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「北野武作品が大好きなのは事実」ーーメキシコの新たな俊英、ミシェル・フランコ監督インタビュー

2016年05月26日 11:51  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)Lucia Films-Videocine-Stromboli Films-Vamonos Films–2015 (c)Credit photo (c)Gregory Smit

 映画監督にとってその容姿がどれだけ重要かというのは議論の余地があるところだが、レオス・カラックスやグザヴィエ・ドランの作品が持つある種の“説得力”と彼らの(同性でも)うっとりとさせられるあの容姿のイメージを切り離すのは難しいし、ピーター・ジャクソンやギレルモ・デル・トロの容姿はファンにとってある種の“信頼感”を与えるものだろう。3年前初めて、このメキシコの映画作家ミシェル・フランコの作品(『父の秘密』)を観た直後に彼の写真を目にした時は、単純にその若々しさに驚かされたと同時に(当時33歳)、まるでブリットポップのバンドでギターを弾いていそうなその溌剌とした佇まいが、作品の持つヘヴィさや深遠な哲学性とのミスマッチ感とあわせて強く印象に残った。


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 愛する一人娘を、ネットで、そしてフィジカルに、陰湿なイジメによって苦しめてきた同級生に、父親がまさかのかたちで復讐を果たす『父の秘密』に続いて、今作『或る終焉』でもフランコは現代社会の歪みを容赦なく白日の下に晒していく。今回、彼が取り上げているテーマは“終末期医療”と“安楽死”の問題。ティム・ロス演じる在宅医療の看護師が患者と接していく姿を淡々と描いていった先には、驚きの展開と、「衝撃!」としか言いようがないラストが待ち受けている。


 30歳の時に発表した1作目の長編『Daniel & Ana』でいきなりカンヌ国際映画祭監督週間に選出されると、2作目『父の秘密』は同じく同映画祭「ある視点」部門でグランプリを受賞、そして昨年、本作『或る終焉』は同映画祭の脚本賞を受賞(脚本を手がけているのはフランコ自身だ)。アート系映画の権威であるカンヌから特別な寵愛を受けてきたフランコ。アルフォンソ・キュアロン、ギレルモ・デル・トロ、アレハンドロ・G・イニャリトゥらを筆頭に、今や世界の映画界をリードしているのはメキシコ出身の映画作家と言っても過言ではないが、その次世代に当たるフランコは、エンターテインメント映画の世界で大きな実績を残してきた先行する世代とは別の場所で、同じように映画の未来を果敢に開拓し続けている。(宇野維正)


■「映像や撮影方法は、常に他の映画と違うものでなくてはならないと考えている」


——『父の秘密』を初めて観て以来、あなたの作品の持つ誰の作品にも似てない精神的な強靭さに打ちのめされてきました。今回の『或る終焉』も、他の映画では見たことのないそのテーマへのアプローチの仕方に大変感銘を受けました。今回、“終末期医療”というテーマを取り上げたのは祖母との個人的な経験に基づいたものとのことですが、あなたが作品のテーマを選ぶ際、そしてそれを映画として語る際に、常に心がけていることを教えてください。


ミシェル・フランコ(以下、フランコ):映画を作り始める前、自分がいつも自分自身に次のように問いかけます。まず、「これから自分が作ろうとしているのは、今までに作られたことのないような作品なのか?」。『或る終焉』では、現実の世界であるように、患者から患者へと渡り歩いていく看護師について描きました。これは、これまで映画ではあまり描かれてこなかった世界だと言えるでしょう。もう一つ重要なのは、「自分が3~4年の年月を通じて関心を持ち続けることができるテーマであるか?」ということ。自分のようにプロデューサーとして企画の段階から作品を立ち上げていく場合、大体1本の映画につきそのくらいの時間がかかってしまいますからね。もちろん、そのテーマが個人的な関心が持てるだけでなく、多くの人たちが関心を持てるテーマであるかも重要です。また、映像や、その撮影方法も、常に他の映画と違うものでなくてはならないと考えています。


——今、「誰の作品にも似てない」と言ったばかりで恐縮ですが、日本人としては、北野武監督の初期作品とあなたの作品に共通する感覚があることを指摘せずにはいられません。それは特に『父の秘密』において顕著だと感じたのですが、今回の『或る終焉』にも同様のものを感じました。


フランコ:僕はなるべく自分の作品と他の映画との比較や、他の監督との比較を避けようと思っていますが、北野武の映画が大好きなのは事実です。彼は映画の中で人の闇を描いていて、しかもその闇は観客が共感できるものになっている。そこが素晴らしいところだと思っています。ただ、自分の映画を作っている時には、特定の監督を考えながら作ることはありません。まだ10代だった頃、1本目の短編映画を撮った時には、他の監督からの影響が確かにありましたが、今回の『或る終焉』でもう4本目ですからね。例えば俳優やカメラマンに「今回の作品はこの映画を参考にしている」みたいなこと言うことはもうありません。


——北野武作品について触れたのは、表面的なスタイルではなく、作品の根っこにある厭世観、絶対的な孤独感、人間というものを本質的には信用していないことが、あなたの作品に通じるものがあると思ったからです。


フランコ:僕はこの作品でティム・ロスが演じているディビッドが、厭世的だとは思いません。彼は人に何かを“与える”人だし、常に他人を優先する人で、とても人間的なキャラクターだと思っています。この映画には、悪人も善人も登場しません。患者の家族たちが看護師に対してつらく当たることはありますが、それは彼らが悪人だからではなく、日常的に強いストレスを感じているからそんな態度に出るのです。人生は時に悲劇的で、過酷な状況を私たちに強います。そんな中で、多くの人々は最善を尽くそうとしますが、それは必ずしも簡単なことではありません。特に、そこで愛する人たちが関わる場合には。


■「僕が映画を作るなら、自分がメインのプロデューサーでなければならない」


——ティム・ロスは素晴らしい役者であることは十分に知っているつもりでしたが、本作にけるティム・ロスの役者としての深い表現力には心底驚かされました。


フランコ:今後、もし「どの俳優とも仕事ができる」と言われたら、僕は「またティム・ロスと仕事をしたい」と答えると思います。今、彼のキャリアは最高の時期にあると思います。まだ十分に若いけれど円熟していて、役者としての野心やハングリーさもあって。ティムにはまだ役者としての新しい可能性がたくさん埋まっていると実感しました。きっと役者という仕事を通じて伝えたいことがまだまだあるんですよ。彼はとても映画の仕事に深くコミットしていますし、自分の役だけでなく、映画全体について考えられる役者で、僕がこの作品の中で何を伝えたいかよく分かっていました。そういう意味で、この映画はティムと僕が共同制作した作品だと思っています。彼のような素晴らしい役者と出会えたことを本当に感謝しています。


——ティム・ロスをはじめ、本作は英語を母国語とする役者をつかった作品で、撮影の舞台はアメリカのロサンゼルスでした。それは、あなたにとって新しい挑戦だったと思うのですが。


フランコ:映画はどこでも撮れるもので、アメリカでも、フランスでも、その作品をその場所で撮る理由があったら、僕はそこで撮る。それだけのことです。


——現在、世界的にメキシコの映画人、監督に限らず、役者やカメラマンや脚本家にも注目が集まっています。あなたは上の世代の世界的に成功している監督たちに続いて、ハリウッドに進出することは考えていますか? 


フランコ:もし自分がこれまでの作品のようにメインのプロデューサーとして作品に関わることができるなら、喜んでやります。この映画はハリウッドのすぐ近くのロサンゼルスで撮りましたが、僕はプロデューサーとしてもこの作品に関わっていて、物語に対する決定権を持っていました。そういう意味では、自分はハリウッドの言いなりになるような監督には一生なれないと思います。僕が映画を作るなら、自分がメインのプロデューサーでもなければなりません。そして、先ほども言ったように、その作品にメキシコ以外の国で撮る理由があればその国で撮ります。でも、それがなければ今後もメキシコで映画を撮っていくつもりです。


■「自分は常に、映画は“個人的”なものであるべきだと思っている」


——あなたのこれまでの映画体験について教えてもらえますか? どんな作品を観て映画監督を志すようになったか。そして、どんな作品に最も強い影響を受けてきたか。


フランコ:映画が持つ“力”を初めて発見したのは、15歳の時に観たルイス・ブニュエルの作品や、ヴィム・ヴェンダースの作品でした。特にヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』で、物語が天使の目線から語られているところ。あれは、自分にとって「映画のあり方」を教えてくれた天啓のようなものでしたね。映画監督という仕事は、暗闇の中に座っている何百人、何千人の人たちに、人間の深い部分から同時に語りかけることができる。そういう意味で、映画は素晴らしい表現方法だと思いました。そこから映画監督を志すようになって、19歳になって短編映画を撮り始めて……その頃に作っていた作品の中には、上手くいったものも、いかなかったものもありますが、そこから自分の映画監督としてのキャリアは始まりました。


——ところで、近年の映画界において、“作品の背景”としてのメキシコという国は、麻薬戦争の舞台として描かれる機会がとても多くなっています。一方で、あなたを始めとするメキシコ出身の監督は、その題材にあまり興味を示しているようには見えません。何か、その理由はあるのでしょうか?


フランコ:他の監督のことはわかりませんが、個人的には麻薬戦争についてとても強い関心があります。ただ、それを物語として語るなら、何か新しい視点、何か新しいテーマを見つけないといけないと考えています。自分は常に、映画は“個人的”なものであるべきだと思っています。だから、もし自分が麻薬戦争について映画を作るとしたら、それは“個人的”な描き方でなければいけません。まぁ、それについて今は深く探求しているわけではないのですが、興味はすごくありますよ。メキシコが麻薬にまつわる暴力で荒れていることは、今や何の秘密でもないですから。もしそのテーマを探究する方法が見つかったら、それについての映画を作ることはあると思います。でも、麻薬戦争をスタイリッシュに描いたり、理想化して描くことには反対です。それはハリウッドがやっていることで、僕はいいことだとは思いません。自分が作るなら、そのような映画にはならないでしょうね。


——メキシコ国外で活躍する監督や役者は確実に増えていますが、現在のメキシコ国内の映画界はどのような状況なんでしょうか?


フランコ:メキシコでは昨年140本の長編映画が撮影され、それはこれまでメキシコで最もたくさんの映画が制作された年であることを意味します。でも、そのうちの5パーセントから10パーセント程度の作品しか正式には配給されません。それが今のメキシコ映画界の現状です。フランスや他の国々のように自国の映画の配給が法的に守られていないので、メキシコでもそれが進められるべきだと自分は考えています。


——最後に、まだ日本での公開は決まってませんが、メキシコで撮った次作の『A los ojos』がどのような作品なのかについて少し教えてください。


フランコ:『A los ojos』はメキシコのストリートチルドレンを台本なしで追った、半分フィクションで、半分ドキュメンタリー。僕の妹がドキュメンタリーのパートを撮って、僕がフィクションのパートを撮りました。撮影に3年もかかったのですが、どちらかというと実験的な映画ですね。物語をアドリブで作りながらストリートの子どもたちと撮影するのはとても楽しかったですよ。(宇野維正)