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宮台真司の『キム・ギドクBlu-ray BOX初期編』評:初期3作が指し示す「社会から遠く離れた場所」

2016年06月08日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『悪い男』(c)2002 PRIME ENTERTAINMENT All Rights Reserved.

■痛みによって呑気な空想を爆砕する


 今回は、『キム・ギドク Blu-ray BOX初期編』に収録された『魚と寝る女』(2000年)、『受取人不明』(2001年)、『悪い男』(2001年)の3作品を取りあげて、キム・ギドク作品の共通したモチーフと、とりわけ初期作品に見られる特徴について、詳しく論じたいと思います。


参考:宮台真司の『LOVE【3D】』評:「愛の不可能性」を主題化した「いとおしさ」に充ちた作品


 キム・ギドクは、すべての作品において「激しい痛み」というモチーフを反復します。その理由について、僕は本人に直接訊ねたことがありました。仕事の席だったか、飲みに行った時だったかは忘れましたが、彼は次のように答えました。


 第一に、激しい体の痛みは誰にでも分かる。第二に、痛みは呑気な空想から人を目覚めさせる。第三に、痛みは観客を否応なく日常から剥離させる。第四に、だからこそ観客は拒絶反応を起こすが、それでも画面から目を背けない観客は自動的に“ギドク界”に巻き込まれる。


 つまり、ギドク作品における激しい痛みの描写は、観客に対する巻き込み装置・兼・スクリーニング装置になっているのだという訳です。しかし、こうした装置としてだけでなく、僕が見るところ、激痛描写にはギドクの映画的な主題にかかわる、重要な機能が与えられています。


■観客を社会に着地させない通過儀礼


 ギドクが言う通り、激しい痛みは、矛盾や規定不可能性を隠蔽する<社会>の空想を、木っ端微塵にしますが、そのことで、連載で述べてきた通過儀礼図式ーー日常から離陸し、カオスを体験し、別の場所に着陸する」という構造ーーにおける離陸の段階を構成するのです。


 離陸した観客は、カオスを経て、ギドクが狙った場所に着陸させられます。但し、通過儀礼図式を使う多くの作品ーー日本なら『赤い殺意』以降のピンク映画や昼メロがーーが成長モチーフなのとは違い、ギドク的な通過儀礼の着陸面は<社会>から遠く離れているのです。


 その意味でギドク作品は黒沢清作品に似ますが、<社会>から離れた場所に観客を着陸させる際、どこに着陸するのかを「痛み」で制御するのがギドク流です。肉体的「痛み」は言語の外にあり、だから動物も「痛み」ますが、強烈な「痛み」ゆえに登場者も観客も<社会>に着地できません。


 <社会>は言語的に構成されたシステムです。<社会>をうまく生きられるということは、言葉を喋れることです。『魚と寝る女』『悪い男』に見るように、ギドク作品の登場者は喋れない。喋れない代わりに、生理的な「痛み」だけを共有する。観客も「痛み」の共有を強いられます。


■言葉を失った者が社会の外で繋がる


 かくして登場者相互と観客は、言語によって構成された<社会>の外で「繋がり」ます。そこは<社会>を生きられない者たちの共同体です。僕は“ギドク界”と呼びます。ギドク界の住人が<社会>を生きられないことは、彼らが目的のために選ぶ手段の、荒唐無稽ぶりによって、示されます。


 『魚と寝る女』であれば、女は逃げる男を引き留めるべく、男の舟に結んだ糸の端の釣り針を自らの性器に刺すでしょう。『悪い男』であれば、男(ハンギ)が、愛する女子大生(ソナ)を自分に縛り付けるべく、苦界に落とす(娼婦街に監禁して恥辱を与える)でしょう。同じ構造です。


 『受取人不明』でも片目が見えない女子高生が、目を治すべく、彼女に欲情する米兵に体を委ねるでしょう。どれも目的に対して手段が理不尽で、手段を行使する本人に激しい「痛み」を与えます。ギドク界の住人は、目的を達するべく、「痛み」を通じて<社会>を離脱するのです。


 こうした説話論的構造は、ラース・フォン・トリアーの『奇跡の海』(1996年)にも似ます。同作では、夫への愛を証すべく、妻は夫の望む淫売に乗り出します。「愛を証するための、不特定者相手の淫売」という手段の荒唐無稽ゆえに、妻は<社会>を放逐され、最後は野垂れ死にます。


■片輪的オブジェに縋るギドク界の住人


 <社会>には秩序がありますが、通過儀礼を通じて<社会>の外に連れ出された者は、<世界>のデタラメに身を開きます。<社会>を生きる際に用いてきたファンタズム(空想)を粉砕されたギドク界の住人は、<片輪的オブジェ>つまり或る種の特異点に縋ります。ギドク界の摂理です。


 『悪い男』では、ハンギがソナに縋り、やがてソナもハンギに縋るでしょう。『受取人不明』であれば、混血児チャングクの母が、朝鮮戦争に従軍した米兵(元夫)からの手紙(言葉)に縋ります。しかし、縋る者は、それゆえ裏切られ、ますます<世界>のデタラメに直面するのです。


 『奇跡の海』がそうであるように、ギドク作品には、「<世界>の底でデタラメを体験した者に福音あれ!」という、激しい祈りがあります。ギドクはかつて牧師になるために勉強をしていました。言うまでもなく、<世界>の底で最も激しいデタラメを経験したのは、イエスその人です。


 これも『奇跡の海』との共通点ですが、「最も罪深き者ーー罪深くある以外になかった者ーーにこそ福音が訪れよ!」というキリスト教的な意味論を、絶えず反復するところが、非常にキム・ギドク的です。誰も指摘しないことだけれど、ギドク作品は「全てが」キリスト教的なのです。


■ギドク作品に反戦映画も恋愛映画もない


 『受取人不明』を、反戦映画だと受け取る向きがありますし、『魚と寝る女』と『悪い男』を、ギドクには珍しく、分かりやすい恋愛映画だと受け取る向きもあります。しかし、はっきり言っておきます。反戦どうたら、真の恋愛こうたらは、ギドク作品には関係ありません。


 戦争映画も恋愛映画も、<社会>を呑気に生きられる人々のファンタズムを前提にします。例えば、ただのショボい集団を「崇高な国」と見做したり、ただのショボイ相手を「運命の女」と見做したりすること。連載では、前者を政治ロマン主義、後者を性愛ロマン主義と呼びました。


 ギドクからすると、<社会>を呑気に生きられる人々のファンタズムを前提とする映画は、クソです。但し、戦争も恋愛も<社会>に於ける非日常的カオスで、<社会>の限界領域を指示するから、ファンタズムを壊す道具として使える。戦争や恋愛が使われるのはそれだけの理由です。


 また、ギドクは監督デビューの最初期から、社会への怨念に満ちた作風が取り沙汰され、韓国の「恨(ハン)」の伝統を継いでいるとも言われて来ました。はっきり言っておきますが、それもまったく関係ありません。既に述べた通り、普遍的な説話論的構造にこそ特徴があります。


 恨の伝統云々と解釈されれば、作品がパッケージされて消費されやすくなるから、ギドクとしては都合がいい面もあるでしょう。でも、ギドクの普遍的モチーフは飽くまで、「<社会>は大概うまく回っていて、一部に故障がある(から直そう)」という観念への違和感にこそあります。


■「恋愛」「戦争」「国家」は呑気な空想である


 彼は極貧層の出身で、お金がないから徴兵後に旋盤工から兵隊になり、実戦部隊に配備されました。その後パリに渡り、言葉が喋れないのにストリートに座り込んで絵を売っていました。その意味では、ギドクが<社会>をうまく生きられたことがない存在であることは事実でしょう。


 『悪い男』の女子大生ソナは、自分は<社会>をうまく生きている「と思える者」の典型で、冒頭に描かれる彼女の恋愛ゲームが、若い頃のギドクには手が届かない贅沢品だったのも本当です。恋愛や学問や仕事に没頭でき、<社会>に実りがある「と思える者」は、彼にとっては異族です。


 でも、それだけなら、彼の映画は個人的怨念を表出した凡庸な社会派作品になります。実際は違う。彼の映画は、「痛み」を用いた説話論的構造を用いて、「これが恋愛だ」「これが戦争だ」「これが国家だ」等の認識が「誰にとっても」ファンタズムに過ぎないことを描いた、普遍的作品です。


 言い換えるとギドクは、当連載『FAKE』評に引きつければ、「頑張れば報われる」という類の、<交換>バランスで成り立つ<社会>なるものが、ファンタズム(空想)に過ぎず、そもそもまったくあり得ないことを確信しています。


 だから、<社会>が<交換>バランスの上に成り立ち得るーーその意味で完全な理想社会があり得るーーなど「と思える」人間は、ギドクからすれば、単に鈍感という以上に、真理をねじ曲げる敵です。そうした敵が、「結果として」社会的疎外に喘ぐ底辺層を放置したりもする訳ですね。


 再確認すると、上流や中流に対する階級的怨念を抱いて攻撃的になっているのではない。たとえ下流の者であっても普通に<社会>を生きる際には抱きがちな、「国家」「戦争」「恋愛」の類の呑気なファンタズムに対して、攻撃的になっているのです。そうした構えは実は珍しいものです。


 珍しいと言いましたが、クリント・イーストウッド監督に見られます。事程さように、主意主義的=<ギリシャ的>=右翼的です。主意主義者から見て、主知主義的=<エジプト的>=左翼的なものは、いつも「神」や「理想社会」といった<交換>バランスのファンタズムに塗れています。


■ファンタズム(空想)が社会とパーソンを回す


 ファンタズムという言葉を説明します。僕らは「日本はある」「東京大学はある」と思っている。でも本当にあるのかを問われても証明できない。証書や証人を呼び出しても、「FAKEかも?」という疑念を論理的に退けられない。疑念を拭うべく別の証書や証人を呼び出しても、無限退行する。


 現実あるのは、“皆が「日本はある」「東京大学はある」と思っているはずだ、と自分は思う”、という空想(ファンタズム)だけ。因みにフロイト=ラカンは、そうした空想を自明に抱けるように育ち上がる条件は自明ではないとして、この非自明性を埋める「父(の名)」の機能を見出します。


 社会学にも[フロイトの「ファルス=母親の欲望先」⇒ミードの「一般的他者」⇒ルーマンの「任意第三者」]という形で、事実上「父の名」(ラカン)の概念の相当物に注目する学問伝統があります。僕は、そうした伝統の上に成り立つ社会システム理論というディシプリンにコミットしています。


 この伝統に従えば、「国家」や「国家間の戦争」なる概念だけでなく、ルーマンが言うように「相手との融合としての真の恋愛」どころか「言葉が伝わる」「感情が共有される」といった理解も、全てファンタズムです。こうしたファンタズム抜きに<社会>を生きられず、<社会>は回りません。


■「神は最後に救って下さる」は永久にない


 話を戻します。ギドクの考える<社会>の現実には、一方的な<贈与>と<剥奪>があるだけで、<交換>バランスなどありません。バランスは全てファンタズムである。「金持ちになれば救われる」と思う底辺を含め、多くの人々は勘違いによって毎日を凌いでいるとギドクは理解します。


 勘違いを生きられるというだけで、その人物はギドクの共感対象から外れます。だからギドク作品が戦争や恋愛に関わる共感を描くことはない。戦争のカオスや恋愛のカオスがどうあろうが、「常に既に」<社会>はうまく生きられないものとしてあり、空想がそれを覆い隱すのです。


 ギドクにとっては空想を抱けること自体が贅沢です。そこがフォン・トリアー『奇蹟の海』とギドク作品を分けます。ギドク界では<世界>の底に堕ちた者が最後まで救済されない。『奇跡の海』では、最後に鐘が鳴り響くという奇跡が起こり、神の福音が告げ知らされて幕を閉じます。


 ギドクは、「神を視界に入れれば、救われなかった者も最後は救われる、誰が見ていなくても神は見ていて下さることが分かる」といった<交換>の空想を許さない。前提を欠いた<根源的未規定性>を空想によって無害化することが宗教の機能だとすると、ギドクは宗教を許しません。


 精確に言えばギドクが許さないのは救済宗教ですが、彼が救済宗教を許さない理由を確認すると、<世界>はそもそもデタラメで、「最後に報われる」といった<交換>バランスがあり得ないからです。そこには連載でも触れた<エジプト的なもの>ならぬ<ギリシャ的なもの>があります。


 しかし聖書学者トロクメが言うように、そもそもヤハウエ信仰に「罪を雪いだから許せ」といった<交換>の論理=神強制(ウェーバー)を持ち込む営みを、生贄で神を釣るのと同種の涜神行為だと罵倒したのが、イエス。信仰は<贈与>である。その意味でもギドクはキリスト教的です。


■弱者が織り成す<過剰>の群像が美しい


 そこにもう一つの要素を加えられます。『魚と寝る女』や同じモチーフを反復した『春夏秋冬、そして春』が最も先鋭的ですが、ギドクには、弱者の織りなす<過剰>の群像を、遠くから眺める感覚があります。そこには戦争批判も恋愛批判もなく、単に<美>への開かれがあります。


 そこでの<美>とは何か。『魚と寝る女』に分かりやすい構図があります。先に述べたようにギドク界の住人は<社会>を生きられない弱者です。その証拠に彼らは言語を使えず、「痛み」を与え合うというエゴセントリックな方法で「交流」します。ただ「交流」という言葉が誤解の元です。


 彼の「交流」には、僕らが「コミュニケーション」という言葉を使うときに空想する「伝達」や「分かち合い」がありません。互いに「痛み」ゆえに相手にもたれかかる相互依存関係があるだけです。これは全ギドク作品に共通する重要なモチーフで、特に初期作品に於いて鋭く示されています。


 こうした閉じた相互依存関係は、安定して静謐だが、飽くまでエゴセントリックであるーー。この奇妙なモチーフは、僕が今から十数年前に、奈良県の部落解放同盟で、お祭りの期間に講演した際の、僕自身がひどく動転した経験を、思い出させます。簡単に紹介しておきましょう。


■弱者でなくなった途端に<美>は消えよう


 僕は講演で「江戸末期以降の部落は極めて相互扶助的で、それを今でも継承するのは日本に残された数少ない美徳だ」と語ったのですが、打ち上げの席で幹部が「そう言ってくれてありがたいが、美徳というのは違う。さもないと生きられないから、そうしているだけだ」と仰言った。


 彼は続けます。もし被差別部落の状況が改善し、相互扶助が不要になれば、その瞬間に全てが終わるだろう。部落解放運動の運動目標は、我々が弱者でなくなることだが、我々が弱者でなくなることで、あなたの言う<美>は永久に失われ、単にあなた方と同じになるのである、と。


 宮崎学氏が部落出身である事実をカミング・アウトした『近代の奈落』(幻冬舎)にも同じ趣旨の記述があります。宮崎氏は更に踏み込んで、弱者たることが<美>の源泉なら、一般人と同等になることはやめて、程度問題ではあるが弱者であり続けるべきではないか、とまで言います。


 これは僕自身が亜細亜主義を研究する中で、ずっと思ってきたことです。実際、岡倉天心や大川周明は、弱者であるがゆえの亜細亜の<美>の文明と、強者であるがゆえの欧米の<力>の文明を対比させています。雑駁な図式ではあるけれど、本質の一部を穿っていると感じます。


■ありもせぬ<交換>を夢想する浅ましき存在


 同じことを、部落だけでなく、在日や沖縄を考えるときにも感じてきました。でも天心や大川がこれを語れたのは、自分(達)が弱者当事者だと意識できたからです。部落・在日・沖縄などの弱者当事者に対して、強者である僕がそれを語ることは、構造的に困難だと思ってきました。


 ギドク界の住人が見せる弱者の相互依存は、エゴセントリックでセルフィッシュだけど、だから<美>なのです。それは蜘蛛の巣がそうであるような一つの秩序です。蜘蛛は、美しい物を織り上げようと企図するはずもなく、「単に生きるために」巣を張ります。だからこそ、美しい。


 生き物が作り成す美しい秩序は、全てがそういうものです。ギドクには弱者による<過剰>の群像がそう見えているのでしょう。我々の実存という近接した場所から見れば<過剰>だけれど、<社会>の遠隔から見れば――<世界>から見ればーー生き物の織り成す<美>を見出し得る……。


 だからギドク界の弱者は救済されてはならない。宗教を通じた想像的救済もダメ。救済されれば<美>は失われ、ありもせぬ<交換>を空想して<クソ社会>を生きる浅ましい存在しかいなくなるーーこれはギドクに触れる前からの僕の感覚だったから早くから彼に注目してきたのです。


■変則的な『悪い男』に設けられたクソフェミ対策


 この3作では『悪い男』だけが変則的です。だからこれを観たときは驚きました。先に言いました。“<世界>のデタラメゆえに特異点に縋る者は、それゆえに裏切られてますます<世界>のデタラメに直面する”というのがギドク界の摂理で、それが強烈な寓話性を醸し出すのた、と。


 ところが『悪い男』は当て嵌まらない。無頼のハンギは女子大生のソナを監禁、苦界の道行を共にしますが、最後まで裏切られません。視座がソナ側に移るからです。ソナも、ハンギとの関わりを通じ、<交換>バランスを空想で調達する社会の<クソ社会>ぶりを確信するに到る…。


 だからこそソナは、ハンギが逃がそうとしても逃げず、ハンギとの道行を自発的に選びます。僕が「クソフェミ」と呼ぶ左翼フェミニストの一部は、「ストックホルム症候群を男に都合よく解釈している」とホザきましたが、あまりの鈍感さと頭の悪さに開いた口がふさがりませんでした。


 ギドクはそういう解釈を予想して釘を刺しています。ラスト近くの浜辺のシーンで、ハンギとソナが写った古い写真が出て来ます。時間的関係の崩れが「夢オチ」を暗示します。サヨフェミが噴き上がったら「これは可哀想な男の妄想だから」と言い訳できるようになっているのです。


■見つめることしかできない男がナンパ師になる


 クソフェミ対策に留まらず、この人畜無害化の仕掛けで万人にアクセスしやすい映画になりました。加えて、“特異点に縋る者がそれゆえに裏切られてますます悲劇に直面する”というギドク界の摂理が例外的に停止させられることも、「夢だからだ」と言い訳できるようになっています。


 つまり、夢ならぬ現実ではギドク界の摂理は飽くまで貫徹しているのだと。関連して付け加えれば、言葉を奪われた男が美しい女子大生を見つめるだけ、という設定の意味。これはギドク自身がかつてそうだったこと、自分自身が「そういう夢」を見ていたことを暗示するでしょう。


 美しい女子大生を見かけても「この種の女が自分と交流することは永久にあり得ない」と思うから、見つめるしかない。彼女らが享受する<社会>からの利得に自分が預かれることは今後も絶対にないと確信している。そう。永久に救われることのない男がどんな夢を見ようが勝手です。


 ところが、酒宴で同席したギドクを見ると、若い女性の扱いが実にうまく、ナンパ師特有の技術を自在に駆使します。僕の見立てでは彼の実存と矛盾しません。「どうせ空想を生きられる人たちでしょ?」という見切りが完璧で、空想の中身が分かっているから応えるのも簡単なのです。


■初期の直接性が失われてきたように感じる


 最後に言うと、今回取り上げた初期作品に見られる“監督自身が剥き出しになった感じ”は、最近作の『嘆きのピエタ』(2012年)や『殺されたミンジュ』(2014年)などでは薄れました。同世代だから分かるけれど、50代半ばを過ぎて自分が剥き出しになった作品を作るのは難しい。


 初期作品が好きな人からすると、最近作たとえば『嘆きのピエタ』などは「ウェルメイドだが、ヌルい」印象を拭えない。とはいえ「痛み」を無理に強調した『殺されたミンジュ』は「作り物」感が拭えない。キャリアの閉じ方も視野に入って来たでしょうが、ブレイクスルーして欲しいです。(宮台真司)