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第69回カンヌ国際映画祭はなぜ多くの映画ファンから怒りを買った? 映画祭の歴史と経緯から考察

2016年05月28日 17:11  リアルサウンド

リアルサウンド

第69回カンヌ国際映画祭(c)Lagency / Taste (Paris) / Le Mepris (c)1963 StudioCanal - Compagnia Cinematografica Champion S.P.A. - All rights reserved

 ケン・ローチ監督が二度目となる最高賞パルム・ドールの受賞に輝いた第69回カンヌ国際映画祭。深田晃司監督の『淵に立つ』(16)が「ある視点」部門の審査員賞を受賞し、過去の名作を上映する「カンヌ・クラシック」では、デジタル修復された溝口健二監督の『雨月物語』(53)や、瀬尾光世監督のアニメ映画『桃太郎 海の神兵』(45)が上映されるなど、今年も日本映画に関する話題が開期中に伝えられてきた。


参考:ショー的要素に欠けていた? 「白人偏重」に揺れた第88回アカデミー賞授賞式を考える


 そんな中、下馬評とはかなり異なる受賞結果が世界中の映画関係者・映画ファンの間で賛否を呼んでいる。例えば、ショーン・ペン監督の『THE LAST FACE』(16)への歴史的酷評が妥当とされるような論評があった一方で、上映後の高評価によってパルム・ドール大本命とされていたマーレン・アーデ監督の『TONI ERDMANN』(16)が、ひとつも受賞に至らず無冠に終わったなど、評価バランスの是非が問われている感がある。


 なぜ、これほどまで世界の映画ファンから怒りを買っているのだろうか? その参考となるのが、今回カンヌの各部門で上映された作品に対する映画評論家・批評家による星取り評価を数値化した一覧。


https://cannes-rurban.rhcloud.com/index.pl/2016


 この一覧で高い評価を得た作品と受賞結果を照合してみると、全く一致していないことが判る。例えば、パルム・ドールを受賞したケン・ローチ監督の『I, DANIEL BLAKE』(16)は、受賞対象となるコンペティション作品21本の中で10位と、ほぼ中間に位置する評価。また、グランプリを受賞したグザヴィエ・ドラン監督の『IT'S ONLY THE END OF THE WORLD』(16)に至っては、下位3番目の19位というかなり低い評価を得ている一方で、上位5作品の評価を得た作品は無冠に終わっているのである。


 つまり、審査員が下した受賞結果と、映画評論家・批評家が下した評価は、全く別物に思えるほど乖離しているのだ。しかし、カンヌ国際映画祭の特徴を鑑みると、何となく納得できる点もある。そのことを論じるため、カンヌ国際映画祭の歴史と経緯を簡単に紐解いてみる。


 世界三大映画祭のひとつであり、またその中で最も権威があるとされるカンヌ国際映画祭。その歴史は1946年に第1回が開催されて始まったのだが、実はもうひとつの世界三大映画祭であるヴェネチア国際映画祭の方が古い歴史を持っている。ヴェネチアは1932年に第1回が開催されたが、カンヌは1939年に第1回開催を企画しながらも戦争の影響で延期となったという経緯がある。そしてカンヌ国際映画祭が企画された理由にもまた意義深いものがあったのだ。


 1938年に開催された第6回ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞(最高賞)に輝いたのは、レニ・リーフェンシュタール監督のドイツ映画『民族の祭典』『美の祭典』(38)2部作だった。ベルリンオリンピックの記録映画として製作されたこの作品は、ナチスによるプロパガンダ映画として知られている。一説には、ヨーロッパ全体がファシズムに支配され、戦火に見舞われようとする中、このような作品を映画芸術として讃えようとする姿勢に憤ったフランスが、対抗策として企画したのがカンヌ国際映画祭だったと言われている。つまりカンヌは、企画当初から政治色が強い傾向のものであったのだ。


 また、映画賞として一般的にその名が一番知られているアカデミー賞とカンヌ国際映画祭とでは、受賞対象となる作品選定の経緯と、作品審査の経緯が全く異なることも留意しておくべきだろう。


 アカデミー賞は、監督や俳優といったハリウッド映画人で構成される約6200人の映画芸術科学アカデミー協会の会員が、その年にアメリカで劇場公開された作品(約300本)リストの中から一番良かったと思う映画に投票するという形で行われる。映画界の“身内”によって選ばれる賞、と言われる由縁である。


 一方、カンヌをはじめとする国際映画祭は、世界中から応募のあった作品や映画祭側がセレクトした作品をコンペティション形式で上映(アカデミー賞授賞式そのものには作品の上映がない)。今年のカンヌでは21作品がコンペティションに選ばれた。またその審査にあたるのは、審査委員長をはじめとする複数の映画人たち。今年のカンヌで審査委員長を務めたのは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15)も記憶に新しいジョージ・ミラー監督で、そのほかアルノー・デプレシャンやキルスティン・ダンストなど9名の映画人で構成された審査員が審査を行った。


 アカデミー賞の受賞結果が映画ファンの評価と一致しないことが度々あるのは、ハリウッド映画人による“身内”の投票によって決まるという性質上、映画業界の思惑が介在するからなのだが、カンヌをはじめとする国際映画祭は10名前後のメンバーによって決定されるので、審査員の構成によってその年々の傾向が変化するという側面がある。そして審査委員長の好みは、受賞結果に大きな影響を与えると言われている。


 例えば、歴代審査委員長とパルム・ドール受賞監督の組み合わせとしてよく例に挙げられるのが、第47回のクリント・イーストウッド審査委員長が選んだクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(94)と、そのクエンティン・タランティーノが審査委員長を務めた第57回で受賞したマイケル・ムーア監督の『華氏911』(04)という組み合わせ。これは「アメリカ人がアメリカ人を評価した」ということだけでなく、審査委員長が映画監督であった場合に、本人の映画に対する考え方や趣味趣向が受賞結果に反映されることが往々にしてあったということなのである。


 興味深いのは「似通った新たな才能を認めるけれど、近親憎悪も若干ある」という点。第63回で審査委員長を務めたティム・バートンは、アピチャッポン・ウィラーセタクン監督の『ブンミおじさんの森』(10)をパルム・ドールに選んだが、揶揄的に分析すると「ティム・バートンしか選ばないような作品だが、ある意味で決してティム・バートン本人には及ばない作品」のようにも見えるのである。


 国際映画祭の意義のひとつに「新しい才能の発見と育成」という側面がある。アピチャッポン・ウィラーセタクンの評価には「新しい才能の発見」という点も指摘できるが、カンヌには「カメラ・ドール」と呼ばれる新人監督賞が設けられている。例えば河瀬直美は、『萌の朱雀』(97)で記念すべき第50回カンヌ国際映画祭の「カメラ・ドール」を受賞して名を馳せた。彼女は何度もカンヌに招かれ、『殯の森』(07)ではグランプリに輝き、今年は短編コンペティション部門と学生映画を対象としたシネフォンダシオン部門の審査委員長を務めている。河瀬直美が今なおカンヌで評価され、愛でられている理由は、彼女が「カンヌが見つけた新しい才能」だったからなのである。


 今年グザヴィエ・ドランがグランプリを受賞したことに賛否があるのは、作品に対する評価が低かったからだが、彼もまた「カンヌが見つけた新しい才能」だったからこそ評価されたのだと考えれば合点がいく。彼の監督デビュー作『マイ・マザー』(09)はカンヌの「監督週間」部門で上映され、2作目『胸騒ぎの恋人』(10)と3作目『わたしはロランス』(12)が「ある視点」部門で上映。『Mommy/マミー』(14)ではついにコンペティション対象となり、審査員賞を受賞している。


 つまり、カンヌとしては「カンヌが見つけた新しい才能」に対して“国際映画祭での受賞”というお墨付きを徐々に与え、「新しい才能を育成」しているのである。今年の受賞結果の中では、『THE SALESMAN』(16)で脚本賞を受賞したアスガー・ファルハディも、同じような視点で作品が評価されていると指摘できる。


 一方、パルム・ドールに輝いたケン・ローチ監督は、第59回の『麦の穂をゆらす風』(06)に続いての受賞。過去2度受賞した人物は今村昌平やミヒャエル・ハネケなどがいるが、これで8人目。国際映画祭の意義には「権威を与える」「再評価する」という側面もあり、今年80歳になる監督にとって「これが最後の作品になるかも知れない」という点も考慮されたのではないかと邪推できる。


 パルム・ドールに輝いた『I, DANIEL BLAKE』は、心臓病で職を失った独り暮らしの男と、2人の子供を持つ失職中のシングルマザーとの交流を描いた作品。福祉局に就労可能と判断されたことで福祉手当を停止され、生活が困窮してゆく姿を描くことで、ケン・ローチは社会保障のありかたに異議を唱えている。この物語の示す「国家が労働者を搾取する」という構造は、審査委員長であるジョージ・ミラーの『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の設定に通じるものがある。ジョージ・ミラーは元々医師であったことからも「この作品が示す問題点に対して意識が高かったのではないか?」とも思え、審査の経緯は明らかでないが「審査委員長の意向が受賞結果に影響を与えたのではないか?」という、こじつけにも近い深読みが出来るのである。


 イギリス与党による緊縮財政や福祉予算削減に対抗してきたイギリス野党が、今回の受賞を称えたという報道を目にする度、作品評価に対する賛否は別にして、パルム・ドール受賞は社会的な意義のあるものであったようにも感じさせる。思い返せば、カンヌ国際映画祭はファシズムに対抗するものとして始まったものではなかったか。


 今回のカンヌ国際映画祭は、テロの影響もあって厳戒態勢の中で開催されたという点も忘れてはならない。開期中、近隣のオーストリアでは大統領選挙が行われ、極右候補が僅差で敗れたということもニュースになっていた。現在ヨーロッパは難民問題や経済問題を抱え、危うい均衡状態にある。『神様メール』(15)が公開中のジャコ・ヴァン・ドルマル監督は来日の折、雑談の中で「いまヨーロッパ全体が、物事に対して寛容で無くなってきている」と語っていたのが印象的だった。


 今年は下馬評と異なる受賞結果となった訳だが、つまりは、より多くの人が「面白い」と思った作品が受賞を果たさなかったということでもある。カンヌの出品作品は、これから順次日本公開を迎えてゆくが、「受賞如何に関係なく、観る価値があるのではないか?」という点を、我々映画ファンは忘れてはならないのである。(松崎健夫)