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宮台真司の『さざなみ』評:観客への最低足切り試験として機能する映画

2016年06月20日 16:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『さざなみ』(c)Agatha A. Nitecka

■<性愛>と<社会>はもともと両立しない


 ギャスパー・ノエ監督『LOVE【3D】』を復習します。連載では<性愛>と<社会>は元々両立しがたいものとして構造化されてきた理由を語って来ました。我々の<社会>が、1万年弱前から言語プログラム(広義の法)によって操縦される定住社会として存在するようになった事が、理由です。


参考:宮台真司の『LOVE【3D】』評:「愛の不可能性」を主題化した「いとおしさ」に充ちた作品


 本能instinctにはエネルギーとプログラムが備わりますが、ヒトの場合プログラムを欠いたエネルギーが欲動driveを構成します。生得的プログラムを欠く分、習得的プログラムが埋め合わせます。習得的プログラムは言語的に構成されます。言語的な主題化は地平に否定項目をプールします。


 従ってフロイトに従えば、<社会>を生きるべく言語プログラムを書き込まれることが外傷的であるだけでなく、<社会>を生きるべく言語プログラムに従うことが否定性のエネルギーを蓄積して無意識を構成します。そこで古い定住社会は定期的な祝祭の反復を通じて問題を馴致しました。


 祝祭は、男女の反転、強者弱者の反転、タブー・ノンタブーの反転などをモチーフとします。反転を通じ、言語が、血肉を覆い隱す不完全なカサブタに過ぎない事実を思い出し、カサブタが構成する定住社会を、カサブタの部分品に<なりすまして>生きるというわけです。


 注意すべきは祝祭が単なるガス抜きではなかったことです。ハレ・ケの交替に象徴される時間性を必須とする祝祭が、色街の設営に見られるように<祝祭の空間化>を施されることで、定住秩序にとって人畜無害な単なるカサブタとしてのガス抜きへと変化したのです。


 所有や婚姻を持ち込む定住社会や、本当の仲間を守るべく見ず知らずの輩を仲間と見做す空想を不可欠とする、書記言語が支える大規模定住社会が、<なりすまし>によって辛うじて可能になる特殊な集住スタイルに過ぎない事実を想起させ、神経症的強迫を退けるのです。


 でも定住以降も、キリスト教圏に於ける恋愛史に於いてすら、19世紀半ばまではモノガミーが婚姻にしか適用されなかった事実が象徴するように、<贈与>や<剥奪>の過剰からなる<性愛>が、<交換>バランスが支える<社会>を、<なりすまし>だと意識させました。


 現にフランス革命期に活躍してフランス性愛文学の起点となったマルキ・ド・サドは、<社会>にノーマリティを、<性愛>にアブノーマリティを配当する去勢された通念を反転し、アブノーマルな<性愛>にノーマリティを、<社会>にアブノーマリティを配当しました。


 『LOVE【3D】』では、複数プレイを所詮は人畜無害なガス抜き=オージー(乱交)としてしか生きられない男主人公が、複数プレイを<社会>に於ける<なりすまし>を再確認するための「本来的なもの」の呼び戻しとしてスワッピングを生きる女から、見放されるというモチーフを描き出します。


 これが<社会>の不可能性ならぬ<性愛>の不可能性を示す説話論になっているのは、映画が提示する性別非対称性ーー所詮オージーに留まる男/スワッピングに開かれた女ーーが、性的退却が急速に進みつつある今日、コミュニケーションの不可能性を支える恒常的な要因であるからです。


■享楽ならぬ快楽に留まる人畜無害な男達


 更に遡っておさらいすれば、「社会の完成や愛の成就が本来可能なのに、悪や不条理が妨げている」とする<可能性の説話論>に、「社会の完成や愛の成就が本来不可能なのに、何かが働いて完成や成就を夢想する」とする<不可能性の説話論>を対比させた上で、後者に軍配を挙げて来ました。


 [所詮オージーに留まる男/スワッピングに開かれた女]という対比が、「本来は反省が可能なのだから反省せよ」と男に説教を埀れるものに過ぎないなら、この対比は<不可能性の説話論>よりむしろ<可能性の説話論>に属することになるはずです。しかし実際のところどうなのでしょう。


 2年前まで1年間余り試みてきた性愛ワークショップでは、「<フェチ系>から<ダイヴ系>へ」というスローガンを掲げて、事実上「所詮オージーに留まる存在」から「スワッピングに開かれた存在」への陶冶を呼び掛けてきましたが(実際に複数プレイをするか否かは無関係)、僕は諦めました。


 各所で書いてきた通り、「性愛で深い変性意識状態に入れない理由について、自分のどこに問題があるのかよく分かったが、宮台さんが推奨する“ダイヴしてアメーバになる”実践は僕には無理だから、性愛は適当でいい」と答える「享楽ならぬ快楽に留まる男」が大半だと分かったからです。


 そう答える割合は明白に性別非対称で、男が大半です。非対称の理由が明白に構造的なもので、かつ構造(ないし構造化の趨勢)が変更不能なものであるなら、説教を埀れても実りません。むしろそうした非対称性が乗り越え可能だと思えた「短い時代」を支えた特殊条件を考察すべきです。


 非対称の理由が明白に構造的なものである可能性を示唆する作品が、アンドリュー・ヘイ監督『さざなみ』(2016)。老夫婦の関係崩壊を描いた、御自身がゲイだとカミングアウトしておられる監督によるこの作品は、残念乍ら多くの誤解に晒されています。確かに誤解され易い物語です。


~~
 イギリスはノーフォークの田舎に暮らす結婚45周年の祝賀を迎えようとする夫婦(妻役シャーロット・ランプリング、夫役トム・コートネイ)がいる。ところが、結婚前の夫と旅行中、アルプスでクレパスに落ちた夫の元恋人が、氷河内に氷漬けの姿で発見されたとの報せがやってくる。


 夫は、表面上は微かに過ぎない動揺を見せ、遺体をスイスに引き取りに行くと主張する。動揺も微かに見えるので妻も当初は「結婚前のこと…」と軽くいなす。だが程なく、屋根裏に隠してあった元恋人との写真を夜な夜な眺める夫の姿を見、「夫の動揺が尋常でないらしいこと」に気付く。


 かくて妻の疑念が膨らむ。自分は所詮、元恋人の埋め合わせに過ぎなくはないか? 夫婦の好みを擦り合わせて来たはずの家具や調度も、実は元恋人の好みではないか? 記憶を含めた夫の全ての振舞いや邸宅の歴史に、不在なはずの元恋人の影が刻印されている、と感じられるようになる。


 夫は、妻の疑念を悟らない。やがて、夫が屋根裏で見ていたスライドに映る元恋人が妊娠しているのを見、妻の気持ちが終る。アルプスの報せから1週間、45周年パーティが開かれた。型通りの祝福スピーチに返礼スピーチ。「烟が目にしみる」の歌が流れる(歌詞が全ての終りを告げる)。
~~


■『さざなみ』の妻は神経質すぎるか


 巷には妻の過剰反応を訝る向きがあります。妻は、夫を攪乱する元恋人に攪乱されていますが、元恋人は既に不在です。不在に反応する能力が、チンパンジーと異なるヒト独特の性質なのは確かですが、とはいえ夫を攪乱する不在の恋人に妻が攪乱される姿は必然的ではないでしょう、と。


 愛するから嫉妬し、愛していない相手に嫉妬しない。ならば愛ゆえの嫉妬で愛を壊すのは理不尽です。自分を軽んじたという理由で相手が嫌いになることもありますか、それでも「相手が自分を重んじるべきだ」と思うのは、自分が相手を重んじるからこその<交換>バランスでしょう、と。


 ワークショップをファシリテートする宮台がいかにも言いそうです。スワッピングのように、夫に対する他者(元恋人)の欲望を、自らに再現して欲望する道もある、元恋人と夫の想像的関係への嫉妬を燃料にしてロマン主義的(=アバタもエクボ的)な愛を高める道もあるーー云々、と(笑)。


 こうした枠組で享受可能性を分析できる映画もあります。例えばミケランジェロ・アントニオーニ監督は、「2者関係が潜在的3者関係であること」をモチーフとする「気配の映画」を撮り続けて来ました。『情事』然り、『夜』然り、『欲望』然り。謂わば「何ものかに見られている映画」です。


 見る「何ものか」はヒトであるとは限りません。「不在の他者」だったり、「風にざわめく木々」だったり、「雲の流れが激しき荒天」だったり。潜在的3者関係を主題化した最初の作品なので、1960年のカンヌ映画祭でスキャンダルを巻き起こした『情事』を取り上げることにしましょう。


 夫婦同然の弛緩した一組のカップルがあります。男はサンドロ、女はアンナ、そして女の親友がクラウディア。3人は、他の旅行者を含めた一行でシチリア島周辺の島めぐりをしています。ところが荒天の中、アンナが失踪します。恋人サンドロと親友クラウディアがアンナを探します。


 絶えずアンナの気配を感じるがゆえの情欲で、2人は性関係に陥ります。やがて2人を含めた旅行者一行はアンナを忘却、アンナ探しがどうでもよくなっていきます。サンドロもクラウディアも、アンナの生死にかかわらずもう会うことはないだろうなどと思い始めるに到ります。


 ところがアンナの気配が薄れるにつれて2人の情欲が弛緩します。それゆえサンドロは、クラウディアと同宿する高級ホテルの無人の広間で第三の女グロリアと性交に及びますが、それをクラウディアに見咎められます。ホテルを飛び出すクラウディアに、サンドロが追いつきます。 打ちひしがれ涙を流すサンドロにクラウディアが手を差し伸べるーーこの「憫れみと赦しのラストシーン」は夙に有名です。巷ではこのラストが、「誰もが本当は弱いがゆえに不道徳な存在である他ないという事実を自覚した者たちによる、相互承認の身振り」として解釈されます。


 あろうことか、監督自身インタビューでそう述べています。そうであるなら、「罪なき者のみ石を投げよ」というヨハネ福音書第8章3節-11節の挿話に象徴される道徳(メタ道徳)がモチーフにならざるを得ません。しかし、この解釈は、道徳を否定する「気配の映画」を裏切ってしまうのです。


 メタ道徳は、誰もが「目で姦淫する」不道徳ぶりを逃れられないのにそれを忘れて道徳を持ち出す輩の似非道徳者ぶりを、非難するイエスの言説に見られます。自分も猥褻な妄想を抱くのに、救われたいので行動に移さず、律法を守る。そんな利己的律法遵守に道徳的意味はあり得ないと。


 かかるメタ道徳を主題化した作品は無数にありますが、アントニオーニ作品に限っては違います。実際『情事』に満ちた「気配」はそうした解釈を裏切ります。そうでなく『情事』のラストは、「誰もが2者関係を大なり小なり潜在的3者関係として生きている」という事実に関連します。


■2者関係は潜在的3者関係としてある


 「全ての2者関係は潜在的3者関係としてある」という事実を最初に見通したのは戦間期に活動した社会学者G・H・ミードです。3者とは主我・客我・他我。他我は「そこにいる他者」であり、客我は「そこにいない他者(達)の反応の中に結ぶ像」であり、主我は「私としての私の反応」です。


 「私」が他我alter ego=「そこにいる他者」に向けて何か行動します。行動が何を意味するのかは、客我Me=「そこにいない他者(達)」の反応の中に結ぶ像として与えられます。その像を前提として、主我I=「私としての私」の反応と行動が後続します。段落冒頭の「私」は主我Iに相当しています。


 ミードに於いては「私」の行動の意味は、「私としての私」ではない「不在の他者の視座」から判定されます。「不在の他者の視座」=「そこにいない他者の反応」を取得する営みを彼は役割取得role takingと呼びます。役割取得の能力は生得ではなく、幼児期のゴッコ遊びを通して習得されます。


 幼児はママゴトで母親の視界を、泥棒ゴッコで警官の視界を、取得します。眼前に母親や警官がいなくても母親や警官に<なりすます>ようになります。やがてこうした個別役割の取得を超え、他者一般 generalized others の役割取得ーーヒトには一般に世界がこう見えるーーに到ります。


 かくて「私」の行動が他者一般の視座から見て何を意味するかを理解するようになることが、ミードによれば「大人になること」。彼の『精神・自我・社会』(1934年)に従えば、客我Meの概念は、大人に於いては、こうした他者一般の反応の取得によって与えられる像を意味すると言います。


 再確認すると、主我Iは「私としての私」の反応に、客我Meは「そこにいない他者」の反応に、他我alter egoは「そこにいる他者」の反応に関わります。ティーポットが三脚あって安定して立つように、人間関係は純然たる2者関係でなく、「潜在的他者」を想像した「3者関係」として成り立ちます。


 学説史の常識ですが、ミードの議論はフロイトの翻案です。だからフロイトの継承を自称するラカンの枠組にも近接します。実際、以上の議論は、<社会>を生きるのに必要な言語プログラムの書込みがどう為されるのかについてのモデルであり、ラカンの「父の名」のモデルと競合します。


 ちなみに、ミードの主我Iは、フロイト=ラカンが言うes (it) に相当します。これは、es regnet (it rains)即ち「雨がふる」というときの、非人称主語のes (it) に由来していて、「事象の連なりの起点」ないし「エネルギーの起点」を意味し、経験的主観像に当たる客我Me=自己(主体)ではありません。


 『情事』に戻れば、そのラストシーンは、「誰もが2者関係を、大なり小なり潜在的3者関係として生きている」という事実を、互いが共有することが、相互承認への道だろうとする予測を表明していると見るしかありません。ここで僕は20歳代半ばから十年余りの間の経験を思い出します。


 僕は22歳で失恋した埋め合せに「もっといい女」を求める営みにハマりました。1990年代前半にナンパ師を多数取材しましたが、よくある話。僕はどんな女とつきあっても「自分を振った女の気配」を感じました。そんな女で手を打っちゃうの? ーー脳裏にそんな囁きが聞こえました。


 でも失恋の記憶が薄れると、いい女探しはオートメーションに頽落。僕は感情が働かないナンパ・マシーンになります。そして十年の時を経て偶然ーーいや「その女」の計画だったかもしれないーー感情不全の苦境を克服するに到ります。それがなければこうした文章を書いていません。


 僕は「その女」に明白に調教され、「その女」に恋心を抱いたり欲情したりする第三者(たち)の視座と反応を自分の内で再現することで、「その女」への高いテンションを維持できる事実を知ります。こうして僕は、自分が複数の視座が錯綜する「場」の如きものへと展開していくのを感じました。


 今は次の段階に進化しましたが、そのためにも必要なステップでした。即ち、「全ての2者関係が潜在的3者関係としてある」との事実認識を共有することで、『情事』が描く寛容さに開かれ得ます。こうした解釈に立てば『さざなみ』の妻は経験値不足ゆえに狭量だという話になります。


■性愛の社交は女ではなく「女」に関連する


 でも、これは演出を見ていない解釈です。S・ランプリングの眼差に吸い込まれ、妻の視座に内在した観客は、夫の未練にではなく、夫の鈍感さに苛立ちます。鈍感さがこれほどでなく、夫が、不在の元恋人への未練と、共在する妻への共感の間で、引き裂かれていれば、問題なかった筈です。


 妻は何を怒っていたのか。ラカンの「女はいない」がヒントです。ミレールはこの命題を、ニーチェの《女は、その恋人が自分達にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。男は、自分がその恋人にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる》(『曙光』)に即して理解します。


 ミレールはこうパラフレーズします。《女は、その恋人が「女」にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。男は、自分がその「女」にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。ここでは男女とも「女」に向かっている。男にとって「女」は他者だが女にとっても「女」は他者だ》。


 ミレールは更に《女は男の対象となることを欲望する》とパラフレーズしますが、ややミスリーディングです。実際、男を1次的存在と見、女を2次的存在と見るジェンダーバイアスに満ちていると批判されて来ましたが、現実の関係性に於いてはむしろ女の優位性を記述する命題です。


 そのことを、以下では範型(paradigm)という鍵概念を使って説明します。女がよく言う台詞は「あなたは女というものを分かっていない」です。他方、男がよく言う台詞は「おまえは俺を分かっていない」です。男が「おまえ男というものを分かっていない」と発話することは現実には殆どない。


 なぜか。その理由を僕は長らく「女は理解を求め、男は承認を求める」という命題で語って来ました。雑駁に言えば、女は、まず「女というもの=範型」への理解を求め、それを予選通過ラインとして、次に「わたしへの理解」を求めます。対照的に、男はいきなり「俺への理解=承認」を求めます。


 言い換えれば、女は、範型への理解能力を、自分を理解しようとする男の資格として設定します。ここでいう[女/男]の差異は理念型なので、例えば[欧米/日本]という差異にもスライドできます。僕の著作では、範型への理解能力を予選通過資格とする枠組を、社交文化に即して語って来ました。


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 F1のモナコ・グランプリの予選前日(木曜日)にモナコ王室が主催するパーティが開かれます。日本国内ではしばしば「タキシードの着用が原則なのに、日本の記者がフィッシュマン・ジャケットを着用したまま参加するのはミットモナイ」と非難されます。


 しかし厳密には的外れです。例えばアップル・コンピュータの創業者スティーブン・ジョブズであればTシャツとジーパンで現れるかも知れません。それでもいいのです。なぜなら、皆の期待を熟知した上で「ワザと外す」ことも、社交術の正攻法だからです。


 パーティのルールを弁えた上で「ワザと外し」たことをプレゼンテーションできれば、私は自分がパーティに参加するだけの器量を持った存在であることを示し、パーティの参加者たちを受け入れる意思があることを示すことができるのです。


 社交術の伝統を欠いた日本人が、「相手の期待に合致しているか」というレベルと、「相手の期待に応える度量があるか(期待に合致した行為をなし「得る」か)というレベルを区別できないことは、日本人の「ナンパ下手」にも関係します。


 日本人は、直接に相手の期待に沿おう(喜ばせよう)として、期待に沿えない可能性に脅えます。しかし社交術の伝統は間接性がポイントです。服装や家具や調度をほめることで、相手を直接喜ばせるより、むしろ自分に相手を喜ばせる器量があることを示そうとします。


 度量や器量があるところを相手に示せれば、社交術としては成功です。その上で、相手が自分を受け入れるかどうかはもはや相手の問題だと委ねるのが、西欧流の誘惑(ナンパ)です。そうするこどで、相手がなびくかどうかに一喜一憂してビビる必要を、免除されるのです。


 これらの例に明らかですが、相手の予期を踏まえたとしても、私の行為は、本来偶発的です。同じく、私の予期を踏まえたとしても、相手の行為は、本来偶発的です。社交文化を持つ国ではこれらの偶発性に混乱したりしません。社会成員の注意が、行為でなく予期に集中するからです。


        (「二重の偶発性とは何か~M式社会学第10回」『経』2004年2月号)
~~


 社交術の観点から言えば、愛の告白には、素朴に相手を喜ばせて首を縦に振らせることに意味があるのではなく、自分には相手を喜ばせるゲームをする力があることを示すこと、その意味で「愛のゲームに対する参加資格」を自ら証(あかし)することに、意味があるわけです。


 別の言い方をすれば、社交の目的は、自分に対してYESと言わせることではなくーー私という個体を承認させることではなくーー、自分が「ひとかどの人物」という範型に属することを示す所にあります。自分にはゲームへの参加資格が備わっている事実を示せれば、社交は成功なのです。


 更に踏み込めば、12世紀以来の「愛の意味論」が示すように、本来、愛は不可能であり、一致も融合も不可能だという伝統的な意識も関連します。とはいえ、人は愛が可能である「かのように」振る舞うことならできます。「神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しない」(ユング)からです。


 であるなら、「かのように」振る舞う能力が問われます。神秘現象が存在しない所に神秘体験をもたらす力量が事態を分けるのだと意識されます。相手の期待に応える力が存在することを示す営みとしての社交の伝統が欧州の宮廷社会に存在し続けたのは、そうした背景によるのです。


■「生きること」から「演じること」へ


 ラカンは別の仕方でも[男の論理/女の論理]を記述し分けます。男の論理(自意識)は「全ての男はΦである」という全称命題との緊張関係に於いて立つ「Φでない男が存在する(それは私だ)」という存在命題の形式を持ちます。二つの命題はカントが言う「力学的アンチノミー」を構成します。


 これに対して、女の論理(自意識)は「全ての女がΦである訳ではない」という全称命題否定との緊張関係に於いて立つ「Φでない女は存在しない(それは私だ)」という存在命題否定の形式を持ちます。これら二つの命題はカントが言う「数学的アンチノミー」を構成しています。


 女の自意識「Φでない女は存在しない(それは私だ)」と男の自意識「Φでない男が存在する(それは私だ)」を比べると、女の自意識「Φでない女は存在しない(それは私だ)」は、二重否定の再帰性ゆえに、「全ての女はΦである」よりも抽象的な水準で全称性を受容しているということができます。


 これに対して男の自意識「Φでない男が存在する(それは私だ)」は、「全ての男がΦである訳ではない」に比べて、抽象度の低い水準で全称性を否定していることが分かります。女は抽象水準が高いから全称性を受容でき、男は抽象水準が低いので全称性を否定せざるを得ないとも言えます。


 先に述べた通り、ラカンによれば「女」les femmesは存在しても、女La femmeは存在しません。女は男に「あなたは女というものles femmesを分かってない」と怒りますが、男が女に「あなたは男というものles hommesを分かってない」と怒ることはない。皆さんも聞いたことがない筈です。


 ラカンは、女は自らを虚構化しつつ「女」に接近すると見ます。<完璧な女>の虚構が自分に先立ち存在し、それを通して眼差され続けるのが女です。女にとって<完璧な女>への接近が主体(経験的主観像)の十全さを示します。だから女は虚構「女」が自分であるとの自覚を早期に習得します。


 ロマンチックな=馬鹿な男は、虚構「女」の向こうに真実(女)があると信じます。でも女自身はそう思っていない。虚構「女」が自分だと早くから自覚します。だから虚構「女」の向こうに真実を探しても詮ない。できるのは、眼差される虚構「女」をフォローすることだけ。それでいいのです。


 またしても<なりすまし>の主題です。「それでいい」というのは、女にとっては「女」を生きることがーー「生きること」よりも「演じること=<なりすまし>」がーー辛うじて濃密な感情をもたらすからです。そのことを主題化したデビッド・フィンチャー監督『ゴーン・ガール』もあるほどです。


■『さざなみ』と『ゴーン・ガール』の並行性


 そう。ここに到って我々は漸く『さざなみ』と『ゴーン・ガール』の厳密な並行性を論じられます。『さざなみ』の妻と夫の関係と『ゴーン・ガール』のそれは同型です。『ゴーン・ガール』の目に見える物語は複雑かつ扇情的ですが、裏物語は以下のようにシンプルかつ本質的です。


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 外見はイカスがイモな男(ニック)がいた。男はベタだった。イカス女(エイミー)がいた。女はメタだった。女はゲームが好き。男は女を手に入れたい。だから背伸びしてゲームした。女はゲームできる男を探していた。だから眼鏡にかなって二人は結婚した。


 当初は男も努力したが、所詮はイモ男。ゲームは続行不能になり、疲れた男は小娘に手を付ける。目撃した女は立腹した。理由は浮気自体ではなく、ベタな小娘だったから。男の単細胞ぶりを証するカラダだけのイモ娘。男を選んだ自分の馬鹿さを思い知る。


 メタ女はベタ男の前から姿を消す。復讐すべく犯罪を偽装する。メタな自分をベタな檻に閉じ込めた怨念ゆえの復讐。当然復讐もゲームだ。男がゲームに参加すれば謎が解ける。現にゲームに参加した男は女の動機を理解する。それも女の計算。


 そこにドンデン返し。テレビで女に呼び掛ける男を女は見る。男のゲームプレイは完璧。出会った頃のあなただ。ゲームできるフリをしたイモ男だと思ったら、ゲームできるじゃないか。そこで、匿ってくれた元彼を殺して男の元に戻る。


 ゲーム再開を呼び掛ける女。あなたは「イモな役者」だと思ったら「大した役者」だよ。「永久にゲームで支配し合うのか」と返す男。しかし「結婚とはそういうもの」と凉しい顔の女。男は再帰的にゲーム再開を決意した…めでたし。
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 「生きる」よりも「演じる」こと。挙動に一喜一憂するより、<メタモード>に入って初めて開かれる地平の上でゲームすること。全てを知って何も知らぬフリをし、何も知らずに全てを知るフリをすること。なぜ<メタモード>でのゲームが推奨されるのか。映画に即して考えましょう。


 経験的には、どんなに美しい女でも、<委ねによる眩暈>が不得手なら、相手の男は浮気します。<委ねによる眩暈>が得意な女が出現したら男は抗えません。妻と浮気相手の女子大生の対比がこれです。淫乱ぶりとは重なりません。淫乱でも<委ねによる眩暈>が不得意な女がいるからです。


 同じく経験的には、<メタモード>のゲームが得意な女に<委ねによる眩暈>が不得意な場合が多く、ベタな女に<委ねによる眩暈>が得意なケースが多い。<メタモード>が自己防衛に関係するからです。実際、妻エイミーは<委ねによる眩暈>が不得意な分、<メタモード>のゲームが得意です。


 でも妻エイミーは<眩暈>から見放されていません。夫が<メタモード>のゲーム能力に長けている事実がTVインタビューで分かった瞬間、彼女は一瞬で<眩暈>に陥ります。ベタな<委ね>を経由せずとも、メタとオブジェクトを高速で往来するハイパーゲームに<眩暈>を覚えるのです。


 映画は、母が書いた超人気児童文学「完璧なエイミー」のモデルとして虚実を往復して来た経歴ゆえに、妻は<メタモード>の<眩暈>を知り、だから虚実を往復できる夫を見つけてゲームしようとしたのだとします。これが特殊すぎる設定なら、<メタモード>の推奨は空振りに終わります。


 判断は皆さんにお任せして(概念道具は揃えたので)、『さざなみ』に戻ります。『さざなみ』の夫婦関係と『ゴーン・ガール』のそれは同型です。『さざなみ』の妻も『ゴーン・ガール』の妻も、ゲームの複雑性の大小はあれ、虚構「女というもの」を前提にしたゲームの能力を要求します。


 2作品の違いがあるとすれば、第1に『ゴーン・ガール』の妻が要求するのが、ゲームであることに言及する再帰的ゲームで、複雑性が高いことと、第2に『ゴーン・ガール』の夫が妻の要求を理解し応えようとするのに、『さざなみ』の夫は、さして高水準でもない妻の要求を理解しないこと。


 この違いに並行して観客に要求される理解力も異なります。『さざなみ』の妻を見て「結婚前の話なのに粘着なんだよ」と経験値をアピールする馬鹿男が、『ゴーン・ガール』の裏物語を理解できないのは当然。それが日本の女達を不自由にします。『さざなみ』は最低足切り試験です。


 前回を思い出せば、<性愛>の不可能性には、(1)[<性愛>を<社会>の外として享受する女/<性愛>を<社会>の中の息抜きとして享受する男]の対立を巡るものと、(2)[虚構「女」を巡る<なりすまし>に長けた女/<なりすまし>ゲームが理解できない男]という対立を巡るものとが、あることになります。


 ここでの女や男を単なる理念型に過ぎないと見做していただいて構いませんが、既にお分かりのように、(1)と(2)は厳密に結合しています。<社会>を<なりすまし>てやり過ごせない存在が、<社会>の外を開示する<性愛>から臆病に身を退けるのは当然です。これは単なる故障か必然か?(宮台真司)