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KEMURI 伊藤ふみお&津田紀昭が明かす、不屈の音楽精神「未来は明るいと言いたかった」

2016年06月22日 17:01  リアルサウンド

リアルサウンド

KEMURI。

 昨年結成20周年を迎え、通算11枚目のアルバムをリリースしたKEMURIが、マキシシングルという形態では実に13年ぶりとなる新作『サラバ アタエラレン』を完成させた。表題曲は、彼らの90年代の代表曲である「Ohichyo」や「Ato-Ichinen」あたりにも通じるような、疾走感と安定感を兼ね備えた楽曲。「まだまだいける!」と綴られる歌詞は、デビュー当時から彼らが掲げる「P.M.A(ポジティヴ・メンタル・アティテュード)」に貫かれた、あらゆる世代へのエールとなっている。


 日本のスカパンク・バンドの代表格としてシーンを牽引しつつ、幾度かのメンバーチェンジや、メンバーの不慮の死、そして2007年にはバンド解散に至るなど、紆余曲折を経ていながら、今なおひたむきに前進しようとする、その不屈の精神はいったいどこから来るのだろうか。今年は海外遠征も本格的におこなう予定だというKEMURI。ボーカルの伊藤ふみお、ベースの津田紀昭に、新作のこと、海外遠征の思い出などを語ってもらった。(黒田隆憲)


・「KEMURIにとって、新たなる代表曲にしなければ」(伊藤ふみお)


ーーKEMURIにとって通算11枚目のアルバム『F』がリリースされ、ちょうど1年が経ちます。改めて今、あのアルバムをどう位置付けているのか聞かせてもらえますか?


伊藤ふみお(以下、伊藤):バンドを再結成して3年目に作ったアルバムが『F』で、その間ずっとライブでやってきたこと、メンバーと色々なことを話し合い、コミュニケーションを重ねてきたことが丸ごと詰まった、あの時点でのKEMURIの等身大の姿を表した作品といえるでしょうね。『F』をひっさげたツアーも終わり、ここにきてまたKEMURIにいい曲が増えたなあっていう実感とともに、今、この状態のKEMURIをもっと多くの人に知ってもらうための努力をするべきなんじゃないかと思っています。「俺たちまだ、バンバン新曲作ってるし、こんなに精力的に動いているんだぜ?」って。


ーーここにきてそのバイタリティには頭が下がります。一度解散したことにより、かえって吹っ切れたというか、リセットできたという部分もあるのでしょうか。


伊藤:うん、それももちろんあると思う。でも、音楽的にも今KEMURIが作っている音楽の方が、昔より好きだし、バンド全体でお客さんを盛り上げようとしている感じとか、そういうところにものすごい情熱を感じるんですよね。


津田紀昭(以下、津田):それと、再結成以降、オリジナルギターだったTくん(田中幸彦:97年に脱退、13年に再加入)が戻ってきたことも大きいと思いますね。彼は結構曲も書くし、ドラムの(平谷)庄至くんやコバケン(コバヤシケン:テナーサックス)も、それに刺激されたのか前にも増して曲を持ってくるようになって。いろんな人の音楽性が、KEMURIの中に広がっている感じはします。


ーーそれで、今回はマキシシングルという形態での作品『サラバ アタエラレン』がリリースされます。表題曲はどのようにして生まれたのでしょうか。


伊藤:作るときに思っていたのは、「この曲はKEMURIにとって、新たなる代表曲にしなければ」ということでした。なので、歌詞には非常にこだわりましたね。今回は2パターン書いて、読み比べつつ「このフレーズはこちらのパターンがいい」などと話し合いながら、良い部分をピックアップしていきました。言葉の選び方をものすごく吟味しながら。


ーーテーマとしては、どんなことを歌おうと思いましたか?


伊藤:KEMURIは昨年で結成20年目の節目を迎え、「この先、どうしていこうか?」ということをメンバーたちと話し合ったときに、ブラッド(津田)にしても他のメンバーにしても、それぞれのビジョンっていうのが明確にあったんですよ。「KEMURIの未来」というものを、メンバー全員が個々に思い描いていてくれて、それにジーンときたっていうか。その心の中の景色を、全て現実にしていきたいって思ったんですよね。


ーーええ。


伊藤:強く願っていることは必ず叶う。「まだまだ俺たちはいけるんだ!」っていう気持ちを、曲の中に込めたというか。それはメンバーに対しても、お客さんに対しても、自分に対しても言いたかったんです。「未来は明るいぞ」って。なかなか今、そんなこと言える人はいないと思うんだけど、俺は天邪鬼だからさ(笑)。


ーー 「まだまだいける!」という歌詞はライブでふみおさんがよくファンに投げかけている言葉ですよね。


伊藤:そう。しょっちゅう言ってるのに、歌詞にしたことがなかったから今回入れてみた(笑)。あと、日本語と英語が交じり合っている曲っていうのも、KEMURIでは珍しいんじゃないかな。今まで英語は英語、日本語は日本語っていうふうに、意識的にこだわって分けて作っていたから。そのへんの制約というかタブーを、今回は破ってみました。


ーーそれはなぜ?


伊藤:ブラッド(津田)がアイドルソングを聴くのが好きで(笑)、それを僕もたまに聞かせてもらうんだけど、最近の曲って日本語と英語が交じり合ってても違和感がないんですよね。昔の歌謡曲って、サビでいきなり英語になったりしてダサイなって思ってたんだけど、今はそういうレベルじゃ全然ない。で、聞いているうちに自分でもやりたくなったっていうのは大きい。


ーーそれは貴重な裏話です! 聞くところによると、25~30歳の社会で壁に当たった人たち、現状に満足できず、それでも「やらなきゃ!」と思っている人たちへのエールも込められているそうですね。


伊藤:それぐらいの年齢の人たちって、社会人になって3年目くらいだったりするじゃない? だから、結構今の僕らが思っていることと通じる部分があるんじゃないかと思ったんですよね。実際、そのくらいの年代のスタッフからも、「伊藤さんの言いたいこと、わかります!」って言われたりして(笑)。それを聞いて、ちょっと歌詞の部分にも余白をもたせようと思いましたね。様々な年代の人たちに共感してもらえる内容というのを心がけました。


ーー考えてみれば、伊藤さんや津田さんがKEMURIとしてデビューしたのも、25~30歳くらいだったんですよね。当時、伊藤さんはバンドを解散したばかりで、「これが最後のチャンス」と思っていたとか。今のアラサーが抱える、焦りや不安を理解できる部分もあるのではないでしょうか。


伊藤:ああ、確かにそうですね。あの頃はねえ、「あ、俺30歳になっちゃった。もう若くないな」っていう焦りや不安は、半端ないものがあった。今考えると、全っ然そんなことないんだけどね(笑)。


津田:そう。でもやっぱり30代になる頃ってデカいんだよね。


伊藤:そうだね。あの頃は一人でバックパック背負ってアメリカのライブハウス回ってさ、デモテープ渡したりとかしてたけど。常に不安だったし焦ってましたよ。そんな自分たちの過去を、今の若者たちに重ね合わせた部分はあったかもしれない。ただ、あんまりうるさいことを居丈高にはいいたくはなかったな。自分が若かった頃を思うと、年寄りにとやかく言われたくなかったし(笑)。


ーー(笑)。


伊藤:たった一人だけ、「好きなことだけやってりゃいいんだよ」って僕に言ってくれた大人がいて。そのときは、「いやあ、あなたみたいな立場だから言えるんじゃないですか?」なんて思ったけど(笑)、今思うと、本当にその人の言う通りだったなって思う。


・「こういう時代だからこそKEMURIだろう」(伊藤ふみお)


ーー「Dancing in MOON LIGHT」は、どんな気持ちで書いた曲ですか?


伊藤:この曲は、落ち込んでいる友だちに「元気出せよ」って声をかけたいんだけど、面と向かってはなかなか言いにくいので歌にしたもの。太陽の下でガンガン踊るっていうより、青い月明かりの下で静かに踊るような、そんな感じの曲です。そういうテーマで書いてたら、熊本の地震が起きて……。日々当たり前に過ごすことすらままならなくなった方々が、またこんなに増えたのかと思ったら、ちょっと考え込んでしまったんですよね。「音楽やってる場合なのかな」って思った瞬間もあったし。


ーーそうだったんですね。


伊藤:それで、しばらく歌詞が書けずにいたんですけど、でもこういう時代だからこそ音楽だろう、こういう時代だからこそKEMURIだろうって、徐々に思えるようになってきた。僕らの音楽を聞いて、少しでも元気になってくれる人がいるならやるべきだろうって。この曲には、そんな気持ちも込めて完成させました。


ーー振り返ってみると、阪神淡路大震災があった95年にバンドを結成し、04年に新潟県中越地震が起きたときにはKEMURI主催のチャリティ・イベント「YOUGO」を立ち上げ、11年の東日本大震災を機にKEMURIは再結成を果たし。そして今回は熊本の地震と、その都度「音楽の意味」みたいなものを考えさせられた感じですか?


津田:ありきたりな言い方かもしれないけど、音楽って、どうしようもない精神状態のときに、元気づけてくれるものじゃないですか。今日もNHKの番組を見てたら、震災の後ピアノの音だけで気持ちがあたたかくなって、元気が出てきたっていうのをやってたんですよ。ピアノの音一つで落ち込んでいる気持ちを救ってくれるのであれば、KEMURIにだって貢献できることはあるんじゃないか? と。まあ、一生懸命曲を作ってレコーディングして、ツアーを回ることくらいしか僕らにはできないのだけど。それが伝われば嬉しいですね。


ーー今年は海外進出にも力を入れていきたいとのことですが。


伊藤:昨年4月にカリフォルニアのみでライブを行ったのだけど、今回は9日間で9公演。デンバーから始まって、ラスべガスとかアリゾナの方へ行って、最終的に太平洋側を北上してシアトルで終わるというスケジュール。10月はレス・ザン・ジェイク(米国フロリダ州のスカコア・バンド)と一緒に初UK上陸します。念願のUKツアー! それに、米国のツアーもコーチ(長距離バス)で移動するからこれも楽しみなんですよ。ここに来て結構、夢が叶ってる(笑)。コーチの中はこんな感じで……(と、写真を見せてくれる)。


ーーおお、すごく広い! この中で寝泊まりや食事も出来るんですね。


伊藤:そうそう。最初にデンバーで、次にラスべガスだから、800マイル(1300キロ)くらいあるのかな(笑)。ライブ終わってコーチに乗り込んで、寝て起きたら到着しているっていう。快適だよね。


・「KEMURIである以上、流行り廃り関係なくやり続けたい」(津田紀昭)


ーー初めて海外に行った時のこととかは覚えていますか?


伊藤:最初は1997年でしたね。アルバムのレコーディングで行って、4、5本ライブやって。そのときはレンタカーと、友だちの車の2台で移動したんだけど……もうね、珍道中ですよ(笑)。ナビも携帯電話もないから、地図を頼りに。あれっ、今となってはどうやって移動してたんだろう?っていう感じだね。初めて行ったハコは、カリフォルニアの谷あいにあったんだけど、着いたら真っ暗で。西部劇に出てくるような、木造のログハウスだったんだよ。タウンホールみたいなさ。


津田:そうそう(笑)。そこではメインバンドのベーシストからアンプを借りることになってたんだけど、僕らの出番までに手配が間に合わなくて。慌ててPAと直接繋いで演奏したのを覚えていますね。


伊藤:お客さんも一体どこから集まってくるの?って感じで。暗闇の中からまるでゾンビみたいにゾロゾロ集まってきて(笑)。最終的には超満員になってたけどね。メインのバンドは地元で有名だったから。


津田:とても気持ちよく演奏できたし、すごく楽しい思い出になってる。


伊藤:色々あったなあ。メキシコへ行って、子供に金を巻き上げられそうになったこともあったし(笑)。翌年の1998年にはアメリカでスカが大ブレイクして。仲が良かったレス・ザン・ジェイクも、超人気バンドになった。で、今度は彼らをヘッドライナーにして、7バンドくらいで全米40箇所を回るというツアーに僕らも参加した。7週間くらいかけて回るんだけど、そのときは移動手段として4トンくらいのトラックを借りたんですよ。荷台に無理やり三段ベッドを取り付けたような車。


ーー快適でした?


伊藤:それがね、もんのすごく揺れるわけ。ガダガダ...じゃなくて、ドーン!ドーン!って(笑)。全然寝れないわけですよ。それはもう大変だったなあ。そのとき、レス・ザン・ジェイクはコーチで移動しているわけですよ。すっごい羨ましかった。


津田:車の中では、毎晩パーティーをやっているわけですよ。「いいなあ……」って思いながら眺めていました。


ーー今はSNSの普及などで、自分の好きなバンドを世界中から検索できるようになりましたけど、当時海外の人たちは、KEMURIの音楽とかどうやって知っていったんでしょう。


伊藤:あの頃はファンジン文化っていうのがあって。同人誌ですよね、手書きの。自分で買ったCDについて自由に書いて、A4くらいの紙にコピーして二つ折りにしたみたいな。せいぜい5、6ページくらいかな。本当にアマチュアレベルから、かなり立派なものまで沢山存在していた。そこで情報を集めた人たちが見にきてくれたんですよね。その頃の僕らは、Roadrunner Recordsってところに所属してたから、そこの広報がプロモーションしてくれて。それで受けた取材のうちの、結構な割合がそういったファンジンでした。


ーーへええ!


伊藤:あとはカレッジ・ラジオね。大学のキャンパス内で、学生向けの放送をしているラジオ局が、インディシーンを支えているところもあって。ツアー先に着くと、地元のラジオ局のインタビューを受けたりもしましたよ。ツアーマネージャーから小銭もらって、それで公衆電話からラジオ局に電話して「KEMURIのボーカリストの伊藤です」って言うわけ。なんで俺が電話しなくちゃいけないんだろう……とか思いながら(笑)。ファンジンのインタビューもそんな感じだったしね。で、そのうちにメールインタビューっていう方法も出てきて、しばらくは電話インタビューとメールインタビューを並行してやっていましたね。


ーー貴重なお話ですね。さて、今後の展望はどのように考えてますか?


津田:やっぱり、スカパンクというスタイルはずっと変わらず継承していきたいですね。そこはこだわりというか、KEMURIである以上、流行り廃り関係なくやり続けたい。「やっていかなきゃ」っていう、使命感に近いものがありますね。スカパンクって、僕らがやりだした頃にはすでに自分よりも若い子たちのジャンルっていうイメージだったんですよ。オペレーション・アイヴィーとかレス・ザン・ジェイクとか。そのシーンでは最年長クラスでデビューして、そこから20年経って未だにやっているわけですからね(笑)。僕らに影響を受けて、スカパンク・バンドを始めた連中も今結構いますけど、やっぱり僕らのやってるスカパンクとは違うわけじゃないですか。だからこそ、僕らが鳴らすスカパンクはちゃんと残していきたいっていう気持ちは強いですね。


伊藤:最近、カセットで音楽を聴くことが多くて。あまりの音の良さに驚いているんですよね。世の中の流れはレコードからCD、そしてデジタル配信っていうふうに進んで来ちゃったけど、果たしてそれで良かったのか? って思っちゃうくらい(笑)。カセットって音が劣化するって言われるけど、なんかあの温かみのある音にヒントがある気がするんだよね。


ーー劣化していく感じも良かったりしますよね。ぜひ、KEMURIも『サラバ アタエラレン』のカセットテープ盤を出してください。


津田:そういえば、自分たちのライブ音源をカセットにダビングして、それを海外ツアーで売ったりしてたよね。インデックスを自分で書いて、LAに住んでいるアメリカ人の友だちが描いたイラストをケースに入れてさ。


伊藤:あのデザインとかめちゃくちゃカッコ良かったよね。僕らの専属カメラマンをモデルにしてて。


津田:それをCD化しましょう(笑)。


ーー『サラバ アタエラレン』のカセットテープ盤はオマケにして。


伊藤:それ、いいなあ!(笑)


(取材・文=黒田隆憲)