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『セカネコ』設定に見る“感動の方程式” 余命わずかな主人公はなぜ葛藤し続けるのか

2016年05月24日 06:11  リアルサウンド

リアルサウンド

 映画プロデューサーが監督業に乗り出すことは珍しい話ではないが、小説家を始めるという人はあまり聞いたことがない。しかし、『電車男』や『告白』など流行のコンテンツをヒット作へと導いてきた映画プロデューサーの川村元気が、小説家としても成功を遂げたということは、話題性に対して非常に敏感である姿勢が、プロデューサーをはじめ映画監督から小説家まで、クリエイション全体に関わる者にとって、欠かせないものであるということである。


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 彼が初めて手がけた小説『世界から猫が消えたなら』は、現代のコミュニケーションツールとして欠かすことのできないLINEで連載するという画期的な方法論を編み出し、累計発行部数100万部を超えるベストセラーを記録。単行本化からラジオドラマ化、コミカライズときて、ついには映画化までこぎ着けた。これほどまでメディアミックスされるというのは、ヒットコンテンツである何よりの証だ。


 余命わずかを宣告された主人公の前に、突然自分と同じ姿をした悪魔が現れる。悪魔は「大切なものをひとつ消す代わりに、一日の命を与える」という取引を持ちかけるのだ。手始めに「電話」が消されることになり、主人公は最後に元恋人と連絡を取ることにする。彼女との出会いは一本の間違い電話であり、電話がこの世界から消えてしまうと、彼女とは出会わなかったことになる。つまり、大切な思い出もすべて消えてしまうのだ。


 日本映画が最も不得意と言われているファンタジーというジャンルを、文学から映画へと生まれ変えるとなれば、原作者・川村の本業である映画プロデューサーとしての手腕が遺憾なく発揮される。と思いきや、彼はあくまでも原作者としての立場に徹し、製作サイドには関わらないという予想外な手段に打って出た。それでも、劇中には原作をなぞったのか、川村の好みの映画が次から次へと登場する。主人公・佐藤健が宮崎あおい演じるヒロインと出会う、間違い電話の場面がある。そこで佐藤健はフリッツ・ラングの『メトロポリス』をDVDで観ているのだが、ヒロインは電話越しにゴットフリート・ヘッペルツの劇伴を聞き当てるのだ。


 このSF映画の古典である『メトロポリス』は、把握しきれないほど数多くのバージョンが存在している。たしかに日本国内に流通しているバージョンでは、劇伴のバリエーションも多くない。それでも、サイレント映画の劇伴を聞き分けるというのはなかなかシュールな入り方だ。もっとポピュラーなテーマ曲が流れる映画を選択した方が良かったのではないかという気もするし、それこそ特徴的なジョルジオ・モロダー版でも……と、余計な考えを膨らましてしまうあたり、もしかしたら筆者の心が綺麗ではないのかもしれない。


 それ以外にも、「映画」に対する扱いには他にもいくつか疑問が生じる部分がある。例えば映画館の場面で、デヴィッド・フィンチャーの『ファイト・クラブ』と岩井俊二の『花とアリス』が二本立てで上映されているが、これはおそらく、主人公と悪魔という、対照的な人物が登場する本作を連想させるために選ばれたものだろうか。


 余命がわずかと知らされた主人公が、残りの生きている時間を過ごす映画というのは、これまでも数多くある。日本でもヒットしたイザベル・コイシェの『死ぬまでにしたい10のこと』やロブ・ライナーの『最高の人生の見つけ方』、直接的に余命わずかというわけではないがアニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ』も同じだ。いずれも「死」を受け入れて、これまでの人生で積み重ねてきたことをひとつも否定せずに、「生」を謳歌しようとする人々が描かれるものだ。だからこそ、生きている観客はそれに感動する。


 一方で、本作では「死」を受け入れることへの葛藤が繰り返される。それと同時に、主人公はたった一日の延命のために、これまで築き上げた人生を棒に振るうような選択を繰り返してしまうのである。果たして主人公は与えられたわずかな「生」の時間を、有意義に使えていただろうか。そんな疑問さえ感じてしまうのであるが、これは映画自体が求めている「感動」へのアプローチの違いだろう。


 そもそも日本映画における「感動」の方程式は、概ね「共感」で作り上げられている。現実から離れずにヒューマンドラマとしての「死」を見つめた、前述の作品とは異なり、本作はファンタジーという大きな要素を付け加えたことで、観客とは離れた位置に物語が飛躍してしまうのである。そこから観客の「共感」へと近付けていくためには、「恋人」「親友」「家族」という、シンプルなテーマに寄り添っていく必要が出てくる。ティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』をはじめとした、ファンタジー要素を入れたヒューマンドラマは、ほとんどがこのテーマのどれかに帰結するのであって、本作はそれらをすべて集約させているということだ。


 文字情報だけで想像力を働かせる文学以上に、映画はあらゆる情報を可視化させなければならない。そのまま引き継ぐことのできるセリフとストーリーだけでなく、より表層的な表現をどう加えるかが重要となる。つまり、映像になって初めて可視化された情報こそが、映画が原作を超える要となるのだ。本作でいうそれは主に、「自分と同じ顔をした悪魔」、「命と引き換えに消えていくものが消える瞬間」、そして「猫」であった。


 佐藤健が一人二役を演じて体現する、主人公と同じ顔をした悪魔の存在は、軽薄なキャラクターではあるが、二人の佐藤健が薄暗い室内で向かい合っているという画面には面白みがある。さらに、携帯電話が手の中で歪みながら消えていったり、突然映画館が更地になったり、レンタルDVD屋に陳列されたDVDが瞬く間に書籍に変化する場面もなかなか見応えのあるものだった。そうなると、主人公と家族を繋ぐ、物語における重要な存在の「猫」が、もっと遺憾なく「猫らしさ」を発揮していれば、より映画として意味のある存在に成り得ただろう。(久保田和馬)