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キアヌ・リーブスはなぜ“平凡な家庭人”を演じたのか? 『ノック・ノック』出演の背景を考察

2016年06月14日 11:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2014 Camp Grey Productions LLC

 「なんでキアヌなんだろう?」率直に言って、本作『ノック・ノック』の話を初めて聞いたとき、最初に抱いた感想がこれだった。監督のイーライ・ロスは現代ホラー映画界のエースと言っていい存在だが、キアヌとタッグを組むイメージはなかったからだ。


 本作の粗筋はこうだ。妻と息子が海に遊びに出かけ、家で留守番をすることになった主人公・エヴァン(キアヌ・リーブス)。そんなキアヌの家に、雨に降られた美少女が迷いこんでくる。善意から彼女たちに着替えやシャワーを貸すエヴァン。彼女らはエヴァンの一挙手一投足を褒めまくる。悪い気はしないエヴァンは、ついつい彼女らと3Pをしてしまう。しかし、翌朝になると美少女二人は態度を豹変させ、しかも「自分は未成年だ」とエヴァンを脅迫し始める。果たしてエヴァンの運命は……? というエロティック・サスペンスである。


参考:“ゼロ年代ホラーの帝王”は、SNSの恐怖をどう描いた? 『ノック・ノック』の巧みな演出手腕


 この粗筋を知った後も、ますますキアヌである理由が分からなくなった。平和な家庭を守る善き夫の役なら、もっと地に足がついた役者でいいのではないか。だってキアヌである。そんなお父さんが何処にいるだろうか? 救世主や殺し屋など、現実離れした役にこそハマるが、平凡な家庭人の役など……。


 しかし、本編を見ると納得はできた。この役にはキアヌが一番だ。


 本作では狂気の美少女たちが「ゲーム」と称してキアヌ演じる主人公を破滅に追い込むわけだが、彼女らが「なんでここまでするのか?」がスッポリ抜け落ちている。一応、何かしらの過去があったと匂わされるが、本当に匂わす程度だ。キアヌも誘惑に乗っただけで、決して根っからの悪人ではない。


 ここで意味を持ってくるのは、本編のキーワードとなるSNSなどのネットコミュニケーション、そして「キアヌ・リーブス」だ。


 確かに本作に美少女たちには動機がスッポリ抜け落ちている。男たちの欺瞞を暴く的なことを言うが、先ほど書いたように「なんでここまでするのか?」を説明するには弱い。下準備をして、家を破壊し、人がスッポリ入る穴を夜通し掘って……動機が分からないので、必然的にそこまで労力をかける意味も分からない。それに、美少女たちは劇中で散々に警察に通報すると脅すが、自分たちも家を荒らしまわっているワケで、通報されたらタダではすまないはずだ。


 これは、ホラー映画にありがちな脚本の穴かもしれない。しかし、これをネットに置き換えて考えてみると……。自身のリスクを度外視して、他人の人生をオモチャにして、時にメチャクチャに破滅させる「ゲーム」を行う。そういう人は「いない」……とは言えないのではないか。有名人に執拗に粘着をするネットストーカーや、犯罪自慢をSNSで行う人。炎上した人をあの手この手で追い込む人。もちろん、多くのネットユーザーは一線を引いているが、中にはネットから現実へと飛び出し、悪ふざけで犯罪行為を行う者もいる。「なんでここまでするんだ?」それは本人たちにしか分からない。しかし、現実問題、そういう人間は「いる」のである。そのことに気が付くと、薄ら寒い気持ちになる。


 そして、このネットの怖い部分を何より知っているのがキアヌだ。自分の知らないところで、自分が誰かのオモチャに認定される。そんなネットでありがちなことを、キアヌは身をもって知っている。皆さんも「サッド・キアヌ(悲しきキアヌ)」という写真を見たことがあるのではないだろうか。あのキアヌが一人でベンチに座っている写真である。パパラッチが撮影した1枚の写真、それも完全に気を抜いている時の写真が、瞬く間に全世界中を駆け巡り、「ネタ」になり、インターネットのオモチャになったのだ。サッド・キアヌはジョークの域を出なかったし、一部ではキアヌの好感度を上げることにもなった。しかし、本人としては驚きもあっただろうし、いつ掌を返されるかは分からないという恐怖も多少はあるはずだ。キアヌはスターだ。評論家やマスコミ、それに観客の態度が容易く豹変することを知っているはずだろう。そんなキアヌだからこそ、本作の主役にピッタリなのだ。ある意味で、究極のデ・ニーロ・アプローチである。キアヌは実際にネットのオモチャになった人なのだから。


 インターネットの普及によって、人と人のコミュニケーションは容易くなった。昔なら絶対に出会わないような人とも出会えるようになった。しかし、その一方で、自分がまったく予期せぬところで誰かの「ゲーム」に巻き込まれる可能性も高まった。そして、そういう「ゲーム」を常識を超えたレベルで仕掛けてくる人間も確実に存在するのだ。この映画で描かれる恐怖は滑稽で理不尽だ。しかし、ゾンビウィルスや拷問組織、食人族などよりも、ずっと身近に実在している。少なくとも、キアヌはそれに近い体験をしているのだから。(加藤ヨシキ)