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岩里祐穂が語る、作詞家としての歩みと矜持「時代を超える言葉を編み出したい」

2016年05月25日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

岩里祐穂

 堀ちえみ、中山美穂、今井美樹、坂本真綾、『創聖のアクエリオン』や『マクロスF』など人気アニメのテーマソング、さらにはももいろクローバーZや花澤香菜まで。時代やジャンルを超えて様々な歌手やアーティストに歌詞を提供してきた作詞家・岩里祐穂の活動35周年を記念したコンピレーションアルバム『Ms.リリシスト~岩里祐穂作詞生活35周年Anniversary Album~』がリリースされる。


 今回のインタビューでは、80年代から現在に至るまで、また、歌謡曲、J-POP、アニメ、現在のアイドルシーンなど様々なフィールドにわたって作品を手掛けてきた彼女に、それぞれの時代性と、作詞家としての考え方や価値観について語ってもらった。(柴 那典)


(関連:作詞家・岩里祐穂が語る、今井美樹の楽曲秘話「“自分の生き方は自分で選ぶ”が、彼女らしい」


■「キャッチーさや語感が求められていた」


――今回の作詞生活35周年記念アルバムのお話は、どんなところからスタートしたんでしょうか?


岩里:きっかけ自体は、昨年秋にプロデューサーにお話をいただいたことでした。いろんな世代のいろんな時代で「岩里祐穂」という名前を目にしていただいた方がいらっしゃると思うんですね。今井美樹さんで私を知ってくださってる方もいれば、坂本真綾さんで知ってくださった方も、『創聖のアクエリオン』で知った方も、ももクロで初めて知った人もいる。でも、それを全部知ってる方がどれくらいいらっしゃるのかわからなかったので、一度私の「詞」という括りで並べてみたものを聴いてもらいたいと思うようになったんです。


――たしかに、こうやって並べてみると、時代も曲調もジャンルもバラバラですね。サウンド面の統一感は全くない。


岩里:ははははは。バラエティというか、カオスですね(笑)。だけどその中で、私としては一本筋を通して歌詞を書いてきた。そのあたりを楽しんでもらえれば面白いかなと思いました。


――岩里さんはシンガーソングライターとしてデビューされたわけですよね。作詞家としてのキャリアはどんな風に始まったんでしょうか。


岩里:シンガーソングライターとしては、デビューした途端に「あ、もうやめよう」と。人前に立ったり、写真を撮られたりすることがあまり好きじゃなかったので、向いていないと思いましたね。シンガーソングライターの活動の中でも、自分は詞が書きたいということがわかったので、一年ですぐに辞めました。そこから堀ちえみさんの「さよならの物語」を書いて、名前も岩里祐穂にして、「作詞家としてやっていこう」と決意したんです。


――当時は80年代前半で、アイドル歌謡曲全盛の時代ですよね。作詞家にはどんなものが求められていたんでしょうか。


岩里:私は新人でしたから、どうインパクトのあるものをどうプレゼンするかということだけを考えていました。「さよならの物語」は「僕の天使さ 君はネ!って」の音感、そこに面白みがあるということでだけで採用していただいたんだと思います。そういうキャッチーさや語感が求められていたんじゃないでしょうか。


――この頃はどんな制作状況だったんでしょう?


岩里:堀ちえみさんの時は、新人にもかかわらずすぐにシングル3曲を任せてくださったんです。ちょうど彼女が『スチュワーデス物語』でブレイクした頃なんですけれど、「さよならの物語」「夏色のダイアリー」「青い夏のエピローグ」の3部作という形だった。あの頃はアルバムの曲も含めて、ディレクターさんが「この人でいこう」と思った人とやり取りして作っていました。他の人たちもみんなそうでしたね。今の時代のようにコンペ形式じゃなくて、ディレクターが「次はこんなのがほしい」と発注をして、書いてきたものがダメだったらお互いに顔を見て話しあって作っていく。私は新人だったので、何もわからないところからいろいろ教えていただきました。「大サビは、大きめのことを書いてごらん」とか「物事の真理を書いたらいいよ」とか。そんなことを教えてくれるようなディレクターがちゃんといたんですね。


――その頃の時代の空気、歌詞の言葉に求められていた感覚も今と違いますか?


岩里:違いますね。時代によって空気感は全部違います。


――80年代はどんな感じでしたか?


岩里:例えば、化粧品のコマーシャルソングで「赤道小町ドキッ」とか「君に、胸キュン。」とか、ああいう曲が80年代的ですよね。そういうキャッチコピーの時代、インパクト重視の時代だったと思います。


――なるほど。ある種の広告的なキャッチコピーとして歌詞が機能していた。


岩里:と、私は思います。それに、アイドルの時代だったと思うので、「渚のはいから人魚」のようなインパクトがある歌詞を書けないと浸透していかなかった。そういう中で、私はあまりうまく順応できなかったように思いますね。


――どちらかと言うと、当時の岩里さんはそういうキャッチフレーズ的な歌詞は得意ではなかった。


岩里:そうですね。まだ20代の頃で、リクエストされるものに応えようと自分なりにインパクトのある言葉を探して書きましたけれども。ただ、その中で、「BIN・KANルージュ」という曲を書いたんです。それは『魔法の天使クリィミーマミ』の挿入歌で、初めて書いたアニメの歌詞でした。最近一緒にお仕事をしている中川翔子ちゃんが、中学生時代にこの曲を聴いていたらしくて。「ひとりぼっちですごく寂しい思春期を送ってたんだけど、この歌で私は本当に救われたんです」と数年前に言われたことが、私はとても嬉しかったんですね。その時の驚きも、このアルバムを作るきっかけの一つになっています。まだまだ未熟だったと思っていた80年代の仕事も、人にちゃんと届いてたんだって。そこから、もう一度若い頃の歌詞を振り返っても悪くないかなと思えたんです。


■「インパクト重視ではなく、等身大のリアルな女性像を描き出そうとしていた」


――90年代に入って、岩里さんは今井美樹さんの歌詞を手掛けるようになります。それは岩里さん自身にとっても大きな転機になりましたか?


岩里:そうですね。


――これは、それ以前の作詞のお仕事とどう違っていたんでしょうか?


岩里:もう全く違いますね。今井さんとのお仕事は、オファーをもらって書いたのではなくて、こちらから「こういう楽曲がありますがどうですか」とプレゼンしたところから始まりました。上田知華さんという作曲家と一緒に「黄色いTV」という曲を作って、それを誰に持っていく? というところから始まった。それ自体が初めての経験でした。


――そうなってくると、歌詞の書き方も変わってきますね。


岩里:そうですね。80年代にはインパクトを求められて、そこでもがきながら頑張っていた私としては、そうじゃないところで書ける人に出会えたということなんです。内面を掘り下げることができた。そして、今井美樹さん自身もそういう80年代とは違ったものを求めていた。そこにうまく合致できたのかもしれないですね。インパクト重視ではなく、等身大のリアルな女性像を描き出そうとしていました。


――「PIECE OF MY WISH」という曲は今井美樹さんの中でも代表曲となっていますが、これは岩里さんの中ではどんな位置づけになっているんでしょうか。


岩里:この曲は恋愛のモチーフが全く入らない歌として初めて書いたんですね。だから、そういう意味ですごく大きな変換期になったと思います。


――それ以前はラブソングが主体だった。


岩里:80年代は特にそうです。全てにおいて、恋愛をモチーフにしていた。人を励ますにしても、失恋した友達を励ます歌だったり。つまり、恋愛を通して何かを表現していた時代なんですね。だから、80年代は恋の歌ばかりじゃないでしょうか。それに、もっとエロティックでしたし。アイドルの曲も、今と比べると山口百恵さんの頃からショッキングで刺激的な内容の歌が多かったように思います。大人の男性が歌詞を書いていたからかもしれないですけれど。


――「PIECE OF MY WISH」はどんなきっかけで書いた曲だったんでしょうか。


岩里:この曲は今井さんが主役のドラマ主題歌で、「ちょっとだけ落ち込んでいる友達を励ます歌にしましょう」ということをプロデューサーさんから言われて書き始めたんです。OLの成長物語だから恋愛はそこにはなくていい……と言われたかどうかは忘れちゃったんですけど。とにかく私としては入れたくなかったんですね。恋愛がからまない、もっと大きな世界観のもとで、元気を出そうとか、自分を信じようとか、悩みながらも前向きになれる歌を書きたかった。それができたのは嬉しかったですね。


――当時は女性が自立して社会に進出していく流れもありましたよね。そういう時代の空気とも重なりあったということもあるかもしれない。


岩里:今井美樹さんは、私がそれまで書いてきたアイドルの方たちと明確にスタンスが違って、自身の意思を持っていました。もっとリアルに「自分の幸せとは」「自分の生き方とは」ということを見せていたし、考えていた。仕事もあるし、恋愛もある、そんな中で自分で生き方を選んでいきたいっていう女性像がみんなに支持されたんだろうと思います。女の子たちもみんなそういう風に考えていたと思いますね。生き方を歌った、という意味で言えば、ちょうどその頃のMr.Childrenにしてもそうだと思います。90年代はバンドの時代だった。みんな、より自分のことを人生のことを歌詞に書きはじめた。そういうふうに繋がっていったんだと思います。


――今仰ったように、90年代にはJ-POPという言葉が一般的になり、それ以前の歌謡曲の時代とは変わってきますよね。そこにおける一つの象徴が、バンドやシンガーソングライターのように自分で歌詞を書くアーティストの存在だった。


岩里:そうですね。アイドルはだんだん下火になっていった。そうすると、作詞家の仕事も少なくなっていった時代ですよね。ただ、私はそこで今井さんという“居場所”を得ることができた。それは大きかったと思います。


■「今井美樹さんと坂本真綾さんは年齢が違うだけで、私の中では同じ」


――岩里さんにとって今井美樹さんとの出会いが大きかったということですが、その次に岩里さんのキャリアの中で大きなターニングポイントとなったのは?


岩里:坂本真綾さんですね。真綾ちゃんに出会えたのが96年だと思います。彼女にどうして出会ったかといえば、今井美樹さんの『Love Of My Life』というアルバムで菅野よう子さんと出会うんです。そのすぐ後に、真綾ちゃんが主役の『天空のエスカフローネ』というアニメを菅野さんが全部手掛けることになって。その主役であった坂本真綾に歌わせたら「声が良いのよ」っていうことになり、その子のプロジェクトも始めるから手伝って、と声を掛けられた。そういう経緯でした。


――なるほど。そこからアニメの世界でのお仕事を本格的に始めるようになった。


岩里:でもね、真綾ちゃんにはあまりアニメを感じなかったんです。アニメだからどうこう、ということは全くなくて、彼女を一人のシンガーとして捉えていました。そこに菅野よう子というプロデューサーがいた。彼女の作る音楽は素晴らしかったですし、菅野よう子という人の音楽と、坂本真綾という素晴らしいシンガーとのトライアングルで書いただけで。アニソンという意識はなかったですね。今井美樹はたまたまドラマの主題歌であり、坂本真綾はたまたまアニメの主題歌だったというだけのことなんですよ。


――なるほど。外側から見るとジャンルが違うけれども、歌詞を書いている側の意識としては変わらなかった。


岩里:変わらないですね。今井美樹はもっと年齢が上だから、20代から30代くらいの女性像を書いていたものが、10代の少女になったというだけで。内面を掘り下げる感じは一緒なんですね。今井美樹と坂本真綾は年齢が違うだけで、私の中では同じなんです。


――坂本真綾さんの作詞を手掛ける中で、80年代の時代性とはまた違った表現も生まれてきましたか?


岩里:譜割りはどんどん変わりましたね。言葉の音への乗せ方。さっき「BIN・KANルージュ」という曲を書いたって言いましたけど、あの曲のサビは「ビ・ン・カ・ン・ルージュ」なんですね。これが80年代だった。今だったら絶対そうならない。「ビン・カン・ルー・ジュ」となるんです。


――ひとつの音符に「ビ」「ン」「カ」「ン」と1文字ずつ当てていく時代だった。


岩里:やっぱり80年代は1音に1文字ずつでしたね。でも、90年代にリアルで10代だった坂本真綾は、全然そういうふうには乗せないんですね。その頃、彼女と共作で詞を書く機会があって、そこに驚きました。他の新しいバンドの人たちもそうだったし。「あ、この曲にこう乗せるんだ」って大変勉強になりました。


――どういうところが刺激になったんでしょう?


岩里:作詞家は、プロデューサーやディレクターから、作曲家が作った曲に「こういうテーマで書いて」とリクエストされて書くんですよね。大体は曲先ですから。そうすると、その人が作った曲に忠実に書いていくのが当たり前になる。それに、ディレクターが「これじゃダメなんだよ」と言ったら世の中には出ないし、歌手が「この言葉は嫌だな」と言ったらこれまた世の中に出ないんですよ。だけどバンドは、自分で曲を作るし、歌詞を書くし、基本自分で歌いたいように歌える。だから言葉が制限なく好きなように入るわけで、面白い表現がどんどん出てくる。作詞家にとっては、そういう宿命というか、ストレスはありましたね。でも、菅野よう子と坂本真綾とのトライアングルの中では何でも許された。だから、私は作詞家なんだけれども、菅野さんは私が好き勝手に譜割りを変えても全然大丈夫だったんですね。そういう作詞家を超えた実験の場のようにさせてもらったってことは、私としてはありがたかった。それが90年代の後半から2000年真ん中くらいまでですね。


――その後「創聖のアクエリオン」は、坂本真綾さんに書いた時とはまたちょっと違って、よりアニメの作品性に寄り添うような歌詞になっています。


岩里:これは、アニメの曲ですね。そういうものが求められて、菅野さんの楽曲もがらっと変わってきた。『創聖のアクエリオン』や『マクロスF』は、ある意味、遊び心というか、ケレン味というか、そういうところで書いたという感覚があります。


――アニメの作品の世界を意識して歌詞を書くというのは、どういうところを意識されますたか?


岩里:私はいつもあまり深くストーリを読まないんですね。テーマの骨の部分だけもらって、あとは好きなように書かせていただく。アニメはある意味、非日常のシチュエーションのわけで、歌詞も難しい言葉を並べたりもしますが、その中でも日常を生きるリスナーが共感できるポイントがどこなのかと、そこを探すようにしています。


■「毎回が新鮮で、更新したものでありたい」


――00年代にはBuono!で再びアイドルの歌詞を書かれるようになりました。


岩里:Buono!は、私の中ではアイドルを書いている意識ではなく、ロックテイストでガンガン書いたつもりでした。Buono!は生き方を模索するような歌を書いたので、私の中ではアイドルに詞を書いているという意識はあまりなかったです。


――ここ最近では、ももいろクローバーZに歌詞を提供しています。それも大きな転機になりましたか?


岩里:ももクロもすごく大きかったですね。最初に書いたのは「LOST CHILD」という曲で、その時は「哲学っぽくていいから」と言われたんですね。もともと、NARASAKIさんがやっていたバンドのCOALTAR OF THE DEEPERSの「DEAR FUTURE」という曲の詞を書いたことがきっかけで。それが『輪るピングドラム』というアニメのエンディングテーマになった。それを書いた後にももクロちゃんを頼まれたんです。だから、実は最初は全然ももクロのことを知らないで書いていたんですね。


――そういう繋がりだったんですね。


岩里:で、横浜アリーナに行って、初めて彼女らのライブを観たら「うわー! え、こうだったの!?」って思って(笑)。「あ、そうか! 私も書ける、こういうの!」と思ったんです。それで宮本(純乃介・音楽プロデューサー)さんにアピールしたら(笑)、2年後くらいに「サラバ、愛しき悲しみたちよ」のお話が来たんです。それが布袋(寅泰)さんの楽曲で、すごく格好いいし、ドラマのタイアップもあって。「よし、じゃあこれを面白くやってやるぞ」というのが2012年でした。


――岩里さんから見た80年代のアイドルと2010年代のアイドルの違いはどんなところにあると思いますか?


岩里:いろんなところが違いますね。まず、ピンじゃないところ(笑)。みんな束になって、グループで何十人もいますからね。あと基本、恋愛がご法度でしょ。だから恋の歌も、片想いだったり、主人公がまだ付き合っていない、恋する気持ちの周辺の歌が多いですよね。あと、頑張れソングが基本になっている気がします。だけど80年代に比べ、逆に制約もないですね。今は男言葉を使ったりもするし、リアルな日常をさらけだすのに抵抗がないし、全然NGがない。


――言葉のセンスも違ってくるわけですね。


岩里:そうですね。どれだけ面白く、だけどメッセージをそこに込めて、ということです。80年代のアイドル楽曲にはあまりメッセージ性を感じませんがが、今のアイドルは、基本的に何かメッセージを届ける歌になっていると思います。


――ここ最近のお仕事でいうと、花澤香菜さんの作詞も手がけていますよね。花澤さんはご自身のインタビューでも岩里さんは自分の思いを汲んでくれる、助けられると仰っていますが、花澤さんとのお仕事はどんな風に捉えてらっしゃいますか?


岩里:花澤さんとの仕事は、今井美樹さん、坂本真綾さんに続く、その人のリアルな女性像を描き出す仕事、内面を掘り下げる仕事として、私にとって大きな位置を占めています。作曲家さんたちも、北川(勝利)さんをはじめ、ミトさんや沖井(礼二)さんや、一つ下の世代の方に知りあえて、すごく刺激を受けますね。


――ミトさんのインタビューでも岩里さんのお名前が挙がってました。クラムボンの歌詞の書き方を抜本的に揺るがすくらいの衝撃を受けたと仰っていました。


岩里:ははははは(笑)。ありがとうございます。私は作詞家としては深入りするタイプなんですよね。ミトさんの曲でも、菅野さんの時と同じように「この言葉をここに入れたいんだけど、どうなのかな」とお伺いを立てたりする。そうすると、詞に合わせてちょっと変えてくれたりして、私が考えていた譜割りと違う方がもっと上手くいったりする。やっぱり作曲家とコミュニケーションをとって進めることができると、どんどん面白くなっていくんですよね。


――これまでは時代の変遷と活動の軌跡を伺ってきましたが、岩里さんが作詞家として常に重視しているポイントはどういうところにありますか?


岩里:詞を作る上において重要だと思っていることはいくつかありますね。いつも何かしらのテーマをもらうわけです。ざっくりとテーマがあって書き始める。でも、そこから、どんな曲でも、何を言うか、何をメッセージにするかというのは1曲1曲、死ぬほど考えます。考えて、それがいつも新発見じゃないとつまらない。自分が過去に書いたものでも、誰かが書いてるものでもつまらないから。同じ「励ます」でも、どう書くかは1回1回切り口を変えている。毎回が新鮮で、更新したものでありたい。そこが重要だと思うし、それがなければ面白くないし、やってる意味がない気がしますね。


――なるほど。


岩里:また、時代を感じることも重要だと思います。たとえば、洋服にしても、毎年ちょっとずつラインが違ったりするじゃないですか。それが歌詞においては、言葉の乗せ方だったり、言葉の選び方だったり、詰め込み具合だったりする。それはトレンドっていうことじゃなくて、時代の空気だと思うんですね。でも、そうやって時代を感じながら選んだ言葉で、時代を超えたいんですよ。10年後も、20年後も聴いてもらえる歌にしたい。時代を超える言葉を編み出したいっていうことなんですよね。


――そうやって磨き上げた言葉を書くというのが、作詞家の一つの矜持である、という。


岩里:そうですね。まあ、言葉だけですからね、私たちは。


――このアルバムも、詩集のようなパッケージになっていますよね。そうやって、歌と切り離して時代を超えて楽しんでもらえるものということも意識されましたか?


岩里:そうですね。縦書きにして読んでもらったらどうなるかなっていうのもあったので、縦書きにして、一冊の本のようなパッケージにしてみたんです。