トップへ

松田龍平 × 前田敦子、“普通の物語”を成立させる演技ポテンシャル 『モヒカン故郷に帰る』を観る

2016年05月13日 17:51  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016「モヒカン故郷に帰る」製作委員会

 “これだけの素材で成立してしまうのか?”という素直な驚き。でも、一方でちょっと肩透かし。映画ファンならご存知、『南極料理人』『横道世之介』『キツツキと雨』の沖田修一監督の最新作となる『モヒカン故郷に帰る』は、そんな相反する複雑な感情が交錯してしまう。


参考:松田龍平はいつから“ゆるキャラ俳優”に!? 不安定かつユニークな特性が培われた背景


 まず、素直な驚きについて触れると演出面。これこそ沖田マジックといっていいのかもしれないが今回もその手腕は健在だ。これまでもその独特の演出方が高い評価を得てきた沖田監督だが、今回の「モヒカン故郷に帰る」はとりわけキャストで魅せる作品になっている。まあ、芸達者なキャストが揃っているので、監督と役者の力関係はフィフティー・フィフティーなのかもしれない。ただ、沖田監督が、その中でも役者にポテンシャルをいい形で発揮させる場を提供したことは間違いない。


 柄本明ともたいまさこというベテランはもう別格で置いておいて、見るべきは松田龍平と前田敦子の二人。ここで見せる彼らの姿は一見すると地味ながら、演技者としての現在の二人の才を十二分に感じられるものになっている。


 主演であるモヒカンこと永吉役の松田龍平は、“父・松田優作”で語られることもなくなるぐらいオリジナルな役者に成長していることは多くが感じていることだろう。「あまちゃん」の水口役しかり、決して役に憑依するような役者ではないが、彼が演じるとどこか世間離れしているキャラクターも、俄然、現実味を帯びた生きた人物になる。その領域に彼の演技は入ってきたような気がする。


 しかも、どちらかというと舞台のような体全体で訴えかけて、感情の抑揚をセリフにわかりやすく乗せる若い俳優が増えている昨今、彼はむしろ逆を行く。最小限の言葉と最小限の身体の動きによる演技で見せきることができる役者とでも言おうか。決して目に見える形で感情を爆発させる熱演タイプではない。そういった装飾や色付けは、むしろ排除している。いわばわ余計なものを極力捨て、つけ足さない。自分という人間の体そのものが最大の武器。その身ひとつで勝負を挑んでいるようなところがある。その役に対して変に強調もしなければ誇張することもない。なりきるというよりなすがまま。いたって自分という人間のあるがままで立ちながら、その役に不思議と力をもたらす。そんな魅力が今の松田にはある。いま、こういう演技で周りを納得させられる俳優はあまり見当たらない。稀有な存在といっていいだろう。


 その演技者としての才に触れられるのが、永吉が父の教え子である合奏部の少年を車で送るシーンだ。ここで彼は車を運転しながら“親って死ぬんだよ”というセリフを発するのだが、この説得力はすごい。身構えてみると、このシチュエーションでのこのセリフはあまりに唐突でシーンとして成立させるのは難しい。通常だったら、ほとんど付き合いのない少年に、身内のちょっとした不幸を打ち明けるのは気がひけるもの。そのぎこちなさはこのシーンで良くでているのだが、このセリフが出てくるタイミングがほんとうに予期できないところで出てくる。なんとなくその場が温まっていないところで出て来る感じなのだ。ところが、松田の演技はそう思わせない。きわめて自然で唐突な感じがしない。それはこの男なら、ここでいいそうと納得させられてしまうから。しかも、その言葉は、少年に言っているようであって、自分の心にも投げかけていて、もっといえば、我々、観客にも投げかけているような届け方になっている。飄々とした表情で、さらっと言っているにも関わらず、この一言は胸にぐさりと突き刺さるに違いない。そこに松田龍平という俳優の現段階の凄みと魅力が詰まっている。


 また、相手役の前田敦子の女優としてのポテンシャルにも驚かされるシーンがある。それは映画の前半部分。前田演じる由佳が永吉とともに彼の実家につき、そこにもたいまさこ演じる永吉の母が、酔っぱらった柄本明演じる永吉の父を抱えて家の裏口から入り、鉢合わせするシーンだ。


 このシーン、永吉は7年ぶりの事前通告なしの帰郷。当然、“なんでお前、ここにいるんだ”とてんやわんやの親子同士の軽い言い争いが発生する。自分に身を置き換えればわかることだが、そんな状態の中に初対面の部外者がのこのこ入っていけるわけがない。ところがである。そこに前田演じる由佳は見事に自然に入り込み、シーンを成立させてみせる。ちょっとここに入るような余地はない親子の会話に、絶妙な間合いで前田は割って入る。まさに、ここしかないというタイミングで瞬時に。しかも、ちゃっかり自己紹介も済ませてしまう。もちろん、柄本、もたいといった芸達者な役者たちがきちんとしたお膳立てをしていることもあるのだろう。が、このシーンにああいう形で入っていけるのは前田敦子という女優の感性の鋭さでしかないような気がする。名だたる監督たちが彼女と組み始めていてその理由は様々だろうが、なにか成立しないことも成立させてしまうのではなかろうかという可能性を彼女に見出している監督は意外に多い気がする。


 ただ、そういう役者と演出への素直な驚きがある一方で、ストーリーに関しては“ちょっと肩透かし”という印象を否めない。ご存知のように本作は沖田監督のオリジナル脚本。今最も新作が期待される映画監督のひとりの新作で、原作もの映画全盛といっていい、現在の日本映画界ではとんとみないオリジナル脚本となれば、否応なく期待が高まるというもので、あらぬ期待を本作にはかけすぎたのかもしれない。ただ、その期待値を抜いてみたとしても、ちょっとどこか物足りない。


 その“肩透かし”をひと言でいうなら、ストーリーがよく言えば普遍的なのだが、逆をいえば、ありがち過ぎといわざるえないのだ。たとえば、それは主要登場人物のキャラクター設定にも出ていて、主人公の田村永吉は、パンクロッカー=モヒカン=父親と対立=田舎を飛び出し上京で、その父親の田村治は、広島県人=矢沢永吉レジェンド=息子にその名を命名=ロック命。おおよその人がたいていそのことをイメージしたときに、思い浮かぶ代名詞で人物たちのキャラクター付けは固められている。ストーリーラインも、モヒカンの主人公がバンド活動で行き詰る→同時に恋人に妊娠発覚→とりあえず故郷へ→すると父親が末期がんと判明→仲違いは水に流して父の願いを叶えるべく奔走→死に際に、冥途の土産のごとく結婚式でハッピーエンディング。なにかこちらの想像の範囲を超えたことが起きるわけではない。あまりにストレートすぎやしないかというか。これまで数多くのテレビドラマや映画で使い古されているといっていい設定や展開、題材に終始しすぎていないかという気がしてならない。


 何も奇をてらってほしいわけではない。ことのほかドラマチックにしてほしいわけでもない。振り返ると、これまでの沖田監督作品もとりたてて特別な物語ではないし、個性的なキャラクターが登場しているわけでもない。ただ、たとえば『キツツキと雨』であれば新人の映画監督と中年の木こりとのいわば未知との遭遇ともいうべき出会い、『横道世之介』であったら自分の周りにもいたような気がするふと思い出される人物といった、なにかこちらの記憶をよび覚ますような、受け手にとっての気づきや新鮮な発見があった。でも、今回に関しては、その点に関しては弱い。親子のよくきくいい話までで。そこが惜しいと思うのだが…。


 となると“これだけの素材で成立してしまうのか?”という素直な驚きとちょっとした肩透かし、という複雑な思いに駆られる。果たして、満足していいのか? いやいや、日本映画界の期待を背負っている沖田監督作品にはもっと高望みしてもいいのではないだろうか? そんな風に考えるのは自分だけであろうか?(水上賢治)