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速水健朗が解説する、『海よりもまだ深く』&『団地』の「団地映画」としての新しさ

2016年06月08日 17:31  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 『海よりもまだ深く』製作委員会

 是枝裕和『海よりもまだ深く』と阪本順治『団地』、奇しくも団地を舞台にした映画が、立て続けに公開された。(メイン画像は『海よりもまだ深く』より)


参考:『海よりもまだ深く』初登場5位 是枝作品が浮き彫りにする、日本映画の興行規模問題


 『海よりも~』は、母と息子の離別の物語である。母を演じるのは樹木希林、息子は阿部寛だ。阿部寛は、かつて小説を刊行したことのある「小説家」。実際には、探偵事務所で働いているのだが、あくまで「小説のための取材」である。プライドは高いが、器の小さな男。彼がたまに母親を訪ねるのは、借金の打診のためだ。競輪・パチンコといったギャンブルに金をつぎ込んでいるせいでお金がないのもあるが、彼には別れた妻・真木よう子との間に一人息子がいて、滞りながらも養育費を払い、たまに息子に会わせてもらう生活を続けている。


 「(息子は)フォアボールを狙ってたんだよ」。息子の少年野球を影からこっそり見ている阿部寛の台詞である。元妻の真木よう子には、新しいボーイフレンドがいて、声の大きいその男は打席に立つ息子を「ホームランを狙っていけ」と応援している。しかし、息子は見逃しの三振。その息子を阿部寛は、物陰でぼそっと擁護する。「フォアボールを狙ってたんだよ」と。妻の新しい彼氏への嫉妬だけではない。一攫千金のギャンブルはするくせに、いざ勝負となるとフォアボールを狙うタイプ。さらにその性格は、息子の人生にも引き継がれていくことになりそうだ。親子の別離の物語であるだけでなく、継続の物語でもあるのが、この映画の奥深さである。


 「そんなはずじゃなかった」。母親・樹木希林の台詞である。団地は、閑静な郊外での文化的生活を体現するマイホームを手に入れるまでのつなぎのための公共住宅だった。しかし、彼女は「借り住まい」だったはずの場所で人生の最終末期を過ごしている。


 阿部寛が樹木希林の住む団地を訪ねる。そこは、西武線郊外の清瀬の先にある。都心からはずいぶんと離れている。すでに取り残された場所という雰囲気が漂う。フォアボールを狙って見逃し三振する人生と「借り住まい」のはずの場所で終わろうとしている人生。どちらも不本意な人生である。そこが本作の重要な要素である。そして、本作が団地を舞台にしていることにも理由があるが、それはのちほど。


 阪本順治の『団地』の主人公は、長年営んできた漢方の薬局を畳んだ岸部一徳と藤山直美が演じる初老の夫婦だ。彼らが老後の静かな暮らしを送る場所として選んだのは、郊外の団地である。この映画における団地は「噂のコインロッカー」と呼ばれるくらいに話題はすべて筒抜けになる長屋的な場所として描かれている。阪本監督いわく「縦に積まれた長屋」が団地なのだ。


 団地の自治会長の奥さんを演じる大楠道代は、毎朝住民たちのゴミ袋の中身をチェックしている。彼女は、ゴミを通して個人の秘密情報を握る団地の裏の権力者。物語の序盤は、自治会町選挙というせせこましい団地内世界の権力闘争がコミカルに描かれる。団地とは言え、どこまでも大阪の住民たちなのだ。阪本監督は「大阪の人たちのことなら、大体わかるよ(笑)」と、大阪愛を込めて言う。大阪、通天閣、新世界。そんな大阪の下町の延長線上にこの団地も存在している。団地もまた阪本ワールドだ。


 岸部一徳と藤山直美は、一人息子を事故で亡くしている。彼らは、息子の死を乗り越えられずに生きている。できることなら、息子の元に行きたい。彼らは、そう考えて仕事を辞めてここに越してきたのだ。彼らの住む団地の部屋の中には仏壇が置かれている。


 さて、ここからが本題。もちろん、団地の話である。かつて郊外への憧れを抱き、団地に住み始めた高度成長期のニューファミリーの親世代は、日本の社会の中心的存在ではなくなりつつある。この世代の郊外から抜け出せずにいる人々にとって、「団地」や「郊外」は「終の棲家」になろうとしている。『海よりもまだ深く』の樹木希林演じる母親は、団地から抜け出すことなく死んでいくのだろう。阪本順治の『団地』における団地は、やはり初老夫婦が俗世間から距離をとって生きる(死んでいく)ための場所だ。そう、『海よりもまだ深く』『団地』は、ともに団地を死に接続される場所として描いているのだ。


 そもそも、団地は「死」が想定されている場所ではない。敷地内に焼き場や葬儀場がない(集会所を使うケースは聞いたことがある)。何より、仏壇を置くためのスペースがない(のちに団地サイズの仏壇が売られることになる)。団地のそもそもの目的は、「仮住まい」という要素が強い。マイホームを手に入れるまでの、仮の生活を送る場所。当初の団地には、そのような意味合いが強かった。だがいまどきの団地は、高齢者の住む場所になりつつある。そこで人生をまっとうしようという世代がすでに現れているのだ。


 かつて、郊外での生活は、人々の憧れの対象だった。ごみごみとして狭苦しい長屋的な下町での暮らしが戦後の都市部での生活だとするなら、郊外には広々とした開発されたばかりの新しい文化的な生活が待っていた。阪本監督(1958年生まれ)にとって団地は、子ども時代に大阪万博と一緒に見たピカピカの住宅群(千里ニュータウン)、未来の生活を連想させた存在だったという。郊外は新しいフロンティアだった。そして、郊外開発は、郊外線の私鉄会社や沿線の住宅デベロッパーの利益に適うものでもあった。もっと言えば、中間層を増やそう、内需を増やそうという意図の下での行政の思惑に合ったものでもあった。郊外化は、かつての日本人の都市住民の夢でもあり国策でもあったのだ。


 そんな郊外の代表選手であった団地は、いつのまにか取り残された場所となり、お金に余裕のある「郊外世代」は、そこから逃げ出して「都心回帰」と称して逃げ出していった。団地に高齢者が多いという問題は、つまるところ「郊外移住」から「都心回帰」へという住宅政策の転換によって生まれた現象なのである。まさに団地こそ「そんなはずじゃなかった」場所そのものなのだ。


 『海よりもまだ深く』『団地』は、ともに「都心回帰」ができない人々の話だ。高齢夫人を集めて文化人気取りでクラシック音楽の鑑賞会&講釈会を行う橋爪功演じる分譲棟の男(『海よりもまだ深く』)。権力を奮い、近所の婦人と浮気をしている石橋蓮司演じる団地の自治会長。どちらも滑稽な存在だが、その一方でそこから抜け出せずにいるもの悲しい存在とも映る。


 『海よりもまだ深く』で樹木希林が登場する最後のシーンは、彼女が団地の中から家族を見送る場面である。この親子は、このあと再び会うことはないのだろうという予感を漂わせるこの場面で映るのは、緑に囲まれた団地の姿だ。映画中でもっとも美しく描かれた場面だ。樹木希林が見送っているだけでなく、団地そのものが淋しそうにそれを見送っているかのようだ。


 『団地』は、映画の終盤のストーリーはネタバレ禁止の要素を含むので詳細は語れないが、そこで描かれるアレを見れば、団地が阪本ワールドにおける「通天閣」=「天上の世界と接続される場所」=「団地」として描かれていることがわかるはずだ。


 是枝、阪本両監督は、どちらも、団地を舞台に死に際を描きながら、団地をネガティブには描かなかった。まったく似ていない両作品が、そこで奇妙な一致を見せる。両映画の団地は、緑豊かな森のような場所なのだ。団地が生まれた約半世紀前の時代には、団地はコンクリートの人工的な場所として知られていたが、現代においては団地はむしろ緑に囲まれた場所に変わった。そのことが両作品でも示されている。


 団地はユートピアではないが、ノスタルジーでもない。「そんなはずじゃなかった」と思いながらも、それも悪くないかと思えるような人生を振り返る場所。こんな風に団地が描かれたことは、かつてなかった。


 団地映画史というものが存在する(ことにしたい)。その詳細は、僕も属している団地団の著書『団地団 ベランダから眺める映画論』という本に書いた。簡単に説明すると、川島雄三『しとやかな獣』から始まり、日活ロマンポルノの『団地妻』シリーズや森田芳光『家族ゲーム』などを経由して堤幸彦『ピカンチ』などへ引き継がれる、団地を舞台にした映画群のことだ。『海よりもまだ深く』『団地』のように団地を描いた作品は、これまでの団地映画史にはなかった。団地映画史の新しい地平としてこの両作品は刻まれることになる。(速水健朗)