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小泉今日子、深津絵里、竹内結子……黒沢清が描く“女”たちはどう変化した?

2016年06月29日 06:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「クリーピー」製作委員会

 黒沢清監督の新作『クリーピー 偽りの隣人』が公開中だ。近年でも突出した禍々しさを醸す本作、同監督のファンには97年の『CURE』以来の新たなサイコスリラーとして迎えられている。しかし両作、人が謎の狂気と対峙することで己の闇を知る物語構造こそ共通するものの、様相はまるで違う。『CURE』が渇ききった虚無の砂漠とするならば、『クリーピー』は暗い森の底無し沼。この違いの要因はいくつも挙げられるが、本稿では“女”たちに視線を向けたい。それはまた、近年における黒沢清映画の変貌を考察すると同義になるはずだから…。


参考:黒沢清監督が仕掛ける“違和感”の意味ーー『クリーピー 偽りの隣人』の演出を読む


 『クリーピー』前半は犯罪心理学者の西島秀俊が過去の未解決事件を趣味で(!)捜査していく犯罪映画の流れである。その裏面で彼より一足先に異界への門を叩くのが、妻を演じる竹内結子だ。引越し先の近隣住民に挨拶まわりしようという常識的な人物に思われた彼女だが、徐々に不可解な言動が目立ちはじめ、夫も観客も知らぬ間、とんでもない異常事態に巻き込まれている。いや、彼女は誘われたと言った方が正しい。伝道師というより闇の道化師のような奇怪な隣人・香川照之の呼び声によって、女の心と体は諦めに満ちた日常からの脱出を図る。


 「日常から脱出する女性」が登場するのは黒沢映画において初めてのことではない。『岸辺の旅』の深津絵里は孤独だった日々から死者との漂流へ旅立ち、『トウキョウソナタ』の小泉今日子は内部崩壊していく家庭からオープンカーで脱出を試みた。『リアル』の綾瀬はるかも『Seventh Code』の前田敦子も平穏を捨て使命の下に戦う越境者だった。しかし以前の黒沢映画でこうした属性をもっていたのは、男たちの方だったではないか。いつだって海の外に曖昧な希望を抱く役所広司やジャンル映画のルールを疑いなく突き進む哀川翔、『回路』の加藤晴彦や『アカルイミライ』のオダギリジョーのように行くあてもなく疾走する若者たちだっていた。そんな“さまよい”にも似た運動を繰り返す男たちこそ、かつての黒沢映画のメインキャラクターだったが、ある時から男たちは何かに囚われ動けなくなってしまった。そして、その重さに耐えきれなくなった女たちがこぞって飛び出したのだ。その転換は『クリーピー』の暗黒を走る車内シーンで明確に視覚化されている。ハンドルを握り未来を睨みつける竹内結子、窓から顔を出して外吹く風を浴びる藤野涼子に対して、後部座席で犬と戯れる香川照之と手錠に繋がれた西島秀俊の哀れさ!


 この現象は、女性の活躍がめざましい現代世相の反映でもあろうが、一人の映画作家の軌跡から考えると、2012年の連続ドラマ『贖罪』での成功が大きいと想定できる。依頼された原作ものを扱うこと以上に、女優たちと共犯になって複雑な心理をもったいくつもの女性像の演出に成功したことで、黒沢映画は新たな段階に突入した。そして以降、女優を撮ることへの尊重と好奇心を隠さなくなった黒沢映画は、非常にエロティックだ。画面の中の女優たちの色香は、もはや作家自身の意識をも無視して、湿った風となり映画全編を包み込む。こうして黒沢映画の狂気は、乾きから湿りに変質したのだ。


 しかしそれでもなお、黒沢映画の女たちは幽霊でもあり続ける。『クリーピー』で竹内結子はあるモノを使用することで、より虚ろな存在と化す。死んでこそいないが、限りなく幽霊に近づいてしまうのだ。そのような存在は竹内結子の他にもいる。過去の事件の生存者であり記憶を遡っていく川口春奈が西島秀俊を見つめる時のどこまでも黒い瞳は『叫』の幽霊だった葉月里緒奈や小西真奈美のものと酷似している。香川照之の娘になりすました藤野涼子は最初から最後まで一体何が望みで本当の感情はどうなのか全くわからない。香川照之がいくら鬼畜のサイコパスであろうと、彼女らが異界と契約するための仲介人に過ぎない気すらしてくる。それぐらい、今の黒沢映画で本当に恐ろしく面白いのは女性たちだ。10月公開となる最新作のタイトルが『ダゲレオタイプの女』であることも無関係のはずなく、そこでどんな“女”に魅せられることになるのか我々は怯えながら待つほかない。(松井 一生)