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宮台真司の『カルテル・ランド』評:社会がダメなのはデフォルトとして、どう生きるかを主題化

2016年05月23日 18:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2015 A&E Television Networks, LLC

■<可能性の説話論>から<不可能性の説話論>へ


 前編をおさらいすると、紀元前5世紀に2つの世界観が分岐します。一つは、社会も愛も、本来は完全たり得るのに、何らかの悪や不条理の所為で不可能化してきた。もう一つは、社会も愛も、本来は不可能なのに、何かか目眩ましになって、社会や愛が可能だと勘違いされてきた。


参考:宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ


 前者は<可能性の説話>。後者は<不可能性の説話>。グローバル化による中間層分解が帰結する先進国内の不全感と、蓄積されつつ隠蔽されてきた政治的怨念のグローバル化に伴う顕在化(テロ!)を背景に、冷戦体制終焉後は<不可能性の説話>が浮上しつつある事実を、話しました。


 前編での予告通り今月は、社会に関する<不可能性>の宣べ伝えとして森達也監督『FAKE』とマシュー・ハイネマン監督『カルテル・ランド』を取り上げ、愛に関する<不可能性>の宣べ伝えとしてギャスパー・ノエ監督『LOVE』とアンドリュー・ヘイ監督『さざなみ』を取り上げます。


 『FAKE』は前編で詳しく話したので、次に『カルテル・ランド』(マシュー・ハイネマン監督/5月7日公開)を扱う段取ですね。『FAKE』と同じドキュメンタリー作品で、メキシコ麻薬戦争の最前線に迫った優れた作品です。僕はこれを『FAKE』とコインの表と裏だと感じます。


 両作とも、何か故障があって社会がクソなのではなく、そもそも社会は全て<クソ社会>なのだ、とするモチーフを共有しますが、『FAKE』が<クソ社会>からはじかれた者達を愛でるのに対し、本作は<クソ社会>に良くも悪しくも適応し切れない者達を愛でる対照的な意味論になっています。


■近代社会に随伴するホモ・サケルが顕在化した


 まず、議論の前提になる話をします。1995年にイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンが『ホモ・サケル』という本を出します。元々は美術批評家として、人が表現者たり得る資格について探索して来ました。そこから社会の内側と外側の区別に関心を寄せ、『ホモ・サケル』を著します。


 「ホモ・サケル」の直訳は「聖なる人間」で、、ホモサピエンスのホモ(人間)と、英語のsacred(聖なる)の語源に当たるラテン語の組合せ。彼によれば、ローマ帝国で「二重に排除された者」のことです。具体的には、犯罪者であることもできす(一重目)、生け贄であることもできない存在です(二重目)。


 抽象的には、もう一つ「排除からの排除」という二重性があります。社会の正統な排除メカニズムから排除されていること。社会成員なればこそ犯罪者や生贄として排除され得ますが、社会成員ではないからそれはなく、かといって、敵国・敵共同体に属するのでもない、そんな奇妙な存在。


 BS『世界のドキュメンタリー』「9.11から10年」シリーズ第1週「対アルカイダ 情報機関の10年」(BBC製作)や、英国人2人が国際テロリストだと誤認されてアフガニスタンからグアンタナモ収容所に送られて2年の地獄を体験した実話を元にしたM・ウィンターボトム監督『グアンタナモ・僕達が見た真実』(2006年)を見れば、ここの収容者がホモ・サケルである事実が分かります。


 米西戦争(1898)に勝った米国はスペインから現在価格30万円でキューバ島グアンタナモを永久租借しますが、キューバ革命での国交断絶以降、類例のない「敵国内の軍事基地」となったグアンタナモは、キューバの法律も米国の法律も適用されない、文字通りの「番外地」となりました(※)。


 大音響室への監禁を含めた肉体拷問だけでなく、言葉による侮蔑、眼前でのコーラン廃棄等、想像を絶したデタラメが一切の法的手続き抜きで進められます。主権国家から成り立つ国際秩序を守り、近代民主社会を守るため、という大義の下、今でもグアンタナモは粛々と稼働中です。


 ローマ帝国は、帝国であるがゆえに、普遍的価値に基づく統治ではなく、服属した者が統治されるだけだから、「排除からの排除」が可視的でも良かった。けれど、近代社会は人権という普遍的価値に基づく統治を旗印にするから、少なくとも民衆にソレが可視的であってはならない筈です。


 それが2001.9.11以降変わりました。米国によるグアンタナモ収容所の設営や巨大デマに基づくイラク攻撃などの無数の条約違反や国際法違反が、現在が近代国家がテロの主体として登場するという意味での「テロの時代」である事実を満天下に晒しました。本来なら正統性の危機です。


 でも必ずしもそうならない。なぜか。人々の体験様式が変わったからです。近代国家の行動原理自体は実は変わらない。大英帝国はガンディの非暴力的抵抗運動をテロだとして令状なき逮捕投獄をしたし、ノーベル平和賞のマンデラも2008年まで米国のテロリスト監視対象でした。


 でもアガンベンによれば、こうした営みはシュミットの言う「例外状態における主権者の意志」として<非通常化>されていました。それが2001年以降に米国かもたらした「テロの時代」=テロルの<通常化>で、ホモ・サケルが「常時」存在しなければならない事実が、可視化されたのです。


 一口で言えば、近代社会や、それが支える/それを支える近代国家が、如何なる正統性を欠いた事実性に過ぎないことが満天下に晒されました。人権思想みたいな普遍主義が、所詮「排除から排除」されたホモ・サケルの存在を構造的に前提にしたペテンであることが、明らかになりました。


 ちなみに超法規的という意味で「正統性legitimacy」がないだけでなく、「正当性rightness」もない。「天賦人権」どころか「生まれによる差別」だから、ホモ・サケルを温存して近代社会を維持する営みは正しくありません。でも、昔と違って昨今それが大問題にならない。なぜなのかです。


※番外地:国内なのに番地がない場所。社会に登録されない場所、内とも外とも言えない場所、という意味に用いられるようになる。かつて網走刑務所には番地がなく網走番外地と呼ばれた。


■大規模定住社会に随伴する必然的な<矛盾>


 理由は簡単で、仲間や家族を守りたいから。原初的社会(部族段階)以来ヒトは「仲間を殺すな」「仲間のために人を殺せ」を2大原則として来たし、並行して「仲間のために人を殺す」べく命を賭す<過剰>が、ヒトが本来有する<内発性>として擁護されてきました。ここに<矛盾>が潜みます。


 紀元前4世紀のアリストテレスは、『ニコマコス倫理学』のフィリア(友愛)奨励を、『政治学』のト・アリストン(ポリス貢献という最高善)で「上書き」しました。なぜか。フィリアだけでは、戦争の時、命懸けで「仲間のために殺す」どころか、「仲間と一緒に逃げる」のが合理的だからです。


 ここに大規模定住社会の<矛盾>が露呈します。一緒に逃げる仲間Aと、その為に人を殺しもする仲間Bは、範囲が違い、仲間Bが大きいのです。前者は仲間と家族。後者はさして親しくない者達だからです。しかし後者からなるポリスを守らないと、仲間と家族を守れなくもなるのです。


 <矛盾>に敏感だったのがヤハウェ信仰ルネサンスを企てたイエス。サマリア人の喩えがあります。律法学者に隣人とは誰かと問われたイエスは、「行き倒れた者をラビやレビ族は、律法が命じていないとして放置したが、被差別民(サマリア人)だけが助けた。隣人はどちらか」と答えます。


 前教皇ベネディクト16世によれば、キリスト教の祈りでは「仲間(共同体)を裏切らないよう、どうか私を観ていて下さい」が柱になると言いますが、既にアリストテレス以来「仲間とは誰のことか」という大規模定住社会に特有の未規定性が一部思想者にとって問題であり続けて来ました。この<根源的未規定性>と、それに由来する<矛盾>を、隠蔽すべく動員されるのが、「愛」なのです。


 ウェーバーに従えば、近代化とは、予測可能性をもたらすための計算可能性・をもたらすための手続主義化で、関わる者が誰でも構わないという<没人格化(人の入替可能化)>を旨とします。加えて、市場化に伴う損得勘定化の展開も、誰が計算しても同じという<没人格化>を帰結します。


 マクロに見れば、若い兵隊を消耗品として戦地に送る営みは、人の入替可能化と損得勘定化という2つの<没人格化>の交点にありますが、ミクロな実存からすれば、近代的社会生活の計算合理化・損得勘定化と、仲間Aと共に逃げず親しくない仲間Bのために命を賭す営みは、整合しません。


 近代社会にはこうした不整合が2つあります。性愛領域と政治領域に見られる<根源的未規定性>です。19世紀の近代社会では、性愛領域では情熱愛に基づく家族形成が<性愛ロマン主義>として奨励され、政治領域では愛国心に基づく国民軍化が<政治ロマン主義>として奨励されます。


 共通して、「~のために命を賭す」という<過剰>を擁護すべく、性「愛」・「愛」国という具合に、「愛」の<変性意識状態>を奨励します。ロマン主義とは「部分の全体化」「内在の超越化」「俗の聖化」の営みで、どこにでもある不細工な人や集団を「運命の女」「崇高な精神共同体」として粉飾します。


 けれど、全ての残余領域で損得勘定化・手続主義化すなわち<交換>を擁護しつつ、2領域でだけ<過剰>な「ロマン主義化=あばたもエクボ化」が支える<贈与>を擁護するのは困難です。例えば、全残余領域で入替可能性を擁護しつつ、2領域でだけ入替不能性を擁護するのは、整合しません。


 実際、先進各国では、今世紀になる前から、性愛領域における退却(遊戯セックス化を含めた脱恋愛化)と、政治領域における退却(戦死者の発生による厭戦化)が大問題化し、前者が少子化につながる<非婚化>を招来し、後者が激しい誤爆につながる<ドローン化>を招来している訳ですね。


 先進国では信仰共同体の成員(信仰者)が不可逆的に減少、グローバル化による中間層分解でソーシャルキャピタルも減少、「仲間の非自明化」が加速します。家族や地域の空洞化がミクロな非自明化を、資本移動自由化による人・物・カネの過剰流動性がマクロな非自明化を帰結しています。


 先進国は「近代化=損得勘定化・手続主義化」で<没人格化>が進んだ領域です。米国による「テロの時代」の御蔭で、近代が進んだ側の空爆と、遅れた側の自爆の、テロとしての等価性が露呈する一方、近代が進んだ側の<過剰>の禁圧と、遅れた側の<過剰>の奨励の、非等価性も露わです。


 近代が進んだ側は、性愛ロマン主義も政治ロマン主義も風化し、単なる実存の不安から「ナンパクラスタ」「ウヨ豚クラスタ」に淫する輩が量産されるので、「仲間のために人を殺す」べく命を賭ける<贈与>の<過剰>を、回避するために、誤爆があろうともドローン攻撃を選ぶ他ありません。


 要は先進国では、<過剰>の回避を擁護すべく、ドローンを用いた国家テロの過剰奨励する、バーター取引が展開しています。平たく言えば、「人権の普遍的な価値に基づく近代」が所詮「正規に反する非普遍的な事実性」に過ぎなくても、その事実性に自分や仲間の生存が掛かっています。


■<仲間の擁護>と<正義の擁護>のアンチノミー


 我々には究極の選択が突き付けられています。「仲間や家族を守るべく、不公正な事実性に居直る」選択Aか、「普遍の正義に拘り、仲間や家族の生存をリスクに晒す」選択Bか。この<仲間の擁護>と<正義の擁護>のアンチノミーに於いて我々は常に既に<仲間の擁護>を選んでいます。


 むろん、Aを選べば、見掛けや喧伝に拘わらず、社会は部族間闘争・軍閥闘争の時代と等価になり、Bを選べば、高度技術社会は所謂テロに無防備になります。いずれを選んでも今後は多くの「無辜の民」が殺され、塗炭の苦しみを舐める時代が来ますが、それでもAが優位になる他ないでしょう。


 なぜなら、法制史の定説に従えば、法的執行の歴史的出発点は血讐(目には目を!)であり、血讐の機能は「犯罪抑止」や「感情的回復」よりむしろ共同体を護持する「社会的意志貫徹」にあるからです。ならば近代国家は、それが普遍の正義か否かに拘わらず最初からAを選ぶしかありません。


 敢えて十字軍の歴史的怨念に言及する迄もなく、アガンベンが20年前に示した「ホモ・サケル」概念が示唆する[包摂か排除かの選別地平に在る者/地平から排除された者]という区別が、近代社会の──引いては大規模定住社会の──<根源的な未規定性>の在り処を明確に指し示します。


 近代社会の綻びは、ブッシュ政権や安倍政権によるのでも、内外戦後体制によるのでも、グローバル化によるのでもありません。遙かに奥が深い本質的原因によるもので、要は、大規模定住社会が随伴する<自明な仲間を守るべく、非自明な仲間を守らざるを得ない>構造に由来するのです。


 冒頭に戻ると、「近代社会は普遍化できる筈なのに、何らかの悪や理不尽の所為でうまく行かない」のではない。「近代社会の普遍化は本来不可能なのに、何らかの隠蔽装置により、近代社会の普遍化が可能だと勘違いした」のです。ここでも<可能性の説話論>から<不可能性の説話論>へ。


 抽象的には言語の構造に由来します。[意味/無意味]というコードを機能させるには、非意味を排除せねばなりません。「[意味/無意味]/非意味」の構造です。非意味を排除した地平に登場するのが、主権国家達であり諸国民達です。主権国家を形成できない者達には登場できません。


 戦後間もない頃、J・クラッパーは、俗情に媚びたメディア悪玉論を批判、引金要因(きっかけ)と火薬要因(本体)の峻別を説きました。同じく、ブッシュや安倍がどうのこうのという政策的失敗は引金要因に過ぎず、時間の問題でいずれ問題が噴出することが約束されていたのでしょう。


 以上の準備を踏まえて、前編で僕が『FAKE』に寄せたコメントを紹介したのと同じように、『カルテル・ランド』に寄せたコメントも紹介して措きます。既にお話ししたことが、文面もそのままに流用されていますから、皆さんにはもはや中身の説明は必要がないだろうと思います。


究極の選択が目の前にある。「仲間や家族を守るべく、脱法行為に居直る」選択Aか。「法と正義に拘り、仲間や家族をリスクに晒す」選択Bか。Aを選べば国家以前の部族間闘争に逆戻りだが、Bを選んでも国家は無法な暴力に無力だ。メキシコの麻薬戦争の最前線で目撃される状況は、テロに脅える我々にとっても、無縁のものではなくなるだろう。


■まともに見えるものは実はまともじゃない


 昔ならば、『カルテル・ランド』を観た観客の大半が、「僕らの社会はうまく行っているが、メキシコの社会には問題があるかうまく行かない」という風に受け取った筈です。しかし今ならば、「僕らの社会が抱えている問題がまるごとここに映し出されている」というふうに見えるのです。


 僕らはかつてと違って「僕らの社会はうまく行っている」とは思ってないけど、百歩譲ってそう思ってる場合も、僕らの社会がうまく行くことと彼らメキシコの社会がうまく行かないこととの間には深い関係があり、謂わば「前者が後者にシワを寄せることで支えられている」のは自明です。


 その意味で、アガンベンも大きな影響を受けたフーコーが言うように、まともに見えるものは実はまともじゃないのです。ラカンが言うように、まともに見えるものに埋没している人間こそ病気です。彼らは総じて「まともじゃない人間が本当のことを知っている」という議論をします。


 でもこうした議論が流行ったのも1960年代後半から90年代前半迄の話。92年に冷戦体制が終り、数年間の「平和の配当」を経て、97年のアジア通貨危機を迎える頃迄には、グローバル化の副作用への共通認識を通じて「まともに見えるものがまともじゃない」ことは人口に膾炙しました。


 かくて“まともに見えない人間”を取り立てて擁護する必要がなくなりました。だから、森達也『FAKE』が佐村河内氏を擁護する身振りをさして示さないように、『カルテル・ランド』は麻薬カルテルのメキシコ人やその被害を受けたメキシコ人を擁護する身振りをさして示しません。


 日本会議問題やトランプ問題を持ち出す迄もなく、僕らの社会がデタラメなのはもはやデフォルトで、デタラメぶりを証明する為のシンギュラリティ(特異点)が『カルテル・ランド』に描かれている訳ではない。僕らが「そう」思っている事が確かに「そう」だと確認させる為の作品です。


 そうした我々の体験様式にも<可能性の説話論>から<不可能性の説話論>への移行があります。だから映画は、社会をダメにする悪の大ボスを見出して成敗しようという、かつてならありがちな展開を見せない代わりに、社会がダメなのはデフォルトとして、どう生きるかを主題化します。


 マシュー・ハイネマン監督は森達也監督と同じで「うまく回る筈のシステムをダメにしている悪の大ボスは誰だ?!」といった関心を持ちません。彼らは共通して、誰かを退治して「さあ、これでシステムはうまく回るぞ」と思うような、頭の悪さや非倫理ぶりを、徹底的に嫌悪しています。


 永久にうまく回らないシステムで、しかしそのことを確信しながら、うまく回らないシステム(クソ社会!)に適応して生きようとしない──生きられない──存在として、『FAKE』は佐村河内氏に惹かれ、『カルテル・ランド』は自警団リーダーの医師ホセ・ラミレスに惹かれています。


 つまり森監督とハイネマン監督は佐村河内氏とラミレス医師の「存在」で救われています。実際、「世直し家」でありながら最後に収監されるセクハラおやじのラミレス医師は、佇いが最高でした。世直しを支える善悪軸や世直しの現実性を、横に置いて、そう生きてみたいと思わせるキャラです。


■<クソ社会>をどう生きるかという実存問題


 『カルテル・ランド』は日常的に目にしない麻薬戦争が描くので、特別な場所の特別な話だと思われがちだけど、ハイネマン監督や製作総指揮キャスリン・ビグローがそう理解していないのは、国境の米国側にも自警団が存在して「法の外で」活動する事実を冒頭に描くことでも分かります。


 説明すると、どんな先進国でも公安警察が常に既に“事実行為”と称して「法の外」で活動します。自由の中に「自由な社会を転覆する営み」が含まれ得る以上、法を守ることに意味がある自由な社会を、しかし法を守ることで台無しにする可能性があるからです。だから“事実行為”は必要です。


 それは見えない所で行われていたので、そのぶん「例外状態に於ける主権者の意志」として正当化できました。でも我々は既に、おぞましきグアンタナモ収容所の存続や、誤爆だらけのドローン攻撃の存続を通じ、かかる“事実行為”が目に見える所で常時展開している事実を知っています。


 監督や製作総指揮者は、例外状態がもはや例外ではなくなったそうした変化を踏まえ、グアンタナモ収容所での肉体的・精神的拷問や、地上での事前調査の不在ゆえに数多の悲劇を生み出すドローン誤爆と同列に、国境の内外での自警団の「法外」の営みを並べているのだと、思われます。


 それぞれ「法外」の意味が少しずつズレますが、それこそ「法外」なので、ズレを細かく取り立てて「悪をピンポイントで名指す」営みに、意味がないのです。そのように言える程には<クソ社会>はその本質的なクソぶり──<根源的な未規定性>──を既に露わにしていると言えるでしょう。


 繰返すと、<可能性の説話論>が<不可能性の説話論>へと大規模に移行しつつある現在、表現の主題が、クリアカットな「悪の大ボス」批判から、デタラメな<クソ社会>をどう生きるかという実存問題へと移行しつつある事実を確認できます。二つのドキュメンタリーにその兆候を見ました。(後半へ続く)(宮台真司)