理矢理、容疑者の家に入って行って麻薬を探すシーン。窓の外の通り向かいにはおばさんがいて、部屋の中でのドタバタを冷めた目で見ているんですけれど、ふとカメラがおばさん側に移って、外から部屋を映し出すんです。こういう風に第三者を使って、登場人物たちを客観的に見つめる演出は、白石監督らしいなと思いました。もっとコメディチックにやるんだったら、部屋の内側からしか見せないんですよね。綾野剛さんらが争っている側から外にカメラを向けて、通り向かいにいるおばさんを映した方が、主観が強くなるんですよね。『グッドフェローズ』や『カジノ』だったら主人公にナレーションをさせるほど視線を徹底させますから。しかし、白石監督はそうではなく、たまに「何やってんの、こいつら」的な視点を入れるんです。あのおばさんはすごく効いているカットだと思いました。


 ただ、洗練されている作品だけれど、個人的には、もう少しわちゃわちゃしいているものも期待していました。というのも、あまりエキストラがいなかったんですよ。昔の東映映画とかだと、大部屋俳優っていう、台詞は無いけれども存在感がある顔の人たちがいて、彼らが画面を埋めていくと映画の世界がすごく広がるんです。たとえば警察署内はもっと雑然としていて、セリフはないけれど存在感のあるひとがいてもよかったかな、と。この映画は名前のある役者が存在感を発揮してて、無駄がなかったかな、と。それはそれで現代的で、ひとりひとりの魅力はよくわかるし、役者への愛もあるのだけれど、カオス感には欠けるところがあります。そこは好き好きでしょうけれど、もっとよくわからないひとがたくさん出てくると、また違った雰囲気の映画になったのかなと思いました。


 今回の場合は、すっきりと作ることでより社会派な作風になっていると感じます。登場人物ひとりひとりが、悪いことをしている自覚がないっていうことの怖さ。警察が盲目的にただ点数を稼ぐことだけに執着して、なにが良くてなにが悪いかを自分の頭で判断できなくなるリアリティ。こういう現象って、普通にいまの日本の社会の中でもたくさんあることだと思うんです。決められたルールに従うことは、基本的に良いこととされていますから。そして、ラストの日の丸。こういうダメ人間たちの滑稽なドタバタを描くことを通して、日本という国の難点をあぶり出そうとした白石監督の視点は、とても鋭いですよね。日本をこんな風に描く映画をもっと撮って欲しいなと思いました。これからもっと酷い国になっていくだろうから描き甲斐がありますよ。(松江哲明/取材・構成=松田広宣)