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高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第8回 ポストメディウム的状況のアニメーション美学をめぐって 「劇場版 響け!ユーフォニアム」

2016年05月22日 16:52  アニメ!アニメ!

アニメ!アニメ!

イラスト:mot
■ 高瀬司(たかせ・つかさ)
サブカルチャー批評ZINE『Merca』主宰。ほか『ユリイカ』(青土社)での批評や、各種アニメ・マンガ・イラスト媒体、「Drawing with Wacom」でのインタビューやライティング、「SUGOI JAPAN」(読売新聞社)アニメ部門セレクターなど。
Merca公式ブログ:http://animerca.blog117.fc2.com/

■ ポストメディウム的状況のアニメーション美学をめぐって
――『劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部でようこそ~』

映画史研究者・批評家の渡邉大輔は『イメージの進行形――ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院、2012年)において、現代の映像文化を「映像圏 imagosphere」システムを軸に論じている。「映像圏」とは渡邉の造語で、「「ソーシャル化」が如実に体現しているような、インターネットや携帯電話、監視キャメラなど、現在の情報ネットワーク社会がもたらす「イメージの氾濫状態」とでも呼ぶべき文化状況やひとびとのもつリアリティの総体のこと」(15頁)とされる。

ではアニメにおけるリアリティとはなんだろうか。「マンガ(絵)の映画」である日本の商業アニメーションはこれまでもっぱら、自らが〈映画〉であるかのように振る舞うことによってリアリティを擬装してきた。「リアリティを擬装してきた」という言い回しは、リアリティというのがそもそも「(リアルとは異なるが)本当らしく感じられるもの」という、元より擬装性をはらむ概念である点からすると少々おかしな表現に思えるかもしれないが、しかしアニメは、そうした物言いを許してしまいたくなるような二重の擬装性をまとい存在してきた。

しかし、こうしてアニメが〈映画〉からリアリティを借り受けつづけるには、前提として〈映画〉がリアリティを保持している必要があるはずだ。しかし20世紀後半における制作環境のデジタル化を決定打に、映画批評家アンドレ・バザンの言う映画の「リアリズム」(についての一般的解釈)――写真的なインデックス性【注01】――は、その成立がおよそ困難になったと見なされて久しい。

本稿は、「映像圏」という概念、および『劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部でようこそ~』というアニメ作品から見えてくる、そのような21世紀以降のデジタル/ネットワーク化時代のアニメ表現を分析する足がかりを模索する。

▼注01:「指標 index」とは、チャールズ・サンダース・パースの記号論において、「指示対象と物理的つながりを持つ記号」のこと。バザンのリアリズムは、フィルムが現実世界と物理的つながりを持つ(世界をありのまま映し出した光学的痕跡である)ことに由来し、ゆえにワンシーン・ワンショット、ディープフォーカスが評価された。

■ すべての〈映画〉は「映像=動画」になる

馴染みがない方へ向け、まずは前提となる文脈を振り返る。
映画批評の場においては、(ことに日本やフランスでは)〈映画 cinema〉を、「映像=動画」【注02】とは異なるものとして特権視する(「映像=動画」を敵対視する)言説が長らくヘゲモニーを握ってきた。〈映画〉を自律した作品ととらえ、スクリーンに生起する〈運動〉を純粋に経験する場と信仰するこうした映画観に対して、21世紀初頭(ことに2010年代以降)の現代、「ポスト・メディウム論」的な態度が一つの潮流をなしはじめている。

▼注02:「映像」という言葉には対応する英語が存在せず、「動画」という言葉もアニメ業界では慣例的に“in-between animation”の訳語として定着している(あるいはさらに遡れば政岡憲三により「漫画映画」に代わる“animation”の訳語として提唱されていた)ため、どう呼ぶのが適切なのかは判断がむずかしい。「動画像」や「動く映像」といった表現も見るが、(アニメ用語としての「動画」に別の訳語を当てることができればもっとも整理が進むと思われるとはいえ、さしあたって)ここでは結論を保留にし、便宜的に「映像=動画」と呼び表すことにする。

簡略に説明すれば、「ポスト・メディウム論」とは、美術批評家のクレメント・グリーンバーグによる「メディウム論」【注03】を批判的に継承した概念と言える。
「ポストメディウム的状況(ポストメディウムの条件) post-medium condition」においては、1999年に『北海航行 ――ポストメディウム的状況における芸術』(Rosalind Krauss, A Voyage on the North Sea: Art in the Age of the Post-Medium Condition. New York: Thames & Hudson Inc., 1999)を著した美術批評家のロザリンド・クラウスと並んで(特に美術批評以上に、映像文化論・視覚文化論の場においてこそ、別文脈ながらも共鳴しつつポテンシャルを発揮しているという意味で)その代表的論者とされるレフ・マノヴィッチが「ニューメディア論」として論じるように――「マノヴィッチによれば、デジタル時代において個々のメディウムはコンピュータ内のデータや演算に還元され、ソフトウェア上で並置されるそれらメディウムのあいだの根源的な差異は消滅」(門脇岳史「メディウムのかなたへ――序にかえて」『表象08』「特集:ポストメディウム映像のゆくえ」月曜社、2013年、13頁)した結果――〈映画〉は(支持体と受容形態の両面において)そのメディウムとしての自律性を失い、「映像=動画」データのなかの一要素と見なされるようになる。

▼注03:各メディウムの固有性(メディウム・スペシフィシティ medium specificity)への純化を志向する美学。アニメーションを例に言いなおせば、その固有性を作画=アニメイトの快楽に求め、それをアニメの美学的本質と見なすような還元主義的パラダイムがそれに相当する。筆者が直接関わったなかでは、『アニメルカ vol.4』(2011年6月)に掲載した、いまでは『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社、2014年)で知られる、視覚文化論における日本の代表的批評家・石岡良治との対談で、こうしたフォーマリズム的(メディウム論的)なアニメ観から、ポストメディウム論的なアニメ批評への転換の理路を――そして翻ってフォーマリズムのこれからのポテンシャルを――具体的な作品分析を交えながら概観した(念のため言い添えるが、これは作画への注視を否定するものでもなければ、「アニメならでは」という評価軸を完全に無効化しようとしているわけでもない)。またこの転換の重要性が現在、刊行時以上に増してきていることを受け、対談記事からこの論点に関わるパートを切り出し『テヅカVS四コマ――『あずまんが大王』は『まんが道』を殺したか』(2015年12月)に再収録している。

そうしてマノヴィッチは、(1990年代におけるデジタル化の全面的な進展がもたらした「ニューメディア」の美学的諸相を体系的に分析する)著書(Lev Manovich, The Language of New Media, Cambridge, Mass.: The MIT Press, 2001)の第6章「映画とは何か?」において、ポストメディウム的状況における〈映画〉ならざる「映画」を次のように定式化する。

「デジタル映画とは、多くの要素の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケースである」
(レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語――デジタル時代のアート、デザイン、映画』堀潤之訳、みすず書房、2013年、414頁)

アニメーション(映像=動画=デジタルデータ)の特殊ケースと化した「映画的なもの」【注04】。
この見立ては、2001年の原著の刊行以来、ことあるごとに引用されつづけてきたのみならず、具体的な作品としてはその後のフル3DCG映画『ファイナルファンタジー』(2001年)、実作者の言葉としてはアニメ監督・押井守の「すべての映画はアニメになる」というテーゼによって、日本のアニメファンにも広く知られることとなる。

▼注04:デジタルデータに一元化したという認識のもと、その後のマノヴィッチはプロジェクト「カルチュラル・アナリティクス」で、各時代の映画をショット数で定量分析するといったアプローチを進めることになる。

当連載第7回では「アトラクションのアニメ――『ガールズ&パンツァー 劇場版』と『KING OF PRISM by PrettyRhythm』」(http://animeanime.jp/article/2016/04/02/27845.html)と題し、1986年発表の論文「アトラクションの映画」(トム・ガニング「アトラクションの映画――初期映画とその観客、そしてアヴァンギャルド」中村秀之訳、長谷正人+中村秀之編『アンチ・スペクタクル――沸騰する映像文化の考古学』東京大学出版、2003年)を軸【注05】に初期映画(1906年以前の映画)の歴史にも軽く触れたが、ガニング以降の映画研究において、初期映画やアニメーションの研究が極めて大きな存在感は発揮していることも、20世紀のなかの特定の数十年間という一時期に〈映画〉と信じこまれてきた概念を、歴史的に(拡張的に)再検討する営為であるという意味で、ポストメディウム的状況と密に同調した動きと言える【注06】。

▼注05:あわせて本稿に関わる議論としては下記を参照のこと。Tom Gunning , “Moving Away from the Index: Cinema and the Impression of Reality,” Differences 18, 1, 2007, 29–52. 未邦訳だが、日本語の文献では『マンガと映画――コマと時間の理論』(NTT出版、2014年)の著者でマンガ研究家の三輪健太朗による解説(『映画学』早稲田大学大学院文学研究科映画研究室、26 号、2012 年、74-81頁)が詳しい。近年何度目かの盛り上がりを見せている映画批評家アンドレ・バザンの再評価(再解釈)へもつながる(そしてアニメーションの可能性にも踏みこむ)この論点は、またの機会に本稿や『マンガと映画』と絡めつつ掘り下げたい。

▼注06:こうした歴史の再検討は、今後アニメ研究においても強く求められる態度だろう。ここまで見てきたように、映画研究における教科書的な〈映画〉史――「D・W・グリフィス以降の古典的ハリウッド映画は、ヘイズ・コードとともに1930年代・40年代に最盛期を迎え、1950年代(後半)から1970年代にかけてのスタジオ・システムの崩壊以後スペクタクル化した(蓮實重彦【※彦は正しくは旧字体】が『ハリウッド映画史講義――陰りの歴史のために』[筑摩書房、1993年]でパラフレーズしたところの「物語からイメージの優位へ」[174頁])」――に対して、見世物/スペクタクル化の果て、ことに1990年代以降におけるデジタル時代のポストシネマの探求として初期映画の見なおしがはかられたことと同様に、マンガ研究(ことに21世紀以降の)においても「手塚治虫【※塚は正しくは旧字体】が戦後、ストーリーマンガを創造した」という「テヅカ神話」が強烈な再検討に晒されている。
漫画/マンガ研究者の宮本大人による手塚以前の戦前漫画の研究(手塚が戦後発明したと吹聴されてきた「映画的手法」はことごとくその発生が遡られることになる)、そしてマンガ評論家の伊藤剛による(ちょうどポストメディウム的状況における映画研究と同型の)メディアミックス環境が前提となった近代以降の視点から、メディア横断的な(そしてテヅカ神話によって隠蔽されてきた)「キャラ」概念を起点にマンガ(表現)史をとらえなおす『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』(NTT出版、2005年)がその代表だろう。筆者が直接関わったなかでは、座談会「テヅカVS四コマ――ぼのぼの、あずまんが大王、ゆゆ式」(伊藤剛×やごさん×高瀬司、2015年)において、戦後ストーリーマンガに対して、戦前のメインストリームであった(つまり「テヅカ神話」の外から論じうる)コママンガの(四コマへとつながる)歴史から、(ポスト『テヅカイズ』=メディアミックス環境以降の)デジタル/ネットワーク時代におけるマンガ表現の現在の検討にまで踏みこみはじめている。
こうした映画・マンガ研究の動向は、アニメ研究においても、たとえば『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)ないし『アルプスの少女ハイジ』(1974年)における高畑勲・宮﨑駿によるレイアウトシステム(あるいは、1956年の東映動画設立、ないし手塚治虫の虫プロダクションによる1963年のTVアニメ『鉄腕アトム』)を起点とした日本の商業アニメーション史観(むろん個々の観点自体は極めて重要なものではある)が陥りやすい落とし穴への注意をうながしてくれるだろう(そして実際、ポストメディウム的・領域横断性が――「切断」が語られるほどに――前提となった現代のアニメ批評と平行し、戦前からの連続性の研究はゆっくりと積み重ねられはじめている)。

■ ポストメディウム的状況のリアリティ

徐々にメインテーマへと移っていきたい。
冒頭に引いた、渡邉が分析する「映像圏=ソーシャル時代の映画・映像文化」とは、こうした「ポスト・メディウム的状況における映画=映像」の延長上に位置づけられる問題系だろう。
そしてこの著作で渡邉がことさら注目するのが「擬似ドキュメンタリー(フェイクドキュメンタリー、モキュメンタリー) Mockumentary」である。擬似ドキュメンタリーとは、記録映画(ドキュメンタリー)を擬装したフィクション――「POV(主観)ショットによる肌理の粗い手ブレ映像や素人俳優の起用に特徴づけられる、ドキュメンタリー映像のクリシェ的表現方法を巧みに模したフィクション作品」(渡邉、38頁)――で、ダニエル・マイリック+エドゥアルド・サンチェス監督による低予算擬似ドキュメンタリー映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)の大ヒット以降(=2001年の9・11の前後から)、現在に至るまで世界中で爆発的な広がりを見せている。

とはいえ念のため補足しておけば、擬似ドキュメンタリーはもちろん、2001年前後に新しく生まれた表現形態ではない。たとえば『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のブーム時にも、同じPOV形式のファウンド・フッテージものとしてルッジェロ・デオダート監督の映画『食人族』(1980年)がしばしば引き合いに出されていただろう。また映画監督・白石晃士の『フェイク・ドキュメンタリーの教科書――リアリティのある“嘘”を描く映画表現 その歴史と撮影テクニック』(誠文堂新光社、2016年)では、より遡られた仮説的起源として、イギリスのピーター・ワトキンス監督の初長編『Culloden』(1964年)が挙げられてもいた。またそもそも、リアリティショー形式のTV番組が世界的流行を見せはじめたのは1990年代のことでもあったろう。

渡邉の議論でも当然、そのことは自明の前提となっている。実際、著書のなかでもオーソン・ウェルズによるメタフィクション的ラジオドラマ『宇宙戦争』(1938年)といった源流や、1940年代におけるフィルム・ノワールとの類比が見出されているとおり、「映像圏的なもの」としての擬似ドキュメンタリーへの注目は、その手法的な新しさや表現の強度によるものではない。

それが現代における映像=動画の氾濫・偏在状況――たとえばスマートフォン・携帯電話・監視カメラで撮影された映像がWEB上に溢れ、またそのフッテージをPC上で再構成することで「映画的なもの」が生み出され、それが再び動画共有サイトへアップされることでそれ自体がフッテージとして再利用される――というのは、「今ここにある「現実」の世界が、バーチャル事実的=潜在的にいつでも「イメージ」(虚構)の断片へと転化しうる可能性(確率)を胚胎した世界」(渡邉大輔「二一世紀の「映画(的なもの)」について」森直人+品川亮+木村重樹編『ゼロ年代+映画――リアル、フェイク、ガチ、コスプレ』河出書房新社、2011年、84頁)、「もはや「映画を撮る」のではなく、「映画が映画を撮る」ようなウロボロス的世界」(同前、83頁)、すなわち映像圏(繰り返せば「現在の情報ネットワーク社会がもたらす「イメージの氾濫状態」とでも呼ぶべき文化状況やひとびとのもつリアリティの総体」)を体現した表現手法であるがゆえに注目されることになる。

■ アニメにおけるSNS的想像力
――『AIR』から『けいおん!』、そして『響け!ユーフォニアム』へ

日本の商業アニメーションの世界で、〈映画〉のリアリティではなく、ポストメディウム的状況下の映像=動画のリアリティを元にした作品群と言うと、ゼロ年代中盤以降の京都アニメーション(と今回は触れないが新房昭之×シャフト)をその代表として挙げることができるだろう。

ゼロ年代における京都アニメーションのフィルモグラフィを振り返ってみても、元請け作品での出世作となったTVアニメ『AIR』(2005年)の第8話「なつ~summer~」(絵コンテ・演出:山本寛)における(仮想的な)カメラに水しぶきがかかるショット【注07】、TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年)【注08】の第1話「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」(絵コンテ・演出・脚本:山本寛)における劇中劇制作、同じく第9話「サムデイ イン ザ レイン」(絵コンテ:山本寛)における監視カメラ的ショット(のちのTVアニメ『日常』[2011年]における定点観測ショットへとつながる表現だろう)、TVアニメ『らき☆すた』(2007年)における(同名ラジオ番組とも連動した)劇中番組「らっきー☆ちゃんねる」(企画・放映開始時の初代監督:山本寛)などがすぐさま思い出せる【注09】。

また筆者がかねてより主張してきたように【注10】、『涼宮ハルヒの憂鬱』を〈セカイ系〉からの転換点とし、『らき☆すた』を経て、『けいおん!』シリーズ(2009・2010・2011年)、ことに『映画けいおん!』(2011年)で一つの頂点を極める〈日常系〉も、SNS時代のコミュニケーション環境・様相そのものの作品化(ファンタジーものではない「中高生を登場人物とした学園日常もの」という、〈アニメ〉的ではない舞台設定も重要だろう)であるという点で、やはり映像圏的な見立てと共鳴する問題系だろう。

▼注07:これももちろん、客観視点ではない、映像圏的な主観視点が導入された一例と言える。ただ、いまやありふれた表現になっているがゆえにかえってわかりにくくなっているが、かつての〈映画〉にとっては驚かれるにたる演出であった点は確認しておきたい。
たとえば樋口泰人・稲川方人編の、青山真治・阿部和重・黒沢清・塩田明彦・安井豊が参加した500頁を超える長大な座談会本『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド出版局、2000年)の序文「獏とした広がりを前に」を、樋口はこうはじめる。「どうやらアメリカ映画は、かつてあったアメリカ映画ではなくなってしまったようだ。〔中略〕これは「映画」と呼べるものだろうかとさえ思う」(2頁)。つまり「ハリウッドとは異なるたんなるアメリカ映画」(蓮實、前掲書、177頁)へと変容したのちの(たんなる)映画史、『ロスト・イン・アメリカ』内の言葉を借りて言い換えれば「「アメリカ映画」の80年代、90年代を視界に収めたこの本」(樋口、6頁)で、象徴的な事例として注目されるのが、ヤン・デ・ボン監督作『ツイスター』(1996年)における「画面奥の牛をクルクル宙に舞わせて画面の手前に落とす」(6頁)ショットであった。それに対して樋口は「極論すれば、牛は我々の目の前にまで飛ばされてきたのである。それがはたして「映画」であるかどうかは別にして、我々はまず、そのことに驚く。この本はそんな驚きからスタートしている」(5頁)と語ることになる。そこから約10年後に描かれた、TVアニメ『AIR』におけるこの『ツイスター』に連なる演出も、もちろん表現としての起源という点では十年単位で遡れるものだろう(たとえば映画ならば、少なくともエドウィン・S・ポーター監督作『大列車強盗』[1903年]という、〈映画〉成熟以前まで遡れる)。
しかし他方でこうした想像力が、TVアニメ『AIR』というYouTube元年である2005年の作品において大々的に姿を現し、京都アニメーションのその後のフィルモグラフィにおいて全面化されていくことの時代的同期性は無視できないように思われる。今後はグロス回まであらためて調査しなおすことで、より精緻化したい論点である。

▼注08:『涼宮ハルヒの憂鬱』もすでに放映から10年を経て古典化が完了したため、現在の視聴者へ向け事実関係を補足すると、2006年の本放送時には時系列をシャッフルした放映が行われ、また2009年には新作となる14エピソードを加えた全28話が放映されている。そのため表記の混乱が起こりがちだが、ここでの「第1話」「第9話」とは2006年のTV放映順に従ったものである。それぞれ2006年版の時系列順では第11話と第14話、2009年版では第25話と第28話となる。

▼注09:関連して、当議論とは別文脈からTVアニメ『AIR』の演出を論じたものとして、『Merca β03』(2016年5月)における座談会(小森健太朗×坂上秋成×高瀬司、2015年10月収録)がある。そこで筆者は、ゼロ年代後半、京都アニメーションがコンポジット・ワーク(撮影処理)や特殊効果によって生み出したビジュアルイメージが、(新海誠という参照項を挟みつつ)どのような物語的想像力によって要請されたものであったかの分析を試みた。

▼注10:〈セカイ系〉の隆盛から、〈日常系〉の勃興と退潮に至るまでの想像力の変遷を、情報社会論的にとらえ返す見立て。これまで幾度か書いてきたテーマだが、直近では前述の『Merca β03』のTVアニメ『AIR』論座談会でその概略に触れている。本連載でもいずれ詳細に展開したい。

ではTVアニメ『響け!ユーフォニアム』(2015年)はどうなのか。
まず一見したところ、『けいおん!』シリーズの対極にたどり着いた作品のように映るだろう。「音楽」をモチーフとした部活ものという共通項を持ちながら、努力、目標、葛藤、恋愛といった、〈日常系〉では(少なくとも劇的なレベルでは)抑圧ないし後景化されたと言われがちな要素が全面導入されているからだ。この変化の歩みは、『響け!ユーフォニアム』でシリーズ演出を務めた山田尚子監督作品を軸に見ていくことでより明確になるだろう。つまり、初監督作である『けいおん!』という〈日常系〉を起点に、「日常」を部室から家族の歴史や商店街にまで拡張した『たまこまーけっと』(2013年)、そこからさらに恋愛や葛藤を前面化した『たまこラブストーリー』(2014年)、そして音楽というモチーフを再召喚したうえさらに目標や努力を盛りこむことで『けいおん!』の対岸へ(彼岸から此岸へ)たどり着いた(健全な)『響け!ユーフォニアム』、という図式的な整理ができる。

しかし、『けいおん!』の対極へと向かったのだとすれば、『響け!ユーフォニアム』はポストメディウム的/映像圏的であることからは離れてしまったのだろうか。

渡邉は『イメージの進行形』のなかで、二人のシネアストの作家論を展開している。一人はオーソン・ウェルズ、そしてもう一人が岩井俊二である。そこでは1990年代、当時の若いサブカルチャーファンから高く支持された(また同時に、「映像=動画的なもの」の典型と言える、いかにもMV出身者らしい作風により、〈映画〉批評の側からは批判ないし黙殺されつづけた)岩井を、先端的な情報メディアの活用と映像表現の面から「日本映画界における「映像圏的」なシネアストの先駆者といってよいだろう」(167頁)と位置づけている。そして岩井の映像技法的特徴として挙げられるのが、「極端な逆光で撮られた強烈な自然光と浅いフォーカス」「風景や登場人物たちの動きのプロセスを意図的にジャンプ・カットのように断片的なショットに割ってつなげるモンタージュ」(168頁)などであった。

これらが(バザン的〈映画〉美学=ディープフォーカス、ワンシーン・ワンショットとは対極にある)山田尚子的(ことに『たまこまーけっと』以降の)アニメ美学にそのまま当てはまることは言うまでもないだろう。また『たまこラブストーリー』、そして『響け!ユーフォニアム』とそれがより過激化していっていることも論を俟たない。

(石原立也監督によるレンズ的表現への志向を根底に)『響け!ユーフォニアム』はコンポジット(撮影)のアニメであった【注11】。
トイカメラ的であると同時にInstagram的でもあるだろう、色収差、周辺光量落ち、玉ボケ、二線ボケ、手ブレといった歪み・汚し・陰影・色調表現、そして山田尚子的な望遠レンズを基調とした極端なまでのシャローフォーカス【注12】。
かつて筆者が『たまこ』シリーズを論じた際には、『たまこラブストーリー』の演出について「望遠レンズ風の映像は、被写界深度が浅く、画角も狭く、そのうえよくブレる。この視野が狭く危うい感じが、青春を表象するにふさわしい表現」(高瀬司「うさぎ山商店街・天使の詩――『たまこラブストーリー』試論」『反=アニメ批評 2014summer』アニメルカ製作委員会、2014年)と物語と関連づけるかたちで触れたが、映像圏を補助線にすることでわれわれは、これをまったく別様に位置づける視座を手にした。いまや『けいおん!』から『響け!ユーフォニアム』への転換は、次のようにパラフレーズ可能であろう。

ソーシャルメディア的作品(SNS的コミュニケーション環境そのものが主題化されているように読める『けいおん!』)から、ソーシャルメディア的映像(SNS的コミュニケーション環境において氾濫する映像=動画的演出で綴られているように読める『響け!ユーフォニアム』)へ。

これにより、両作のあいだに予感された断絶は、同じ想像力のもとにある別種のアプローチとして、連続性のうちにとらえ返される。われわれはここから、ポストメディウム的状況のアニメーション美学を模索しはじめることができるのではないか。

▼注11:『響け!ユーフォニアム』を特集した『アニメスタイル007』(メディアパル、2015年)が、「オールドレンズ効果」を中心にそのコンポジット・ワークを大きく取り上げている。

▼注12:実際、『プリキュア』シリーズのEDや、『アイカツ!』シリーズなどのアイドルアニメのライブシーンといった、「MV」的(映像圏的)文脈を受け継いだ場では、極端なシャローフォーカスや、大胆なブレ、ピン送り、ビジュアルエフェクトが大々的に導入されているだろう。また一部のデジタルイラストレーションにおいて、空気遠近法的に描くのではなく、After Effectsによるレンズ的奥行きが与えられるようになって久しいが、昨今ではさらに、pixiv出身者によるイラストレーション的マンガ表現の隆盛の延長上で、コミックスの表紙やカラーページでもときおり、After Effectsによるレンズ的処理を目にするようになった。ここからメディアをまたいだビジュアル的想像力の変遷へと踏みこみはじめることもできるだろう。

■ 背景から考える――『バケモノの子』と『響け!ユーフォニアム』

ここで急いでつけ加えておかなければならないが、基本的な前提としてわれわれは、デジタル化/ネットワーク化以降に対応する(映像=動画)批評の言葉の構築が急務だと主張しはしても、文化がポストメディウム的状況へと収斂すると断定するほど楽観的な見立てを取ってはいない。(『アニメルカ vol.4』においてポストメディウム的状況におけるフォーマリズムの役割を再検討したように)現に映画批評の場においては、「〈映画〉の現在」のあり方をめぐる模索も継続している。

たとえば映画研究者・批評家の三浦哲哉は『映画とは何か――フランス映画思想史』(筑摩書房、2014年)で、「一方向的に「ポストメディウム状況」が徹底されるという単純な事態があるのではないこともまた確認しておかなければならない。映画がほかの動画と並列化し、ある意味では融合する局面が生まれるのと同時に、その反作用として、映画が映画の固有性を追求し純化するというもう一方の局面がすでに生まれている」(206-207頁)と、「映像=動画」と〈映画〉の二極化の流れがあるとの見立てを示しているし、また(先に注でも触れた)批評家の石岡良治は『ユリイカ』での渡邉との対談で「昨今では映画がマスターメディアから退場したと言われていますが、私のイメージでは相変わらずある種のマスターメディアとして機能しているぞという気がしています。動画の時代になったからこそ、スクリーンで上映されるという条件が重要になっていて、「本篇は映画」という位置付けが明確になっている印象をもちます」(石岡良治×渡邉大輔「「ポスト〇五年=YouTube」の映画をめぐって」『ユリイカ 特集:『スターウォーズ』と映画の未来』2016年1月号、青土社、2015年、63頁)とメディアミックス時代において逆照射される中心性を語ってもいた。

そしてこの動向は、現代の商業アニメをめぐっても見受けられるように思う。
以前も「映像」と「(絵の)映画」という対で語ったが、その一例が、ポストメディウム的状況と共鳴する『響け!ユーフォニアム』に対する、東映動画的な漫画映画の伝統に連なる〈アニメ〉、細田守監督の『バケモノの子』(2015年)である。
ポストメディウム的状況のアニメを考えるとき、その対比は何を照らし出すのか。

補足しつつ概略をたどれば、この両極間の差異は、背景美術に対するアプローチのなかに象徴的に見て取れる。
まず事実確認だが、背景美術もペンタブレットによるデジタル作画が主流となって久しいなか、制作部を解散したスタジオジブリ出身の美術スタッフが手がける『バケモノの子』の背景美術は、すべてポスターカラー=アナログで描かれている。
そのうえで(このわかりやすい対比以上に)何より、『バケモノの子』が――そのバケモノの世界・渋天街は、3Dモデリングソフト・SketchUpで事前に、画面の質感まで含めレイアウトが作りこまれた(渋谷の街はロケハン写真をイメージに合わせ色調補正した)のち、美術スタッフによってその細部まで再現されている(がゆえに描かれたままに近い状態の美術が画面に乗るような)――事前の緻密な設計によって構築された作品【注13】であった他方、『響け!ユーフォニアム』はコンポジットの段階で事前の想定以上の処理が加味される(がゆえに――あくまで極論だが――美術やキャラクターはコンポジット・ワークの素材・フッテージとなるような)ポストプロダクション的作品と見なせる、という対比が決定的である【注14】(もちろんここには、劇場アニメとTVシリーズという条件的な差異はあるだろうが、『バケモノの子』もパッケージの発売により場所を問わず鑑賞可能となり、また『響け!ユーフォニアム』が総集編とはいえ『劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部でようこそ~』(2016年)【注15】としてスクリーンで上映されている現在は、この二極化の先を考えはじめるよい契機でもあるはずだ)。

手描き2Dアニメにおける、東映動画・ジブリを継承する〈アニメ〉【注16】と、デジタル化の先端であるコンポジット・ワークが映すアニメ=映像【注17】。

▼注13:詳細は『ユリイカ 総特集*細田守』2015年9月臨時増刊号(青土社)で筆者が担当した記事の一つである、スタジオジブリ出身の美術監督3人(大森崇+高松洋平+西川洋一)へのインタビュー記事「絵描きたちの創世記」を参照されたい。

▼注14:アニメにおける背景美術の表れ方は、もちろん作品やシーンごとのコンセプトによるとはいえ、傾向としては実写をベースに、ピン送りなども交えつつ、バストショット以上はキャラクターにピントを合わせる(背景はボケる)が、ロングショットはディープフォーカス気味でとらえるというコンポジットが基調となっている。それに対して『響け!ユーフォニアム』は(繰り返すが、ことにファンタジックな世界観ではなく、現代の日常世界が舞台に、ロケハン写真=現実の風景をもとにしたリアリスティックな背景美術を用いた青春ものである点はあらためて注目しておきたい)その極端なシャローフォーカス、そして重ねられるフィルター処理やビジュアル・エフェクトによって、絵として描かれた背景美術を贅沢に飛ばすレンズ的効果が全面展開されている。もちろん、いまやどの作品もていどの差こそあれコンポジットによる処理・効果が全面的に導入されているし、もともとアニメは「(絵の)映画」が志向されていたように、背景美術まで含めショットごとに画角や露出を擬似的に意識したうえで、マルチプレーンカメラなどがあるとはいえ基本的には空気遠近法で奥行きが、またときにはレンズフレアやハレーションまで描きこまれてきた。しかし、それがあくまで「(写真・映像のように)描かれた絵」である点で、『響け!ユーフォニアム』的なレンズ効果とのあいだには断絶を見出だせる。

▼注15:そういえば、『劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部でようこそ~』そのものにはまったく触れていなかったが、編集コンセプトと、それに沿った新規録音により、TVシリーズとは別作品のような驚きを与えてくれる一作として――まさに映像圏的に――再構成されている。そのうえ大流行の兆しを見せている特殊上映もあるという。単なる総集編とは思わないでほしい。

▼注16:しかし同時に、細田もまた、「監視カメラ」というモチーフが印象的な演出家である点は言い添えておく必要があるだろう。つまり『バケモノの子』を渋谷(監視カメラの世界)と渋天街(ジブリの世界)との対比から読み解くこともできるだろうし、またそもそも背景美術をめぐっても、写真への態度という点で、宮﨑(駿)と細田のあいだに切断線を引く(別の二極化を考える)こともできる。

▼注17:あくまで余談だが、劇場公開規模のハイエンドな「ジャパニメーション」から、TVアニメにおけるアラ隠しのための底上げへというサイクルも一巡し、TVアニメの表現を積極的に押し上げるほどの成熟を迎えはじめたコンポジット・ワーク――以前書いた表現を再利用すれば「かつての(あくまで極論だが)撮影台のオペレーターという立場から、1990年代以降のデジタル化の発展を背景に、マシンスペックやソフトウェアの高性能化、デジタルツール/教育の普及およびセクションが担う創造性の急増が推し進めた優秀な若手スタッフの流入、演出陣のコンポジットへの理解度の向上といったポジティブフィードバックの末、2010年代にことさら大きな注目を集めるに至ったデジタルコンポジットというセクション」――は今後、『響け!ユーフォニアム』における過剰で荒々しいインパクトを一つの契機に、(むろんコンポジットによる越権的な画づくりへの関与には賛否両論あるだろうが、TVアニメのスケジュール・制作環境と親和性が高いという現状を前に)少なくとも数クールというオーダーではそのシャローフォーカスやオールドレンズ的表現は顕著な広がりを見せることが予想される。現に『響け!ユーフォニアム』と比べればだいぶマイルドだが、2016年冬クール(1月-3月)を代表する人気TVアニメ『この素晴らしい世界に祝福を』は、その本編のクロースアップを代表に(そしてEDにおける3DCGが用いられたロングショット群でのチルトシフトレンズ的表現も含め)そうした流れを感じさせるシーンに満ちていた。

渡邉は「この映像の「ネットワーク化」や「ソーシャル化」の広範な文化的インパクトを真正面から引き受けた、包括的で本格的な文化論の仕事というのは、映像論や映画批評の分野でも、いまだまったくといってよいほど存在していない」(14頁)と述べたが、映画研究者の北野圭介が現代における「映像論的転回」を論じた(そのサブタイトルからもわかるとおり、アナログ/デジタルメディアの連続性と断絶を観察したマノヴィッチの再検討も多い)『映像論序説――〈デジタル/アナログ〉を超えて』(人文書院、2009年)を皮切りに、2010年代において、急速に整備が進みはじめている。だがそれに対して、アニメ論の分野では現在においてもなお、まったくといってよいほど存在していない。

21世紀のアニメ論はまだはじまっていない。この議論もまだ荒い助走に過ぎないものだ。
まだまだ語り足りない。2016年10月から開始されるというTVアニメ『響け!ユーフォニアム』の第二期、そして2016年9月17日公開の山田尚子監督・京都アニメーション制作による劇場アニメ『聲の形』をめぐり、この仮の枠組みをより精緻に語りなおす。