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松本潤『99.9』続編は制作されるのか? 有終の美となった最終話を振り返る

2016年06月26日 13:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)タナカケンイチ

 『99.9 -刑事専門弁護士-』最終話は、これまでの流れを汲みながらも、情報量の多さで全体的にタイトな流れとなり、ベストエピソードとなった。連続殺人犯として起訴された依頼人が、検察の取調べで自白の強要をされたことを受けて、検察の歪んだ正義感による“冤罪体質”を暴き出し、23年前に発生した深山(松本潤)の父の事件との関連を持たせたのである。


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 容疑を否認し続ける依頼人に対して、明確な物的証拠と半ば自白の強要とも思える取調べが行われたということ。そして、事件時刻に現場にいることが不可能だった証拠を弁護チームが提出したところ、まんまと訴因変更が通ってしまい事件時刻が変更されたこと。この二点が深山の父の事件と共通していた。そのため、深山は23年前に何もできない子供だった自分の悔しさを晴らすために、真っ向から事実の解明に挑む。


 「身に覚えのないことで、人はこんなにも簡単に逮捕されてしまうものなのですか?」。深山が依頼人の父親に会いに行く場面で登場するこのセリフは、本作の根幹であると言えよう。思い返してみれば、第2話と第5話の依頼人以外、全員が何の罪も犯していないにも関わらず、被疑者として逮捕・起訴されてきたのだ。


 ドラマ全話を通して、演出方法として疑問に思っていたふたつのことが、このセリフひとつですべて解明された。まず、毎回行われてきた弁護士ドラマなのに探偵モノのような真犯人の究明方法。「依頼人の利益よりも事実」をモットーにした主人公は、ドラマとしては面白いが、果たして真犯人探しは弁護士の仕事として相応しいのか、という疑問を感じていた。しかし、これは前述のセリフで語られる問題を、明らかにするための手段に他ならない。無実で逮捕された人間と向き合い、その嫌疑を晴らすことが最大の目標となる存在こそが弁護士なのである。


 そしてもうひとつは、前述のように探偵ミステリー風にすることだけで充分娯楽要素になるにもかかわらず、さらに娯楽性を高めようとした小ネタの数々。ところが、最終話のみっちり詰め込まれたストーリーの中にそれが入り込むと、そこまで違和を感じることは無くなった。具体的な分量の問題ではなく、全体のテーマが“冤罪”という、とてつもなく重いものであると明確に出された終盤では、ドラマを重苦しくしないための緩急としての意図が、ようやく発揮されたのではないだろうか。


 この“冤罪”という問題を、劇中では“99.9%に隠された0.1%の事実”という言葉でわかりやすく表現してきた。たしかに“冤罪”に関しては、一般的にはその定義すら曖昧な言葉である。もっとも、法律を学んだ人間にとっては映画『真昼の暗黒』で描かれた八海事件、『BOX袴田事件 命とは』で描かれた袴田事件のように無実の者が有罪判決を受けることを考える。ところが、熊井啓監督の『日本の黒い夏 -冤罪-』でタイトルにも付けているように、誤認逮捕によって無実の者が罪に問われるケースを示す考え方もあるとされている。


 いずれにしても、共通していることは“無実”であるということであり、それをできるだけ早い段階で証明されなければ、無実のまま裁かれるという結果は免れないことである。それを実世界で防ぐために、このドラマが選んだ問題提起の方法は、主人公を冤罪の被害者にすること、冤罪を作り出した検察を悪として描くことと、それを暴き出すために検察と対決できる弁護士を中心に描くこと。そしてすべてのメッセージを、クライマックスの法廷シーンでの深山の最終弁論に集約したのだ。


 「無罪が確定しても、生活はもとどおりになるわけではありません、何もなかった平穏な日々、幸せを、過ぎ去った時間を、取り戻すことはできません。誤った逮捕、起訴によって、その人の人生は、大きく狂わされてしまうんです。今回の事件は、刑事裁判で最も大きな罪とされる、冤罪事件です。冤罪事件は多くの人を不幸にします」


 ただ、深山の父親の事件が解決する糸口に辿りつかないまま終わるというのは、少々腑に落ちない部分がある。もし今回の高視聴率を受けて続編が制作されることになれば、再審の場で大友検事正(奥田瑛二)との直接対決を期待したいところである。しかし、あくまでも今回は、“冤罪”によって不幸になった主人公が、完全に報われては問題提起として成立しなかったのだろう。それが何とももどかしいところだ。(久保田和馬)