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『ディストラクション・ベイビーズ』&『ヒメアノ~ル』、門間雄介が“ヤバい映画”を分析

2016年05月25日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『ディストラクション・ベイビーズ』(c)2016『ディストラクション・ベイビーズ』製作委員会

 真利子哲也監督、柳楽優弥主演『ディストラクション・ベイビーズ』が絶賛されている。


参考:「これからの才能があちこちで産声をあげている」門間雄介が“日本映画の新世代”を探る連載開始


「面白い映画ができました」


 試写の前、真利子監督はニコニコしながら言った。「ぜひ楽しんでください」。でもこれは「面白かった」とか「楽しかった」とか、そういったシンプルな感想とは最も縁遠い作品だろう、多くの人にとって。


 確たる理由もなく人に殴りかかり、伸されてもまた這いあがる獣のような男。柳楽扮する主人公の泰良はそういった男だ。彼のその野蛮な力に、ある者は翻弄され、ある者は惹きつけられ、またある者は恐れを抱く。あたかも暴力そのもの、暴力の化身のような泰良は、観る人に『ダークナイト』のジョーカーや『ノーカントリー』のアントン・シガーを想起させるかもしれない。でもジョーカーやシガーが凶行の果てに快楽を見出すのと違い、泰良はただ反射的に、膝を叩けば足がピョンと跳ねあがるような無意識の反応として、ひたすらに凶行をくり返す。だからそこには、善も悪も、快楽の欠片すらもない。あるのは混じりけのない純粋な暴力だけだ。


 そんな抽象的で象徴的なキャラクターを、柳楽は限りなく透明で、限りなく血なまぐさい存在として演じている。あ、野獣だ。その動物的な芝居に思わず目をみはる。彼のフィルモグラフィーを振りかえるとき、カンヌ国際映画祭で男優賞を受賞した『誰も知らない』以上に、ある意味重要な意味合いを持つのが『許されざる者』だ。「誰?」。彼を観ても、はじめは彼だとわからなかった。クリント・イーストウッド監督の西部劇を、明治時代初期の蝦夷地に移し替えたこの作品で、彼が扮したのは和人の血を引くアイヌの青年。その野性味あふれるたたずまいには、かつてのあどけない面影どころか、スマホを眺め、カフェにたむろするような現代人の痕跡すら微塵もない。これは憑依か投影か、いったいなんなのか。『誰も知らない』は俳優=柳楽優弥を産み落とした記念すべき作品だが、そのポテンシャルを本格的に開花させたのは『許されざる者』だ。『ディストラクション・ベイビーズ』はそんな彼の才能が隅々まで目いっぱい解き放たれた作品になった。


 インディペンデントの奇才として、その商業映画デビューが長く長く待望されてきた真利子にとっても、もちろんこの作品はブレイクスルーの一作になるだろう。力の暴発を描く映画はこれまでにもたくさん存在した。でもほとんど言葉を発することなく、心のうちをさらけ出すこともない、なおかつ作品のラストまで役名が明かされないキャラクターを主人公に据えたことで、真利子は現代的な暴力の匿名性や拡散性に言及する。作品の冒頭、主人公の背後に寄り添うカメラが、このキャラクターの視点と観る人の視点を重ねて提示するのは、彼はあなたであり僕でもあり、あるいは何者でもないのかもしれないというリアリティーだ。泰良の暴力が菅田将暉扮する高校生の裕也、小松菜奈扮するキャバ嬢の那奈に感染し、しまいには村上虹郎扮する弟の将太をも取り込もうとするのも、また泰良の暴行がSNSによってシェアされたりリツイートされたりしていくのも、もともと彼の記名性を強く持つはずの行為が、拡散し、やがて名無しの誰かの暴力に変質していくさまをとらえている。そんな自爆テロやメディアリンチにも通じる性質を長い射程に収めた真利子の嗅覚。卓越している。


 菅田、小松、村上、それから池松壮亮といった既に引く手あまたのキャストに加え、北村匠海、岡山天音、吉村界人ら、関係者が一様に注視する20代前半から10代後半の俳優を起用し、一定の期間、彼らを地方ロケのために拘束しているのも、考えてみればすごいことだ。


「オリジナル脚本、地方が舞台、このテーマ……プロデューサーが嫌がることを商業デビュー作で全部やっている」


 そんなことをぶつくさ言いながら、なぜかうれしそうだった表情が忘れられない。撮影が終了して間もない頃の西ヶ谷寿一プロデューサーだ。真利子の中編『NINIFUNI』をプロデュースし、TVシリーズ『ノーコン・キッド ~ぼくらのゲーム史~』『ディアスポリス -異邦警察-』でも真利子を監督のひとりに指名した彼が、確かな関係性を育み、昨今の日本映画ではなかなか成立しにくい企画を推し進めた。彼のプロデュース作品には共通点がある。冨永昌敬監督『パビリオン山椒魚』『パンドラの匣』、沖田修一監督『南極料理人』『横道世之介』、井口奈美監督『犬猫』『人のセックスを笑うな』、岨手由貴子監督『グッド・ストライプス』。インディペンデントの才能に機会を与え、世に出し、その後へと至る道筋をどう付けるか。彼の続くプロデュース作品は、『横道世之介』で脚本を務めた劇作家、前田司郎の監督2作目『ふきげんな過去』だ。スタッフに関して付記するなら、同じく『ふきげんな過去』や『ディアーディアー』で撮影を手掛ける佐々木靖之のカメラが、ある種のみずみずしさとともに登場人物らの破滅的と言っていい刹那を記録することに成功している。


 ヤバい映画を作ろう。まるで示し合わせたかのように、バイオレンスを妥協なく描こうとする映画が立て続けに公開される。でもエグい描写を盛り込んだからといって、それでヤバい映画ができあがるほど話は単純じゃない。その点、『ヒメアノ~ル』はよく練りあげられた構成のもと、緊張と弛緩の緩急を自在に使い分け、日常に不意に侵入してきた連続殺人鬼の恐怖を体感させる。


 前半の童貞臭あふれる日常はイカ臭く馬鹿馬鹿しく。一点して殺人鬼の狂気が日常に浸潤する後半は残酷で凄惨に。脚本も自ら書いた吉田恵輔監督の腕が冴えわたる。『さんかく』『ばしゃ馬さんとビッグマウス』など、恋愛を中心に人間の関係性を底意地悪く見つめたオリジナル脚本作で評価の高い吉田だが、古谷実のコミックを実写化した本作でも彼の持ち味は失われていない。いや、それどころか人間の闇に深く切りこむことで、脚本も演出も覚醒したと言っていいだろう。


 唸ったのはこんなシーンだ。濱田岳扮するチェリーボーイの岡田は、高嶺の花だったユカと思いもかけず結ばれ、イチャイチャベタベタしている。一方、森田剛扮するシリアルキラーの森田は、手駒のようにこき使う同級生とその婚約者に襲われるが、反対に彼らを惨殺する。その明と暗の対比を、後輩位で絶頂に至るユカと背後からメッタ刺しにされ失禁する婚約者のカットバックで見せる、鮮やかさ、嫌らしさ、惨たらしさ!


 森田剛扮する冷酷無比な森田は、荒み、乾ききって、人間らしい血とも涙とも無縁だ。すぐそこにいそうな、ごく普通の青年を演じさせたら、濱田の右に出る者はいないこともあらためてわかる。他にも、ユカ役の佐津川愛美、風変わりすぎる先輩役のムロツヨシなど、キャスティングは的確で抜かりがない。『ヒメアノ~ル』。これは紛れもなくヤバい映画だ。(門間雄介)