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シェイクスピア作品は“娯楽映画”の原点ーー現代的アプローチで描く『マクベス』の特徴

2016年05月18日 11:21  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)STUDIOCANAL S.A / CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION 2015

 1999年、オーストラリアの田舎町で11もの損壊した変死体が発見された。犯行グループはやがて逮捕されたが、捕まった首謀者の供述によると、彼は小児性愛者や同性愛者を深く憎悪しており、そのような人々を次々に監禁・拷問し殺害したのだという。被害者のなかに10代の少年も複数含まれる、この「オーストラリア史上最悪の連続殺人」が、今回考察する映画『マクベス』に繋がっていると言ったら、意外に思うだろうか。


参考:マイケル・ファスベンダーが暴君を怪演する『マクベス』、その狂気の裏側にあるものとは?


 この事件は、『スノータウン』というタイトルで、本作『マクベス』のジャスティン・カーゼル監督によって映画化されている。犯人の内面や動機をセリフなどで説明せず、田舎町の閉鎖性や犯人の生活を丹念に描き、また拷問や殺害の様子を克明に再現することによって、観客に異常な世界を体感させる、ストイックかつリアリスティックな手法は高く評価され、カンヌ国際映画祭で特別審査員賞を受賞した。連続殺人の首謀者は、田舎町のある少年にも殺人を手伝わせようとする。はじめて殺害された遺体を目の当たりにした少年が、思わず戸外へ走り出し嘔吐してしまうシーンは印象的だ。


 最初の長編作である低予算映画『スノータウン』が注目された、商業大作監督としてはまだ未知数のカーゼル監督に、英国の大劇作家ウィリアム・シェイクスピアによる悲劇の代表的作品「マクベス」の実写映画という大作企画が舞い込んだのは意外だ。将軍マクベスが、魔女の予言に従って主君を暗殺し王になるという、この有名な演劇は、舞台劇の定番であることはもちろん、今までにオーソン・ウェルズ監督やロマン・ポランスキー監督、また黒澤明監督による日本の時代劇への大胆な翻案など、過去に数々の名匠によって映画化されてきた。大物監督でも二の足を踏むような題材にカーゼル監督が抜擢された理由は、彼がオーストラリアの演劇界でキャリアを積んでいたこと、そして彼の現代的な感性が、古典劇に新しい風を吹き込むことを期待されてのことだろう。


 そうして完成した、本作『マクベス』は、マイケル・ファスベンダー、マリオン・コティヤールをはじめとする豪華キャストの熱演によって、風格を感じる悲劇大作となっていた。とくに作品の舞台となるスコットランドを中心とした寂寥感の漂うロケーションが素晴らしい。だが目論見どおり、物語を描く上でのアプローチは非常に独特で現代的なものとなっている。注目すべきは、原作に忠実なセリフの合間に描かれる「言葉のない」部分にこそある。例えば、前述した『スノータウン』での殺人現場で嘔吐する場面とそっくり似た箇所が、本作の王殺しの現場のシーンでも加えられているのだ。


 「マクベス」で描かれる時代は、拷問刑や魔女狩りなどが横行する中世である。マクベスの王殺しは罪に違いないが、文化的背景を勘案すると、奇異に思うほどの凶行ではない。だが本作では非常に繊細に、城にこもり精神をすり減らしていくマクベスを、現在の刑法で死刑を宣告された囚人のように描き、また犯行に関わる間接的な動機として、自分の子供を亡くしているという描写が挿入されるなど、実際の殺人事件を映画化した『スノータウン』とほぼ同じアプローチで、現代的な犯罪映画として精神分析的にシェイクスピア作品を解釈しているのだ。


 マクベスに予言を与える魔女や、犯行に加担する妻を、かつてのように「男を惑わせる悪女」として強調されていないというのも、また現代的だ。男を女が堕落させるという物語は、シェイクスピアのはるか以前、英国文学の源流である叙事詩「ベオウルフ」から続くひとつの典型である。女性を男に付属する存在として描かず、マクベス夫人を、マクベスと同等に苦悩させ、彼女の精神の行方をはっきりと描き決着させることで、このような古典的呪縛から「マクベス」という題材を解放するという試みも、本作の特徴である。


 それにしても驚かされるのは、このような現代的解釈までをも許してしまうシェイクスピア作品の柔軟性である。彼の演劇が時代を超えて愛され続けている理由は、おそらく血みどろの暴力、性愛、権力欲など、人間の根源的な衝動を抽象化して描いているからだろう。シェイクスピア演劇を独自の解釈で舞台演出し、本場ロンドン公演を成功させた、故・蜷川幸雄は、「シェイクスピア演劇は教養ではなく大衆娯楽だ」と述べていた。このようなシェイクスピア作品の本質的魅力は、現代の商業的な映画作品と全く重なるものである。


 かつてフランスで見世物として始まった映画は、以来、舞台や文学など既存の文化を取り入れながら、モンタージュなど映画独自の演出テクニックを開発し、目覚ましく進化・発展してきた。その過程で「純粋映画」や「表現主義映画」など、様々な方向で前衛的実験が行われている。だが、そのなかで大衆の心をつかみ、最も商業的な成功を収めた要素が、「映画の演劇的側面」である。黎明期のハリウッドは、ヨーロッパから舞台演出経験のある監督を何人も呼び寄せ、演劇としての大衆的な映画作品で観客を集めた。無声映画の時代が終わり、役者の音声が映画に追加されると、映像表現の方向性はさらに演劇的なものに傾いていったといえる。演技者の背後に見える風景は、舞台の書き割りのような記号的意味合いが与えられ、スクリーンに映る複雑な映像を、知覚的に明瞭なものにしている。極論をいえば、現在「映画」だと思われているものの多くは、本質的には「演劇」であるともいえるだろう。そう考えていくと、ハリウッド映画などが主導する現在の娯楽映画のルーツは英語圏の大衆演劇にあり、とりわけ代表的な存在であるシェイクスピア演劇に原点のひとつがあるということになる。


 シェイクスピア演劇を現代的な視点で映画化するという行為は、劇映画の原点にある本能的な快楽や興味へと、我々観客を結び付け直す試みである。現代の映画を考えるとき、映画史全体のスケールのなかに作品を位置づけることで、一定の理解が深まるが、映画史以前のさらに大きな枠組みを設定することで、作り手も受け手も、より深く明晰に映画に立ち向かえるのではないだろうか。そのために、舞台や映画、書籍によってシェイクスピアの諸作に親しむことは、誰にとっても有意義であるだろう。


 ちなみに、本作のジャスティン・カーゼル監督の次作は、時代劇要素のある人気TVゲーム「アサシン クリード」の映画化作品である。本作からマイケル・ファスベンダー、マリオン・コティヤールがそのまま出演し、三作目にして制作費100億円を超える超大作を手がけるという、華々しい商業作家へと一気に転身を遂げたカーゼル監督の手腕を、本作『マクベス』でもじっくりと確認してほしい。(小野寺系(k.onodera))