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“攻め”の菅田将暉と“受け”の池松壮亮、喋るだけの75分ーー『セトウツミ』で見せつけた演技力

2016年07月04日 05:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)此元和津也(別冊少年チャンピオン)2013 (C)2016映画「セトウツミ」製作委員会

 映画『セトウツミ』でみせる池松壮亮と菅田将暉の掛け合いが話題になっている——。舞台は大阪の河川の石畳。放課後の暇な時間に、池松演じる内海と、菅田扮する瀬戸という高校生二人がダラダラとしゃべっているシーンが大部分……という作品だが、絶妙な間と、良い意味でのスケールの小さい世界観=“日常感”が抜群の“味”を出している。


参考:斎藤工と池松壮亮、ぶつかり合う“色気と技術”ーー『無伴奏』ラブシーンの凄みに迫る


 関西弁の二人が掛け合いを披露するということで、“しゃべくり漫才”的な会話劇を思い浮かべる人が多いかもしれないが、メガホンをとった大森立嗣監督や、池松、菅田ともに「漫才にはしない」という共通認識があったという。この意識の統一は非常に重要で、作品全体を通して、ボケと突っ込みといった、ある意味“大げさ”な展開ではなく、日常の何気なく、そしてあまり中身のない会話を展開する中で、セリフや状況の“おかしみ”をシニカルな笑いに昇華するという、高度なエンターテインメントを作り出している。


 もちろん、此元和津也の原作コミックの力も大きい。多くのファンを持ち、暇な二人が繰り広げる小宇宙的な世界観は絶大なる支持を得ている。演じた池松も「原作が強敵すぎる」と大いにリスペクトした言葉を発している。同時に、作品に挑む際、池松、菅田ともにコミックの魅力を存分に理解していただけに、頭を悩ませたという。「もう少しやったらいいのか、それとも引いたらいいのか」。客観的な判断に迷うなか、撮影は続いていった。


 しかし、出来上がった作品は、鑑賞後にカタルシスを得られるわけでもなく、大きな達成感が胸に去来するわけでもないにも関わらず、何ともいえない満足感が得られる。この満足感は、スクリーンと客席を隔てる壁が取り払われ、二人が側にいるような感覚と、一緒に会話に参加しているような親近感によるものなのだろう。こうした感覚を演出しているのが、コミックの世界観を見事にスクリーンに落とし込んだ池松と菅田のコンビネーションだといえる。


 これまで同じ作品に出演することはあった池松と菅田だが、この撮影が「ほぼ初めまして」というぐらい絡むシーンはなかったという。本作も「お前誰やねん」という出会いから始まり、関係が温まっていくさまが池松と菅田のリアルな関係にリンクしたのか、二人の距離の詰まり方が非常にしっくりくる。また、基本受けの池松、攻めの菅田というように、キャラクターも分かりやすい。菅田から発信する話題がほとんどで、それに対して池松は絶妙の間で返す。“漫才の間”ではなく“演技の間”で……。このやり取りがあまりにも自然なので、観客もスクリーンの中にいるような“近さ”を実感できる。


 0話からエピローグまで、8つのテーマについてトークが展開されるという構成。そのお題も“スケールの小さな話”ばかりであり、それを75分間、ほぼ二人だけの会話で成り立たせるというのは、どちらかが走りすぎても、待ちすぎても破綻してしまう。池松は「ほぼアドリブはなかった」という話だが、菅田が発する言葉を受け止めたり流したり、跳ね返したり……と緩急自在に操り“やらない”演技を披露した。一方の菅田も「やっているうちに煮詰まってきた」と言いつつも、好きな時に好きなペースで読めるという原作コミックの特性を理解しつつ、実写ならではの物理的な時間を意識した奥行きのある瀬戸を演じた。


 「こんな絶妙な二人いるか?」というコミックの持つファンタジー的な部分を持ちつつ、“日常感”がひしひしと伝わってきて、観客に寄り添うような親近感を持つ瀬戸と内海。池松と菅田だからこそ成り立った“セトウツミ”といえるだろう。(磯部正和)