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クドカンはゆとり世代の“童貞”をどう捉えている? 『ゆとりですがなにか』第四話の複雑さ

2016年05月15日 19:11  リアルサウンド

リアルサウンド

『ゆとりですがなにか』公式サイト

 山路一豊(松坂桃李)の小学校に乗り込んできたのは、佐倉悦子(吉岡里帆)の彼氏・小暮静磨(北村匠海・DISH//)だった。悦子のスマホを盗み見て、山路と悦子が付き合っていると疑った静磨は、山路に詰め寄る。山路が童貞ということから、悦子に手を出していないとわかり、その場は何とか収まるが、山路と悦子の間には深い溝ができてしまう。一方、坂間正和(岡田将生)が店長として出向している「鳥の民」に、山岸ひろむ(太賀)が友人を連れてやってくる。横柄な振る舞いをして店員を怒らせた山岸は、会社で注意を受けた翌日、取引先の野上(でんでん)と共に再び店に訪問し坂間に謝る。「俺、あいつ(山岸)のこと認めたから任せとけ」という野上の言葉を聞いた坂間は、山岸が辞表を出した日に自殺した田之口の家に山岸を連れて行く。一方、道下まりぶ(柳楽優弥)のことが気になっていた坂間の妹・ゆとり(島崎遥香・AKB48)は、まりぶが店長を務めるガールズバーの面接を受ける。自分を変えたいというゆとりの言葉は理解できないまりぶだったが、外見がかわいかったために彼女を雇うことに……。  


参考:『ゆとりですがなにか』第三話で見えてきた、クドカンドラマのルール


 静磨が小学校に殴りこんできてからの怒涛の展開が圧倒的で一気に引き込まれた『ゆとりですがなにか』(日本テレビ系)第四話。静磨の「うっせぇ! 童貞は黙ってろ!」という声が学校中に流れて、山路が童貞であることが生徒たちに知れ渡る展開は、クドカンドラマでは定番とも言える童貞ネタを用いた笑いだが、我を忘れて怒り狂ってるのが、彼氏の静磨で、童貞の山路は落ち着いて理路整然と対応しているという対比は面白い。普通なら、山路が童貞であることを、精神的な未熟さの理由として描くのだろうが、そこは分けて考えているのが宮藤らしい距離感だと思う。逆に言うと、女性との性体験を経て、成熟した大人になるという男の子の成長物語をあまり信じてないのだろう。


 恋愛が絡むと男はどんどん冷静さを失っていくというのが『マンハッタンラブストーリー』や『うぬぼれ刑事』(ともにTBS系)でも描かれた恋愛観だ。だからクドカンが描く女性はエキセントリックで何を考えているのかわからない、男を惑わす理解できない他者として描かれる。悦子とゆとりの描写はまさにそれで、彼女たちの場合はゆとり世代だからというよりは、10代後半から20代前半の女性が持つ自信の無さからくる内面の不安定さが、やや誇張して描かれている。


 山路と悦子の恋の顛末だけでなく、今回は男女のエピソードが多い。


 前回驚いたのは、ゆとりがまりぶに好意を抱いたことだ。真面目に就職活動に取り組んでいることで精神的に追い詰められているゆとりにとって、アウトローでありながら「就活するために大学入ったみてぇだな」といった本質的なことをズバズバと言うまりぶは、自分とは正反対であるが故に惹かれる存在なのかもしれない。 ガールズバーで働くゆとりは、ピンクのセーラー服を着て接客していたが、そんなゆとりを演じるのがAKB48の島崎遥香だというのは興味深い。


 かわいいことが当たり前の世界で、自分だけの個性が要求されて、厳しい人気競争にさらされるアイドルの世界と、リクルートスーツを着て礼儀作法を厳しくジャッジされながら、同時に個性や才能まで求められる就活生たちの厳しい現実は、どうしても重なって見える。ゆとりの言葉にヒリヒリするような切迫感を感じるのは、島崎遥香が身を置く厳しいアイドル業界で生きる姿とシンクロするからだろう。一方、悦子とゆとりの息苦しさに対して、大人の安定感を見せるのが坂間の恋人にしてエリアマネージャーの宮下茜(安藤サクラ)だ。山路との間にも男女の垣根を越えた友情が芽生え、坂間が複雑な感情を見せているのが面白い。まりぶは坂間たちとは「友達じゃない」と言ったが、山路と茜の関係も言葉では簡単には定義できない。ゆとり世代やモンペ(モンスターペアレンツ)といった記号的な言葉で物事が単純化して括られてしまうことに対して抗いたいという気持ちが、複雑な人間関係に現れている。


 一方、相変わらず、心が読めないのが山岸だ。話の筋だけ追うならば「鳥の民」で、まりぶに怒鳴られた後、坂間といっしょに田之口の家を訪ねて、遺影に手を合わせたことで、心を入れ替えたように見える。その時の山岸の表情の撮り方が絶妙で、心を入れ変えたようにも見えるし、まったく変わってないようにも見える。ここまで説教が成立しない山岸の姿を描いてきたことを思うと、今回も空振りなのかもしれないが、こればっかりは次回にならないとわからない。


 山岸の姿と並行して描かれる授業参観で発表する小学生たちの演劇が「オズの魔法使い」というのは、悦子の教育実習の終わりを、不思議な国での冒険を追えて、故郷へと帰還するドロシーの姿に重ね合わせたうまい見せ方だ。同時に、ドロシーを取り囲む、脳がないカカシ、心がないブリキの木こり、勇気がないライオンたちの姿は、ゆとり世代という欠陥品のレッテルを貼られながらも、何とか社会に出て、自分の居場所を見つけようとする坂間や山岸たちの姿と重なって見える。(成馬零一)