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乃木坂46『じょしらく弐』徹底レビュー:アイドル×演劇が表現する“いつか終わる生の愛おしさ”

2016年06月07日 18:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『じょしらく弐~時かけそば~』の一場面。

 昨年、『じょしらく』『すべての犬は天国へ行く』の二つの舞台作品を経て、舞台演劇を自らの武器にする姿勢を一段深化させた乃木坂46。その志向を継続させるべく企画された昨年からの続編『じょしらく弐~時かけそば~』が、5月12~22日にかけて、渋谷・AiiA 2.5 Theater Tokyoで上演された。昨年の『じょしらく』に比してまず目を引くのは、トリプルキャストで上演された3チームそれぞれの、集団としての凝集力の高さだった。前回の『じょしらく』も川尻恵太の優れた脚本・演出によって、「アイドルが演じる」ことでしか成し得ない問いかけを示したが、グループとして本格的な舞台企画に進出した初年ということもあり、キャストとしてのメンバーたちは、まだいくぶん試行段階でもあった。


 しかし、昨年の出演メンバーたちが残した成果を着実に糧にした今年、グループとして『じょしらく』を成立させようとする意識が格段に増しているように見えた。もちろん、桜井玲香や若月佑美など芝居巧者が加わったことで生まれる厚みもあったし、昨年の『すべての犬は天国へ行く』に出演した生駒里奈にもキャストとしての堅実さがうかがえるなど、参加メンバーの舞台経験が『じょしらく』に持ち込まれたことも大きい。ただしまた、各チームで波浪浮亭木胡桃を演じた鈴木絢音、渡辺みり愛、北野日奈子ら2期生メンバーや、まだ舞台経験の少ないはずの初参加組を含め、各チームがもはや「舞台に挑戦」ではなく、作品の成熟度を上げるための準備を整えているように感じられた。それは、舞台『じょしらく』が完全に乃木坂46のものになったということなのだろう。


 昨年同様、原作漫画版のエピソードを細やかに踏まえ、原作に準じて「女の子の可愛さをお楽しみ頂くため邪魔にならない程度の差し障りの無い会話をお楽しみいただく」作品であることが示されつつ、時事的な小ネタを織り込むコメディのスタイルで舞台は進行する。そして、そうした形式を装いながら、アイドルとしての身体によってこそ表現できる切実さを作品の主たるテーマにしていることもまた、昨年同様だ。そこにこそ、乃木坂46×川尻恵太演出による『じょしらく』の重要性はある。


 原作の特典CDを踏まえた「時かけそば」というサブタイトルにのっとり、今作では防波亭手寅が落語「時そば」を下敷きにしつつ、未来にタイムスリップするエピソードを起点にして話は展開する。ここまでは「時そば」と「時かけ(時をかける少女)」とを掛け言葉にしたひとつのネタである。50年後の2066年に飛んだ手寅は、他の4人のメンバーと再会するが、そこで出会う彼女たちは50年の歳月を重ねた姿ではなく、手寅がいた「現在」と同じ年格好で現れる。つまり見かけ上、50年前から来た手寅と50年後の未来の4人は同じ年頃の姿で出会うことになる。これは終盤で、原作最終話のエピソードにも登場するコールドスリープマシーンを用いた結果であることが示されるが、ともあれ舞台に立つ2066年の5人は一見、「差し障りの無い会話をお楽しみいただく」エピソードを上演している際と変わらないやりとりを続けている。


 しかし、2066年では手寅のみがただ一人、順調に歳を重ね、残り少ない生を過ごしていることが知らされると、「現在」の手寅と「50年後」の手寅2人が同時に存在することによって、彼女たちの人間関係は急速に違った奥行きを見せ始める。すなわち、「差し障りの無い会話」のシークエンスだけであれば、あるいは2次元の内にとどまっていさえすれば、基本的には向き合う必要のなかった、登場人物たちの「成長」や「老い」を引き受けなければならなくなるのだ。そして、3次元かつ永遠ではない生身のアイドルによって演じられるからこそ、その切実さは大きく響いてくる。


 それを象徴するのが、2066年では「過去」の映像として再現される、アイドルグループ「SUGARSPOT」の解散コンサートのシーンだ。実世界で現在進行形でアイドルとして活動する乃木坂46のメンバーたちが、架空のアイドルグループの「終わり」を「過去のワンシーン」として擬似的に上演してみせるその構造は、たった今アイドルとして生きる人々に、いつかそこから降りる日が来ることを重ねて見せるものだ。


 さらにいえば、それは「アイドル」に限った話ではない。今こうして活動しているすべてのものが、やがては過去の痕跡になっていく。ことさらに生の躍動を発揮するための職能であるアイドルによってこのシーンが上演されることで、それは特有の重みを持つ。昨年の『じょしらく』が、複雑な入れ子構造を用いて「アイドルが演じる」ことの意義をポジティブに問い返したとするならば、今年の『じょしらく弐』は、「私たちはいつか終わる」というさらに普遍的な事象を、アイドルが上演することでしかありえない仕方で見せ、いつか終わるその生の愛おしさを謳ってみせたといえる。


 かつての楽屋にとどまって50年前の「じょしらく」時代の痕跡に浸る蕪羅亭魔梨威も、時の流れに通常通りに従って年齢を重ねる手寅も、等しく愛おしい。それを描き切っているからこそ、年老いた手寅から「現在」を生きる手寅にタイムスリップのキーアイテムである抱き枕が手渡され、「差し障りの無い」日常に戻ってきた時、作品の序盤でなにげなく展開されていたシーンの反復が、その見え方を大きく変えるのだ。他愛なくいつまでも続くような「じょしらく」の日々は、儚くて尊い青春期のようなものへと一気にテイストを変容させ、切なさと爽快さが交じる余韻を残した。舞台『じょしらく弐』が忍ばせた構造的な仕掛けは今回もまた、アイドルグループが上演してこそ味わい深いものだった。そしてそれを昨年にも増して強い説得力で見せることができたのは、乃木坂46と川尻演出のタッグ2年目の熟成を示すものだろう。(香月孝史)