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嘘をつくのは誰なのか?ーー現役弁護士が『FAKE』における著作権法上の論点を分析

2016年06月25日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『FAKE』(c)2016「Fake」製作委員会

著作権法第一二一条
著作者でない者の実名又は周知の変名を著作者名として表示した著作物の複製物(原著作物の著作者でない者の実名又は周知の変名を原著作物の著作者名として表示した二次的著作者の複製物を含む。)を頒布した者は、一年以下の懲役若しくは百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。


 これは、「著作者名詐称罪」という罪を規定している著作権法の条文だ。簡単に言ってしまえば、事実と異なる著作者名を冠した作品を市販した者には、一年以下の懲役若しくは百万円以下の罰金又はその両方を科す、ということが定められている。


参考:『FAKE』はなぜヒットした? 配給会社・東風代表が語る、ドキュメンタリー映画の面白さと難しさ


 この条文によれば、佐村河内守名義で発表された作品の少なくとも一部が新垣隆氏の著作物だったのだとすれば、その作品を自分の名前で発表し、レコード会社を通じ市販した佐村河内氏の行為は、著作者名詐称罪に該当する可能性があることになる。


 もちろん、佐村河内氏の作曲への関与の程度や、新垣氏自身が自分は佐村河内氏の共犯だと主張している点など様々な問題があり、事はそう単純ではない。実際、佐村河内氏は一連の件で起訴はされていないし、そのことが不当だと主張するつもりもない。


 ただ、今さらかもしれないが、『FAKE』という映画について書くにあたって前提としてこの点は強調しておきたい。佐村河内守氏の行為は、たとえ最大限佐村河内氏に有利に解釈したとしても、法的に問題となり得るものだった。


 そもそも、著作権法は基本的に「著作権者のための法律」であり、著作者が有する権利を財産権の一種として保護するための法律という面が強い。仮に著作権法が100%「著作者のための法律」だとすれば、少なくとも本当の著作者=ゴーストライターが納得しているのであれば、自分で自分の財産をどう処分しようと勝手であり、第三者から文句を言われる筋合いはない、ということになる。新垣氏が納得しているなら、佐村河内氏の行為も問題ない、というわけだ。


 しかし、著作権法すべてが「著作者のための規定」というわけではない。著作者名詐称罪はその例外の一つだ。ここで刑事罰を科してまで守ろうとしているのは、「本来の著作者の利益」だけでなく、著作者クレジットに対する社会からの信頼も含まれるからだ。


 映画でも音楽でも文学でもいいが、ある作者の「ファン」として作者に関心を持ち、「その作者の作品だから」という理由で作品を購入する、という態度は消費者としてごく一般的だ。映画を論じる文章の相当割合は監督論だし、ミュージシャンのインタビューは多くの場合そのミュージシャンの作家性に焦点をあてる。我々受け手にとって、「著作者は誰か」というのはやはり大問題なのだ。「全聾」「被爆二世」「耳鳴りに苦しみながら作曲する姿を映したNHKスペシャル」といったストーリーが音楽自体と無関係だからといって、そのストーリーに惹かれて佐村河内氏の音楽を買った人間の期待が保護されなくて良い理由にはならない。


 作品に表示された著作者名と実際の著作者が一致しないのはきっとよくあることだと思う。しかし、原則論として、本来はやはりできるだけ実態に即したクレジットがなされるべきだろう。


 本件に即して言えば、仮に佐村河内守氏の主張が正しかったとしても、佐村河内氏自身も新垣隆氏が作品に関与していること自体は否定していないのだから、最低でも「作編曲=佐村河内守/新垣隆」というような共作クレジットにすべきだった。でも、そうしなかった。
 
 佐村河内氏を題材とした森達也監督のドキュメンタリー映画『FAKE』を見てまず気づくのは、ここまで書いてきたような「ゴーストライターの是非」という点には監督は関心を持っていない、ということだ。


 被写体のどの面にフォーカスするかはまさにドキュメンタリー作家の作家性に属する部分であり、そのこと自体には良いも悪いもない。


 しかし、この映画で、例えば横浜のマンションで妻と猫と暮らす佐村河内氏の様子を見て気づくのは、佐村河内氏も妻も働いていないということだ。そして、佐村河内夫妻の自宅は豪邸ではないが、そこそこ良いマンションだということだ。来客があるたびにケーキを出し、一念発起して新しいキーボードを購入する程度の経済的余裕はあるということだ。


 佐村河内氏は問題発覚以前20年ほど職業作曲家として生活してきたのだから、現在のマンションでの2人暮らしを支えているのはその時代に職業作曲家として稼いだ金である、と考えるのが自然だろう。ということは、カメラに映る佐村河内夫妻の生活は今でも「ゴーストライターを使って稼いだ金」によって支えられているとも言えるのではないか。


 というような形で、この映画の中にも「ゴーストライターの是非」を意識せざるを得ない契機はばっちり映り込んでいる。しかし、作品はその点に踏み込んでいかない。監督にとって、他にもっと大事な点があるからだ。


 監督が重視するのは、佐村河内氏とメディアの関係だ。


 作中のインタビューで「あの事件以来、4、5回しか外に出ていない」と本人が語るように、佐村河内氏はマンションからほとんど出ない。カメラは基本的に自宅内にいる佐村河内夫妻と猫の姿を追い続ける。


 そんな単調な生活に起こるイベントとして作中で取り上げられているのは、フジテレビのスタッフが番組への出演依頼に来る場面、佐村河内氏が出演を断った代わりに新垣氏が出演することになったその番組を佐村河内氏が見る場面、また別のメディアがインタビュー依頼に来る場面などだ。


 実際に佐村河内印の商品を売ってしまったレコード会社、佐村河内氏の音楽を通用させたクラシック音楽関係者、CDを買ったリスナー、佐村河内氏を信じ家族ぐるみの付き合いをしていたという義手のバイオリスト少女など、この事件には多数の関係者がいるし、佐村河内氏と新垣氏の共犯関係は20年近くに及んだのだから、メディア業界以外の各方面にも相応に影響があったはずなのだが、それらはこの作品には一切映らない。佐村河内氏の郷里の父親も登場するが、そこでも語られるのはあくまで「メディアの報道が父親の生活に与えた影響」であって、佐村河内氏と父親の関係についてはよく分からないままだ。


 これは監督の問題意識の中心が「佐村河内氏とメディアの関わり」、もしくは「メディアに映った佐村河内氏」にあることを示している。


 繰り返すが、その視点の選択自体はまさに作家性の問題であり、良いも悪いもない。筆者は弁護士として法律問題が気にかかったが、監督はテレビ業界出身の映像作家としてメディアとの関係が気にかかった。それだけのことかもしれない。


 「メディアとの関係」に視点を絞った結果取りこぼしたものがあることに、この作品は自覚的だ。その証拠となる場面がある。佐村河内氏の演技じみた自己弁護と、それを正面からは否定しない国内メディアと、氏を意図的に泳がせるかのような監督の姿勢が作り出した予定調和的な雰囲気が、空気を読まない外国メディアの取材によってあっさり崩壊し、佐村河内宅に緊張が走る場面をカメラはきっちり捉え、その映像が重要な転換点として使用されているのだ。


 この場面を機に、本作は急展開を迎え、「衝撃のラスト12分間」になだれ込んでいく。


 「衝撃のラスト12分」は、森達也監督が佐村河内氏の単調な生活に力づくで介入することで始まり、最終的に観客に大きな謎を投げかけて幕を閉じる。その謎の真相はひとまず措いておく。指摘しておきたいのは、その謎の真相について観客よりも制作者、つまり現場で取材した森達也監督のほうが良く知っているとしか思えない、ということだ。知っていて敢えて隠していると言ったら言い過ぎかもしれないが、少なくとも、敢えて触れないようにしていることがある。本作を見終わった後に残る謎は、出来ることを全て尽くした後にそれでも残る未解決点というより、監督の不作為が生んだ「語り残し」だ。もっと近づけばあるいは「謎」自体存在しないことが判明してしまうかもしれない地点で、意図的に踏みとどまって、「謎」を生き残らせている。


 その真相を観客よりも詳しく、具体的に知り得る、少なくとも近づき得る立場にありながら、その立場を利用して少しでも真相に近づき、その結果を観客と共有しようとはしていない。それだけでなく、情報を共有しないことの結果生まれた制作者と観客の間の情報格差を、「謎」として物語の動力に利用しているのだ。


 森達也監督には『ドキュメンタリーは嘘をつく』という著作がある。しかし、少なくともこの映画に関する限り、嘘をついているのは「ドキュメンタリー」というジャンル自体ではなく、森達也という1人の作家ではないか。


 佐村河内氏のゴーストライター問題が特異なのは、彼がクラシック音楽の「作家」になりたがった点だ。問題発覚後、「音楽業界でも出版業界でもゴーストライターという存在自体は決して珍しくない」という意見はよく聞かれたし、実際その通りなのだろう。しかし、世の多くのゴーストライティングが最終的には経済的な動機で説明できるのに対し、佐村河内氏は経済的利益よりもまず、「作家」という存在になろうとした印象がある。しかも、人類を代表して苦悩の闇の中から芸術を生み出す、古典的なイメージにおけるベートーヴェンのような「作家」に。その途方もない大時代的な欲望こそが「佐村河内守という作家」をクラシック業界では異例の成功に導き、またゴーストライター問題発覚後に公衆の耳目を惹きつけ、またこのような映画が製作されることになった大きな理由になったように、筆者には思える。


 かたや「楽聖」になろうとした作曲家と、かたや自身の飾らない姿を無防備にさらす手持ちカメラ片手のドキュメンタリー作家。一見全然似ていない2人だが、「作家」という存在を受け手と作品自体に対し特権的な地位に置くという意味で、本作における森達也監督の創作姿勢は佐村河内氏のそれととても良く似ている。


 そしてそこで忘れてはならないのは、佐村河内氏に「作家」としての実態はあったのか、という根本の問いだ。この作品の根底には、「そこは敢えて白黒つけなくても良い」という価値判断があるように思える。確かに、世の中には白黒つけないほうが良いこともあるだろう。そもそも、物事に白黒つけることは法律や倫理の役割であって、映画の役割ではないとも言える。


 しかし、佐村河内氏の「作家」としての実態の存在に期待して金を払った人が存在し、その期待を保護する法律もあることを考えると、白黒つけるところまでは行かなくとも、もう少し先まで描かれるべきだったのではないか。(小杉俊介)