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荻野洋一の『ひそひそ星』評:倫理性を超える「詩」は生まれたか?

2016年05月18日 18:41  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)SION PRODUCTION

 筆者が選考委員をつとめる映画賞の選考委員の仲間と話をしていたとき、園子温の『恋の罪』(2011)を好きだと言ったら、「あんな雑な映画のどこがいいの?」と切り返された。ふだんはテキトーな映画や未熟な映画を好んで推奨するような人だっただけに、5年ほど経過した今も、かえってその言葉が耳に残っている。1990年代にマスコミを賑わせた渋谷・円山町の東電OL殺人事件にインスパイアされた『恋の罪』は、円山町で売春するヒロインの描写方法があまりにも実在の被害者をないがしろにするものだとして、批判を浴びた。あの作品が通俗的な露悪趣味によって貫かれた作品だったのは、たしかである。作者の倫理性が問われたのは、しかたがないように思う。


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 かつてアイドルのシングル盤並みに新作を発表していた三池崇史監督のペースが近年は年間1~2本に落ち着いた現在、代わって園子温が日本で最も多忙な監督の玉座を、三池から奪取したように見える。昨年は『新宿スワン』『ラブ&ピース』『リアル鬼ごっこ』『みんな!エスパーだよ!』の4本もの新作が劇場公開された。ある作品の撮影中は、まだその前の作品の仕上げの最中であり、いっぽうで次回作のロケハンやセット設営が始まっており、次々作の企画が進んでいたりする。園子温自身、「質より量」だと発言している。量を追究していく中で、ゴミの中から光る物が出てくれれば、というのである。


 問題は、三池崇史が年間3~4本ペースで連投していた時代でも、一本一本が粗製濫造とはならず、意外と丁寧な仕上がりを維持していたのに対して、園子温の場合、雑だという評価も時として聞かれる。そうした外野の批評もあながちはずれでもないという作品が少なくないが、玉石混淆の中に人知れず光るものも見え隠れしているというのが、筆者の見解である。


 そして、園子温作品を語る上で問題となるのが、東日本大震災以後の、福島原発付近地域をはじめとする被災地のロケーションである。染谷将太、二階堂ふみ主演の『ヒミズ』(2012)の画面を見ながら、園子温の図々しいナルシシズムは収奪的ではないかと筆者は思った。実際の被災者でもなんでもない映画スターが瓦礫の前で、愁いを帯びた表情をつくって立ち尽くしたりしている様子を、幻想的、終末論的なイメージとしてカメラに収めるとき、映画が震災という悲劇を収奪していると思ったのだ。しかしながら、少なく見積もっても「奇妙な箱庭」を形成してはいると、同時に思ったことも白状しなければならない。


 筆者のそんな危惧と逡巡などお構いなしに、園子温は被災地を自身の格好なロケーション地として選び続けている。今回の『ひそひそ星』も、3.11の傷跡深い福島県の富岡町、南相馬市、浪江町でロケーションされている。放射線汚染の問題ゆえに帰還困難地域となった廃墟の街。人っ子一人いない、時間の止まった街を、ヒロインの神楽坂恵が自転車を走らせる。彼女はアンドロイドで、銀河系を宇宙船で何年もかけて旅しながら、宅配便を人間たちに配達する仕事に従事する。いっぽう人間は、絶滅種として登録されているらしい。


 今回も原発事故の被害地域が、作者のアートイメージを投影するインスタレーションの背景として利用されているかも知れない。しかし、廃墟が喚起するイメージはあまりにも強烈で、それを被写体として選ぶ権利を持ちうるのは、真摯な社会派ドキュメンタリーや報道だけだと決めつけていいのだろうか? 郷土喪失の現場をタルコフスキー的SFメロドラマとして写すことは、本当に映画製作の倫理に反するのだろうか? 非難されても、園子温はその問いを止めようとはしない。


 本作『ひそひそ星』のメイキング映像をふくむ園子温の密着ドキュメンタリー映画『園子温という生きもの』(監督=大島新)が、同時期に公開される。その中で、『ひそひそ星』に出演した原発事故の被災者夫婦が、『希望の星』(2012)で自分たちの故郷をあんなふうに残してくれた監督に感謝している、と述べている。もし園子温の映画が被災地風景のエゴイスティックな収奪でしかないとしたら、こんな言葉が当の被災者から出てくることはないのではないか。そこには感覚のズレがあるように思える。


 この映画の会話はほとんど、タイトル通りひそひそ声で終始している。絶滅に瀕する人間たちは、30デシベル以上の音に耐えられなくなっており、アンドロイドは配達の際にも大きな音を立てぬよう配慮しているのである。このようにすっかり弱りきった人間文明は、まさに私たちの自画像だろう。私たち人間は、日々浮かれ暮らし、カタストロフ(破局)がもうそこまで来ているかもしれないこと、文明の夕暮れが急速に暮れていることに気づかぬふりをしている。園子温が非難を恐れず(いや、日々傷ついているのかも知れないが)、突こうとしているのはそこなのだと思う。


 黒沢清監督『地獄の警備員』(1992)で最初に評価され、『ユリイカ』『月の砂漠』『サッド ヴァケイション』『東京公園』『共喰い』など青山真治監督作品の常連として名高い美術監督の清水剛によって東宝スタジオ内にしつらえられたセットが、非常にすばらしい。格子状の障子のような布壁が廊下の両側に長く続き、人々がかつて享受していた家族的幸福のイメージが、逆光で投影される。しかし、それは布壁に映る影絵でしかない。30デシベル以下のほとんど無音で展開される幸福な影絵と影絵のあいだを、宅配便の段ボールを抱えた神楽坂恵のアンドロイドが緩慢に歩いていく。人類の時間は、もう終わろうとしている。アンドロイドはそこに悲しみを抱くが、彼女にはどうすることもできない。宅配便を届けること以外には。


 彼女は、ある影絵の前で立ち止まり、障子の向こう側から手が伸びてきて、彼女から荷物を受け取る。しかし、荷物を受け取った家族は何を受け取ったのか、あきらかに悲嘆に暮れる様子が、無音の影絵のパントマイムで理解できる。アンドロイドは、どうすることもできない。この無力感を、ひそひそとしゃべる登場人物たちと共に、私たち観客は噛みしめることになる。その無力感の中に、もし詩が現れたとしたら? その詩を、まやかしだ、作者のエゴだと非難するだけではない受け取り方も、ひょっとするとあるのではないかと、『ひそひそ星』を見ながらあらためて考えた。(荻野洋一)