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『とと姉ちゃん』七週目は新商売めぐるドタバタ劇に 常子は“婦人解放運動”とどう向き合った?

2016年05月23日 16:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『とと姉ちゃん』公式サイト

 昭和11年。最終学年を迎えた16歳の小橋常子(高畑充希)は卒業後の就職先を探していた。しかし、ほとんどの仕事は男性の半分程度のお給金で、仕事先も少ない。そんな現実に対して、仕方がないと諦めていた常子だったが、新担任となった東堂チヨ(片桐はいり)と出会ったことで大きく変わる。東堂から平塚らいてうの雑誌「青鞜」を借りた常子は昼夜を忘れて読書に没頭し、心が晴れたような気持ちになる。そして、女だからといって尻込みせずに、自分のやりたいことをやろうと、心に誓う。


参考:『とと姉ちゃん』見事な展開となった第六週 祖母と母の和解はどう描かれた?


 新しい商売のアイデアを捜していた常子は歯槽膿漏の女性が多いことに気づく。星野武蔵(坂口健太郎)から教わった方法で、歯槽膿漏を治療するための練り歯磨き粉を作った常子は森田屋の仕出し弁当といっしょに試作品を配ってもらう。歯磨き粉は好評で、叔父の鉄郎(向井理)の提案で大量生産して売りだそうとする。露店での販売は鉄郎の口上の力もあってか大成功したのだが、その姿を鉄郎の借金取りに見つかってしまう。常子たちから歯磨き粉を安く買い叩こうとする借金取り。何とか打開策を打ち出そうと頭を悩ます常子だったが、鉄郎は行方をくらませてしまう。


 先週の「泣かせ」の展開とは正反対のドタバタ劇となった『とと姉ちゃん』第七週。作中でも語られていたように鳩を捕まえて売ろうとした時の展開をなぞるような馬鹿馬鹿しさだが、それでも小橋家の姉妹が力を合わせて何かを作り上げようとする姿は、見ていて楽しい。そして歯磨き粉が完成した後は、鉄郎の協力の元で、売り出そうとするのだが、露店での「さーさーお立合い」という流暢な口上は、映画『男はつらいよ』シリーズのフーテンの寅さんを彷彿とさせるのだが、案の定うまくいかない。それにしても、テロップで「十個…一銭→元々の300分の1」とわざわざ出して、どれだけ損するのかをちゃんと見せるのが、このドラマらしいところだが、緊迫している状況とのギャップがおかしい。また、借金取りのようなカタギの職業ではない暴力的な人間が、朝ドラに出てくると少しザワザワするものがある。森田屋の大将・宗吉(ピエール瀧)の初登場シーンも朝ドラで見るにはギリギリだなぁと思っていたが、元々が上品な雰囲気だっただけに、今後こういった野蛮な要素がどこまで増えていくのかは楽しみだ。


 前クールの朝ドラ『あさが来た』(NHK)にも登場した平塚らいていだが、一方で世間に話題となっているのが、この年に起きた陸軍の青年将校によるクーデター未遂となった二・二六事件だ。一見、無関係に思える二つのエピソードであるが、平塚が婦人解放運動(女性の社会進出)を推し進める際に、消極的な形ではあるが戦争協力に加担してしまったことと、二・二六事件を起こした青年将校たちが決起する背景にあった思想が、政治腐敗に対するいらだちと農村で困窮する人々を助けるための「天皇親政」だったことを考えると、善意からはじまった運動が、結果的に日本が起こした戦争と結託してしまう悲劇のはじまりが描かれているとも言える。これはもちろん、後に描かれるだろう大政翼賛会を通して戦争に加担した花森安治の物語ともつながっていく。同時に思うのは、山田洋次の映画『小さいおうち』でも描かれていた昭和11年という時代が持つ独自の空気だ。二・二六事件や阿部定事件のような暗い事件は起こっていたが、庶民の暮らしはまだまだ明るくおおらかだったことがわかる。


 二作続けて平塚らいてうが登場することとなった朝ドラだが、女の一代記を描いてきた朝ドラは、時代に先駆けて自立して働く女性たちを描き続けている。その意味で、フェミニズム思想を体現する物語だと言える。だが一方で、優等生的なヒロイン像は毎回保守的で、古さと新しさ(それは通俗性と先鋭性と言ってもいい)が平然と同居しているのが朝ドラである。


 だから、婦人解放運動の平塚らいてうの雑誌「青鞜」が出てくるのは納得する一方で、どこまで踏み込むのかは悩ましいところだろう。この辺り、本作の距離感は絶妙で、「元始、女性は実に太陽だった」という強いメッセージ性を打ち出しながらも、常子が始めるのが、婦人解放運動ではなく歯磨き粉を使ったビジネスというのは程よいバランス感覚だと思う。


 もうひとつ、興味深いのは東堂が台詞を暗唱するのが、ヘンリック・イプセンの『人形の家』だということだ。弁護士ヘルメルの妻であるノラが、夫の態度に愛想を尽かして家を出ていく姿を描いた本作は、フェミニズム運動の勃興を象徴する古典として語られる戯曲だが、仕事と恋愛(あるいは結婚)のはざまで葛藤する女性たちの姿を描き続けてきた朝ドラを含めた日本のテレビドラマの源流に『人形の家』があると言っても過言ではない。


 それにしても当時、フェミニズム思想と雑誌文化と演劇文化が強く連動していたのが、東堂チヨを見ているとよくわかる。だから常子や鞠子の興奮は、平塚らいてうの言葉に対するものだけでなく、雑誌を通して思想に触れるという活字体験そのものの喜びを描いているように感じた。無論、この興奮は常子たちが雑誌社を立ち上げる際の原体験となっていくのだろう。(成馬零一)