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宮台真司の『LOVE【3D】』評:「愛の不可能性」を主題化した「いとおしさ」に充ちた作品

2016年06月02日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『LOVE【3D】』(c)2015 LES CINEMAS DE LA ZONE. RECTANGLE PRODUCTIONS. WILD BUNCH. RT FEATURES. SCOPE PICTURES.

■恋愛的性愛の渾沌を描く『LOVE【3D】』


 おさらいすると、社会の完成や愛の成就が本来可能なのに、悪や不条理のせいで妨げられている、とする<可能性の説話論>。社会の完成や愛の成就は本来不可能なのに、何らかの装置が働いて完成や成就を夢想するという<不可能性の説話論>。今回は後者に属する作品を検討している訳です。


参考:宮台真司の『カルテル・ランド』評:社会がダメなのはデフォルトとして、どう生きるかを主題化


 今までに触れた『FAKE』と『カルテル・ランド』が「社会の不可能性」を主題化した作品だとすれば、前編で予告した『LOVE【3D】』(ギャスパー・ノエ監督/4月公開)と『さざなみ』(アンドリュー・ヘイ監督/4月公開)は「愛の不可能性」を主題化した作品だと言えます。


 『LOVE【3D】』は主人公が、姿をくらました女との濃密な思い出を描く作品。3D映像の過激な性描写が話題ですが、観客が箱の中のミニチュアの如く慈しめるように狙ったらしい。狙い通りかは別に、慣れ親しんだ2D映像じゃないのでAVみたく欲情せず覚めた目で見られます。


 冒頭と終盤に、主人公の米国人マーフィ(カール・グルスマン)に対する、消えた恋人エレクトラ(アオミ・ムヨック)の「あなたは愛が分かってない」という台詞があります。主人公がどんな意味で「愛を分かってない」か。その謎解きが全体のモチーフを形作ります。では謎を解きましょう。


 監督はアルゼンチン出身。幼少期をニューヨークで育ち、フランスで映画を学んだ。作中「米国人/フランス人」の対比が見られ、「米国人は所有possessionを求める」等と定番の皮肉も登場、米国人の性愛が馬鹿にされるのは、ジャン=マルク・バール『SEX:EL』(2001)等と同じです。


 でもフランスがさして肯定されてもない。監督はセックス自体より《愛におけるセックスの次元》つまり恋愛的性愛ないし性愛的恋愛の渾沌を描いたとします。只かつてのフランス恋愛文学と違い、性愛的恋愛を愛でる訳ではなく、国境を越えた性愛劣化についての、観察があります。


■婚姻モノガミー外だった<愛のセックス>


 少し深めます。セックスには<愛のセックス><祭りのセックス><ただのセックス>があります。監督は<愛のセックス>と<祭りのセックス>の交点(共通集合)に興味を抱いていますが、<愛のセックス>と<祭りのセックス>が、各々別々の仕方で制度と結びついてきたことに、注意が必要です。


 <愛のセックス>は歴史が浅く、12世紀南欧で吟遊詩人の戯れとして始まった、成就(<交換>)を求めない既婚婦人の崇高化(<贈与>)が、16世紀には宮廷に持ち込まれ、既婚者同士の婚外関係に移行します。そこでは成就が求められましたが、成就が非成就を意味するという逆説がありました。


 即ち<部分(只の女)の全体化(世界の全て)>、言い換えれば<俗の聖化><内在の超越化>というありそうもなさゆえに、相手の「真の心」──相手が言う「あなたは世界の全て」は本当か──が問題となり、「病や死こそが「真の心」の証」(として相手に受容される)という形式に展開したからです。


 ところが19世紀半ばに、印刷術の発達て恋愛小説が普及すると、病や死ならぬ、結婚の決意を以て「真の心」の証だと理解する、その意味で謂わば結婚によって「真の心」を買うが如き、<交換>としての「恋愛」が、西洋世界で一挙に人口に膾炙します。今は御存じの通り、崩壊しかかっています。


 但しモノガミー(1対1)は、1万年前からの定住化(農耕牧畜化=動植物の栽培飼育)に伴う、ストックの成立と分配を制御する必要から、正則的性愛関係(婚姻)をそうでないものから区別するべく始まったもの。つまりモノガミーは婚姻に関するもので、元々は恋愛とは無関係だったのです。


 12世紀に始まる恋愛love=情熱愛の歴史に於いても、情熱は「制御不能な感情」のことでしたから、恋愛=情熱愛は、制度でしかない結婚の外側にあると考えられる他なく、従って12世紀から19世紀半ばまで一貫して、恋愛は既婚者同士の婚外関係に於いて生じるものとされて来ました。


 要は<情熱と制度は両立しない><恋愛と社会は両立しない>とする観念が維持されて来たのです。かくて長らく[婚姻=モノガミー]/[恋愛=非モノガミー]の図式が続いたところが、19世紀半ばに結婚と恋愛が結合して、[恋愛=モノガミー]というかつてない図式が誕生したのでした。


■<祭りのセックス>の人類学的歴史


 確認します。モノガミー的<愛のセックス>は百年余りの歴史しかなく、非モノガミー的<愛のセックス>に拡張しても数百年の歴史しかありません。これらに比べると<祭りのセックス>は遙かに古くからのもので、その起源は1万年前からの定住社会の始まりと関係すると考えられます。


 定住化に伴うストックの保全と配分の便宜から、婚姻(正則的性愛関係)というモノガミーが始まります。但し、既に話した通り、性愛は婚姻に独占されてはおらず、婚姻の正統性を脅かさないように多少は隠されてきた程度のことでした。その正則性すら、祝祭時には誰もが逸脱しました。


 なぜか。定住化に伴う婚姻のモノガミーが、所詮は仮象つまり<なりすまし>である事実を再確認すべく、祝祭時に敢えてタブー侵犯──公然の乱交など──がなされたのです。因みに祝祭には、定住化に伴う新たな社会的仕組が<なりすまし>であることを確認する一般的機能があります。


 具体的には、性愛局面に限らず、男女の入れ替え、大人子供の入れ替え、強者弱者の入れ替え、タブー・ノンタブーの入れ替えにより、定住化に伴う、ストックを前提とした<交換>的秩序──モノガミーは一例──の外側に<贈与>の過剰が満ちる事実をリマインドさせるものが、祝祭なのです。


 とはいえ、クリストファー・ライアンが注意を促すように、性愛は間違いなく特異点をなします。というのは、性愛の衝動は多少なりともアモルファス(無定型)で、その営みには反秩序的な契機が元々孕まれるからです。我々が絶えず婚外の相手に欲情する事実を持ち出す迄もありません。


 これについてはフロイトの知見が面白い。定住社会を支える法に従う際、ヒトは必ず裏で、法破り(タブー侵犯)に向けた否定のエネルギーを蓄積し、それが超自我(裏の法)を構成します。ラカンによると、タブー侵犯に伴う、苦痛と言える程の激しい享楽juisanceは、超自我に由来します。


 ここでフロイト基本図式を確認します。まず、ヒトの本能は不完全です。動物の本能はエネルギーと情報の組合せで、エネルギー発露の仕方のプロトコルを伴います。ヒトの場合、エネルギーはあっても情報を欠きます。生理的早産なので、エネルギー発露のプロトコルが未熟なのです。


 ヒトに特有の、情報を欠く未規定なエネルギーを、欲動(衝動)と呼びます。この状態では社会生活を営めないから、欠けた情報は後で書き込まねばなりません。生得的プログラムの欠如を習得的プログラムが埋めるのです。習得的プログラムは伝承を可能にすべく言語的に構成されます。


 言語使用は必ず地平(別様であり得る可能性)の抑圧を伴います。例えば賞賛は侮蔑の抑圧を伴います。抑圧された地平──否定された項目群──はプールされて無意識を構成します。加えて無意識の構成は換喩的(音像の類似による連結)・隠喩的(意味の類似による連結)になされます。


 纏めると、未規定なエネルギーを水路づける言語プログラムは外傷的に書き込まれ、無意識の抑圧を副作用的に伴います。無意識を構成する抑圧された否定項目は、隠喩と換喩で相互に関連し、夢や言い間違いの形で観察可能になります。これを“抑圧されたものの回帰”と言います。


 以上の機序は、性愛に於いて最も典型的に表れます。フロイトが言うように、性愛の欲動は元来、多形倒錯です。消しゴムに性欲を感じても不思議じゃない。これを言語プログラムを用いて外傷的に抑圧することで、遅くとも3歳迄の間に、多くのヒトが異性愛の性欲へと「整形」されます。


 今日、<愛のセックス>は、婚姻モノガミーに優先権が与えられます。子供の帰属が、婚姻モノガミーに優先権が与えられているのと同型です。でも、婚姻モノガミーは元来、専ら子供の帰属に関する制度であり、婚姻した夫婦が、子供と同じく愛も排他的に所有することは、なかったのです。


 ところが、当初は婚姻者の婚外関係にだけ生じた非モノガミー的な情熱愛が、やがて性交を伴って<愛のセックス>を誕生させた後、それでも暫くは愛はモノガミーとは無関係だったのが、結婚と出産に至る<愛のセックス>が最高ランクとなり、恋愛モノガミーが普及することになります。


 こうした言語プログラムの書き込みで“抑圧されたもの”は、超自我の働きを経由することで、倒錯への欲動として“回帰”します。後論に関連しますが、倒錯には、タブー侵犯の如き、社会の計算可能な補完物でしかないものと、オルタナティブな秩序を構想する、反社会的なものがあります。


■共有愛と複数愛の巨大な差異


 非モノガミー的な情熱愛が、性交を伴い始めて<愛のセックス>を誕生させた後、それでも非モノガミーが<愛のセックス>を貫徹し続けていたところに、結婚と出産に至る<愛のセックス>の最高位だとする「性=愛=結婚の三位一体」という恋愛モノガミーがセセリ出すようになったこと…。


 この図式は百数十年の歴史しかなく、今や三位一体は崩れていますが、それは結婚が後景に退いただけの話であり、「性は愛と結びついた時に最大の快と幸をもたらす」という観念や、「最高位の愛の関係が子供を独占する」という観念は、観客だけでなく、映画の登場者たちも縛っています。


 以上は学術的議論ですが、婚姻モノガミーが与えた後遺症としての束の間の恋愛モノガミーを、ある程度は相対化する力──学術的というより経験的な力──がないと、映画の見掛け上の扇情性のハレーションで主題を見失います。むろん見る人が見れば本作には扇情性のかけらもありません。


 消えた恋人エレクトラは、主人公マーフィ以上に<愛のセックス>を追求しています。追求するがゆえに、<愛のセックス>の触媒としての3Pや交換プレイなどの経験もふんだんにあります。のみならずマーフィの17歳の隣人オミを交えたポリアモラス(共有愛的)な関係をも仕掛けます。


 なのに、エレクトラは、エレクトラ&マーフィの対が最高位であることを脅かす出来事については、一見ポリアモリーとは思えない激昂ぶりを示します。マーフィがオミとこっそり性交して妊娠させた事や、乱交クラブでマーフィが第三者と手洗いでこっそり性交した事への、憤激です。


 何がポリアモリー(共有愛)かは活発な議論がある所ですが、それが<愛のセックス>の一種であること、従って、愛を欠いた複数プレイではないことや、愛が伴うとしても複数のラインが情報遮断された多股関係ではないことについては、今日の欧米では共通了解があるだろうと思われます。


 ここまで述べれば、消えた恋人エレクトラから米国人マーフィに2回投げかけられた「あなたは愛が分かっていない」という言葉に、エレクトラが籠めた意味や感情が──賛同・共感できるか否かに拘わらず──日本人の観客たちにも辛うじて理解できるようになるのではないでしょうか。


 確かにマーフィは共有愛が《愛を欠いた複数プレイではないことや、愛が伴うとしても複数のラインが情報遮断された多股関係ではないことについて》理解を欠き、それが米国人にありがちな免疫の無さ──複数プレイ自体に過剰に仰天して興奮したり──に由来するのだとされます。


 その意味ではマーフィの未熟さが明白ですが、マーフィの情報遮断的な複数愛に、共有愛を志向するエレクトラが過剰反応を示す点は、論争的です。第一に、どんな共有愛にも完全な情報共有はなく、複数の参加者が各々デリケートに操縦する情報非対称性がつきものであるということ。


 第二に、複数の情報非対称性は、局面毎に異なる優先順位──コノ感性やプレイはAと共有し易いがアノ感性やプレイはBとし易いなど──に関係し、そうした優先順位(に伴う秘密)の排除は不可能ですが、エレクトラは秘密に厳格に抗うクセに、他方で優先順位の維持に固執し過ぎること。


 固執し過ぎるから、エレクトラ&マーフィの対の最上位性を脅かす逸話を許せない。これはしかし、エレクトラ&マーフィの対が、他の全ての参加者や参加者同士の関係を道具──オカズ──として使うことと同じで、行き過ぎれば、対(つい)のエゴを野放しにする変形モノガミーになります。


■主人公の中二病が愛しまれる理由


 僕が思うに、エレクトラの矛盾は敢えて設定されたもの。主人公マーフィが、かかる明白な矛盾に満ちたエレクトラにガチで振り回される程度の中二病──自意識の病から外に出られないヘタレ──に過ぎないことを、印象づけるためだと思われます。この主人公の設定が主題に関連する。


 「主人公は未熟過ぎて愛する女の心的作動を理解できず、それゆえ彼女の中に結んだ自分の像を触知できず、それで自分が何者なのか分からなくなって崩れる」というビジョンが全編覆います。その女が行方不明になったので、自己像を与えてくれる女を巡って「母をたずねて三千里」。


 しかし、観客が対象をより愛しめるように3D化したという監督の言葉にシンクロかの如く、この作品は、主人公の中二病ぶりを否定的に描くより、むしろ愛しんでいます。一口で言えば、「俺もかつてはそうだった、俺の周囲にいる仲間達もそうだった」というレトロスペクティヴです。


 性愛についてはこうしたモチーフの設定がしばしば見られます。例えば、劇団ポツドールを主催する三浦大輔が脚本・監督を務めた『愛の渦』(2013年)がそう。乱交パーティで、参加者の女子大学生に恋をしてしまった男子大学生の「中二病」ぶりを、それこそ愛しむように描いています。


人間は〈感情の動物〉である。
愛も嫉妬も感情プログラムの帰結だ。
「現場」では嫌でもそれを見せつけられる。
非日常に見えて毎日どこかで反復される三文小説。
名状しがたい〈だるさ〉が襲い、そして福音が訪れる。
この三文小説ゆえに〈いとおしい〉との感覚が湧き上がる。
ただし〈所有のいとおしさ〉ではなく〈寓意※のいとおしさ〉だ。
主人公の青年はそれが分からぬまま、最終画面で向こうに駆けていく。
かつて青年と同じ経験をして迷走した僕は、心から GoodLuck! と祈った。
                ※寓意:この世は確かにそうなっているという納得


 この映画に僕が寄せたコメントです。先ほどは「愛の不可能性」を通時的に一瞥しましたが、『愛の渦』に言寄せて共時的にも一瞥して置きます。単独メインの乱交(オージー)と、夫婦や恋人が参加するスワッピングは、永らく厳密に区別されていました(過去完了形であって今は違います)。


 僕は多くを取材しましたが、共通のキーワードは「だるさ」です。但し両者は「だるさ」の質が違う。乱交の「だるさ」は、男が射精後に隣人の性交を見た時に訪れますが、「賢者モード」とは少し違い、正確には「これは非日常ではなく、反復される日常なのだ」という気づきが与えるものです。


■乱交とは異なるスワッピングのだるさ


 スワッピングの「だるさ」は説明が要ります。十五年程前に外部者がアクセスできるサークルは全滅しました。表面的にはネット時代下での情報管理の困難ですが、深層的には「それ程」愛し合うカップルがいなくなった(から参加者相互の情報管理にコミットしなくなった)のが理由です。


 「それ程」とは「どれ程」か。調査すると、参入動機の第1は、夫婦や恋人の浮気による嫉妬地獄と痴話喧嘩を克服したい。第2は、夫婦や恋人相手のマンネリを打破する筈の浮気にも飽きた、やはり愛する相手との間の熱情自体を回復したい。第3は、性交はともかく夫婦で社交がしたい。


 各々5割・4割・1割です。第3は若年だけ。動機付けが斉一的パターンなのも驚きですが、参加して1年以内に「同室プレイ⇒別室プレイ⇒貸出プレイ」と内容が展開する斉一的パターンも驚きです。「見えなくて悶々とし、後で相手から聞き出しても虚実が判らない」のを愉しむ訳です。


 だから男が性交しない場合も多く、補うべく単独男性を仕込みます。女に尋ねると、「愛する男が、分身の術で、見知らぬ男に化身し、自分を責めている」と感じる体験パターンも、「愛する男を、後の告白で興奮させるべく、タブー破りをあれこれ工夫する」行為パターンも、実は斉一的です。


 こと程さようにスワッピングが成り立つのは愛で結びつくカップルだけです。当時最も上質だった「女神の唇」は、超高級ホテルのスイート部屋にドンペリとフルーツの世界で、やりまくりを競う乱交とは全く違う感情のゲームがありました。でもそこに漂うのも実は「だるさ」なのです。


 乱交と違う「だるさ」と言いました。乱交の「だるさ」はアッパー系薬物に似て、非日常的刺激が慣れで日常化して「頭打ち」になるのですが、嫉妬の感情を使うスワッピングはエモーション系薬物に似て、頻度にさえ気を遣えば「頭打ち」と無縁でいられます。でもだからこそ「だるい」のです。


 困難ながら敢えて一口で言えば、「なぜヒトはそこまでしてパターン化された感情をもたらすために頑張るのか」──。ヒトは<感情の動物>で、ヒト独自とされる愛も嫉妬もインストールされた<感情プログラム>の帰結ですが、誰もが同じプログラムをインストールされている切なさ。


 《ヒト独自》と言いましたが、比較認知科学が、五百万年前に分化したチンパンジーとヒトの嫉妬形式を比較した知見を与えています。チンパンジーは眼前でなされた性行為にだけ嫉妬します。ヒトは、言語的な不完全情報があるだけで、「不在のもの」に反応して、嫉妬で気が狂います。


 「同室プレイ⇒別室プレイ⇒貸出プレイ」の展開は、「不在のもの」に反応するヒトの習性を利用したものです。「眼前のもの」に反応する超自我(タブー侵犯)的な乱交と、「不在のもの」に反応する<感情の相互浸透>(例:妻はどんな快楽を得たのか)を要素とするスワッピングは、本来違うのです。


■どこかに行けそうで、どこへも行けない


 以上のことを弁えていれば、エレクトラが、乱交クラブでの営みを、単なる乱交としてでなくスワッピングとして享受しようとしていたこと、マーフィには彼女の企図を理解する力がなく単に乱交を展開してしまったこと、監督がその差異を際立たせようとしていたことが、分かります。


 繰り返すと、乱交クラブでのマーフィは、<なりすまし>の確認ならぬ、近代社会に於ける単なるガス抜きとしての不全な<祭りのセックス>に、淫するだけなのに対し、エレクトラは<祭りのセックス>の不全を埋合せるべく、<愛のセックス>と<祭りのセックス>の重なりを生き「ようとする」。


 マーフィは、非モノガミーを不全な<祭りのセックス>──遊びのセックス──にだけ配当、<愛のセックス>にはモノガミーを配当します。対照的にエレクトラは、矛盾しつつも彼女なりの仕方で、非モノガミーを<愛のセックス><祭りのセックス>の重なりに配当、共有愛を生き「ようとします」。


 マーフィは、エレクトラの構えに先の述べた矛盾が含まれることもあって──そうした矛盾は「つきもの」ですが──、彼女にシンクロできません。精確に言えば、彼女は彼がシンクロしてくれている様に感じません。但しエレクトラはマーフィよりも愛について楽天的という訳ではありません。


 それを理解するには、不可能性という例の鍵概念に踏み込まねばなりません。そのために乱交とスワッピングに共通する「だるさ」を持ち出した訳です。それを一言で言えば、<どこかに行けそうで、どこへも行けない>という「だるさ」、即ちハイデガーが言う「第3の退屈」になるでしょう。


 <ここではないどこか>もそこに到れば<ここ>となり、再び<ここではないどこか>に向かうが、そこもやがて<ここ>になれば……。同じ営みの繰返し。それを、引いた視線から観照(テオリア)する場合──ノルベルト・ボルツが言う「サード・オーダー」──に訪れる感覚が「第3の退屈」です。


 それで言えば、この映画には、<どこかに行けそう>と思う馬鹿男と、<どこかに行けそうで、どこへも行けない>と弁える女、という対立があります。同じ対立が、先に触れた三浦大輔監督『愛の渦』にも描かれています。『愛の渦』のラストの喫茶店シーンで象徴的に明示されるものです。


 『愛の渦』では、乱交など所詮<ここ>に生じた息抜きでしかないと弁える女子学生と、対照的に終わりなき日常の<ここ>からの出口としての<ここではないどこか>を見出す男子学生が、比べられます。乱交に「遊びのセックス」しか見ないのが女である点、一見『LOVE【3D】』と逆です。


 しかし、既にお示ししたように、<ここ>に留まるのがオージー(乱交)で、<ここではないどこか>を想像的に開示するのがスワッピングです。たかがオージーに輝きを見るのは中二病ですが(『愛の渦』)、スワッピングの場をオージーとしてしか生きられないのも中二病です(『LOVE【3D】』)。


 『愛の渦』と『LOVE【3D】』が、同じ中二病を描いていることに、気付かなければいけません。他方、乱交など所詮息抜きと見切る女子学生と、スワッピングで酩酊しようとするエレクトラも同じ存在。女子学生も、愛する男を見出せば、スワッピングのトランスにハマる可能性があります。


■「だるさ」から「いとおしさ」へ


 大切なことは、愛する男女が、愛を継続すべく、感情の惹起を目差して工夫するスワッピングの場を、濃密な「だるさ」が覆い、それを参加者の多くが弁えていることです。所詮は同型の<感情プログラム>をインストールされているがゆえの「輝き」に過ぎないという<三文小説性>の自覚です。


 こうしたプレイの経験が豊富だろうエレクトラは、当然この<三文小説性>を自覚している筈です。自覚しつつ「輝き」を体験している、或いは「輝き」を体験しつつも自覚している訳です。恐らくはこれは監督自身の自覚です。そのことが、監督がなぜ中二病をいとおしむのかに、関連します。


 スワッピングの時空が非日常の「輝き」に満ちていればこそ、ヒトが所詮は皆同種のプログラムをインストールされた<感情の動物>に過ぎない事実を、再帰的に突き付けられ、「輝き」ゆえに「だるさ」を体験します。しかしその先があります。何と「だるさ」が「いとおしさ」へと変じるのです。


 誰もが大差なき<感情の動物>であるがゆえの、<三文小説性>に満ちたドラマこそが「奇蹟」であり、「いとおしい」のだという感覚が湧き上がります。現場で凡庸な感情を生きる全ての者達を愛しむその感覚は、オージー(乱交)の現場にいる全ての人さえをも愛しむ感覚にさえ繋がります。


 SF作家J・G・バラードの終末三部作とりわけ『結晶世界』(原書1966年)には、<世界>(宇宙全体)が終末を迎えつつあるとの予感が、<三文小説性>に満ちた営みをこそ、むしろ奇蹟として「いとおしむ」感受性を高める事が描かれます。この映画の監督にもそれがあるかもしれないと感じます。


 取材を通じて学んだのは、この「いとおしさ」の感覚が、風俗で働く女性の一部が男性客に感じる「いとおしさ」に似ることです。こと程さように「いとおしさ」の体験は男より女のほうが接近しやすいように僕は感じます。『LOVE【3D】』と『愛の渦』には、同じ「いとおしさ」が漂います。


 敢えて断る迄もなく、ここで言う「いとおしさ」「愛しみの感覚」は、何かを自分のものとする<所有化>によるのでなく、むしろ<世界>は確かにそうなっているという<寓話化>によるものです。『愛の渦』に寄せた先に紹介したコメントは、そうした「愛しみの感覚」の充満に、言及しました。


 同じ「愛しみの感覚」が『LOVE【3D】』にも充ちています。僕が『愛の渦』のラストで向こうに駆けていく主人公の若い男に心からGoodLuck! と声をかけたのと同じように、『LOVE【3D】』でギャスパー・ノエ監督もやはり主人公の若い男に心からGoodLuck! と声をかけているのです。


しかし、映画を見た後に周囲の若い男達と話した限りでは、この映画の企図は殆ど理解されていません。複雑性に打ちひしがれている主人公を、誰もが若い頃はそうだ、俺や仲間も昔はそうだった、と励ましているのですが、若い男達は、こんなに複雑なら退却しよう、となっているのです。


 これは昨今、性愛に関わる映画が直面しがちな困難です。「混乱こそ我が墓碑銘(Confusion will be my epitaph.)」(キングクリムゾン「クリムゾンキングの宮殿」ピート・シンフィールドの歌詞)であることを伝えるべく、混乱を描き出すと、「混乱はイヤだ」と客が逃げ回る。<クソ社会>は既に閾値を超えた可能性があります。(宮台真司)