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宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ

2016年05月07日 20:31  リアルサウンド

リアルサウンド

『FAKE』(c)2016「Fake」製作委員会

■可能性の説話論/不可能性の説話論


 この1年ほど、映画批評の連載でテーマにしてきたことがあります。岩井俊二監督最新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』(3月公開)のパンフレットにも詳述しましたが、近年の映画において、「社会はクソである」というモチーフが前面に出てきています。


参考:宮台真司の『恋人たち』評:〈世界〉を触知することで、主人公と観客が救われる傑作


 「政治が悪いからクソだ」とか「社会的に恵まれない人がこんなにいるからクソだ」ということではなく、「そもそも社会はすべてクソなのだ」と。国籍も年代も問わず、映画監督がそのモチーフをどう表現するのか、ということがポイントになっています。


 別の言い方をしましょう。映画や小説などの表現には二つの対照的なフレームがあります。第一は、本来は社会も愛も完全であり得るのに、何かが邪魔をしているので不完全になっているとするフレーム。不全をもたらす障害や悪の除去が説話論的な焦点になります。


 第二は、本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて、社会や愛が可能だと勘違いさせられているとするフレーム。そこでは、ベタに可能性を信じて悲劇に見舞われる存在と、不可能性を知りつつあたかも可能性を疑わないかの如く<なりすます>存在が登場します。


 今世紀に入る少し前、グローバル化の進展による中間層没落とソーシャルキャピタル空洞化が明白になった頃から、映画や小説において、前者──可能性と障害の説話論──から、後者──不可能性と<なりすまし>の説話論──への、意味論のシフトが生じました。


■エジプト的な思考/ギリシャ的な思考


 後者を僕は<ギリシャ的なものの回帰>と呼びます。連載でも触れました。<社会>には裏切りなど数多の理不尽あり、<世界>には罪なき者の惨殺や災害死など不条理が満ちています。それはいったいなぜなのか。どうすれば良いのか。二つの考え方かあります。


 一つはソクラテス(を記録したプラトン)が言う<エジプト的>な思考。理不尽や不条理に出会うのは、ヒトが生贄を値切ったり戒律(命令)を破ったりして、神が怒ったから、あるいは、神が罰を与えようと思ったから、ヒトを悲劇が襲うのだ、とするものです。


 これを意識的に退けるのが、もう一つの<ギリシャ的>な思考。理不尽や不条理を神の意志に帰属させて神に拝跪するのは<依存>的な在り方であり、生贄増量や戒律遵守を神に持ちかけるのは神を操縦したがるエゴセントリックな瀆神行為だ、とするものです。


 そうではなく、<世界>はそもそもデタラメである。これは僕が書いた映画論のタイトルでもあるけれど、理不尽や不条理を特異点──サイファ(暗号)──に帰属させることなく、逆説と不可能性に満ちた<世界>にそのまま心身を開いて突き進むことが奨励されます。


 例えば紀元前5世紀のソフォクレスは最大のギリシャ悲劇作家として知られますが、神託に予言された悲劇──「オイディプス王」で言えば母との姦淫──を回避しようと渾身の努力を重ねることで却って悲劇が呼び寄せられるという<世界>のデタラメを描きます。


 歴史を言えば、紀元前12世紀からの「暗黒の四百年」──カスピ海周辺から最初に移動してきたアカイヤ人と後続したドーリア人との血みどろの闘争──を「忘れない」ために、(1)ギリシャ神話、(2)ギリシャ叙事詩、(3)ギリシャ悲劇が、この順で書き留められました。


 「忘れない」とは何を忘れないのか。<世界>はそもそもデタラメで、<社会>の秩序は一瞬の夢の如き奇蹟なのだ、という感覚を忘れないこと。これを忘れた者は、理不尽や不条理、何よりも死を恐れるがゆえに、戦争で使えず、ポリスを滅ぼすだろうという訳です。


 逆に、理不尽や不条理を特異点(神)に帰属させる気休めを退け、ひたすら驀進する身体こそが、「英雄的」だと奨励されました。「損得勘定」に勤しむ保身が神への<依存>をもたらすとされ、損得勘定を超えて「内から湧く力」に従う在り方が「立派さ」だとされたのです。


■<贈与>的な主意主義/<交換>的な主知主義


 <エジプト的>思考と<ギリシャ的>の対比はキリスト教神学にも持ち込まれています。例えばイエスは、神を動かそうと戒律遵守を持ち出す思考を、生贄で神を釣るのと同じような<神強制>(ウェーバー用語)だと考えました。今日ではギリシャの影響だとされます。


 19世紀に活躍したプロテスタント神学者シュライエルマッハは、<エジプト的>思考を「主知主義」intectualism、<ギリシャ的>思考を「主意主義」voluntarismと呼びます。彼がこれを持ち出すのは弁神論theodecyの文脈です。神の存在を弁護する思考を言います。


 神が全能であるなら、なぜ<世界>に悪があるのか。悪には理不尽や不条理も含められます。悪があるのは、神の不完全、つまり全能の神の不在をこそ、意味するのではないか。こうした疑惑から全能の神の存在を完璧に擁護することこそが、弁神論の目的になります。


 主知主義者はこう擁護します。ヒトは相対者。神は絶対者。相対者には絶対者の計画は伺い知れない。ヒトからは悪に見えても、全ては神の計画の内。まさにヘーゲル初期作品『精神現象学』の図式。世界の最終地点から振り返れば、全ての悲劇に意味が与えられる。


 こうした主流の議論に主意主義者は抗います。悪が神の計画という合理性の内にあると想定するのは瀆神行為。神は全能なのだから、合理的なことも非合理なことも端的に意志できる。神は端的に何でも意志できるのだから、世界に悪やデタラメが満ちて当たり前⋯。


 ならば神を信じることにどんな意味があるか。カトリックの大改革である第2バチカン公会議の精神を継承せんとした前教皇ベネディクト16世は、「神よ。私が皆を裏切らないようにどうか見ていて下さい。但し、私はあなたのものです」が祈りの本質だとしました。


 前段は、古くからある「見る神」の表象──亡き父が見ている──で、見られることで内から力が湧く(!)事実に関連します。後段は、皆の為に頑張るのは永遠の命を得るための取引(<交換>)じゃないから自分はどうなっても構わないという<贈与>に関連します。


■悪を断っても社会も愛も回復しない


 ローマの教父哲学(アウグスティヌスなど)は「主意主義」、中世のスコラ哲学(アキナスなど)は「主知主義」として知られますが、20世紀後半の哲学に生じた「主意主義化」(<ギリシャ的>に戻ろうとする現代哲学化)にシンクロする事態がキリスト教にも生じたのです。


 話を戻すと、<世界>はそもそもデタラメで、秩序ある社会や愛ある関係は一瞬の夢の如き奇蹟だ、とする<ギリシャ的>説話論と、本来は秩序ある社会や愛の関係が続くはずなのに、愚かな失敗ゆえに悲劇がもたらされる、とする<エジプト的>な説話論があります。
 
 ことほどさように、<ギリシャ的>説話論を<不可能性の思考>、<エジプト的>説話論を<可能性の思考>とパラフレーズできます。別のパラフレーズをすれば、前者は<贈与>的=<自立>的=立派で、後者は<交換>的=<依存>的=ヘタレということになります。


 繰り返すと、昨今の名作は<贈与>の過剰をモチーフとする<不可能性の思考>に従うものです。他方<交換>のバランスを持ち出すことで<可能性の思考>に従う作品はクズばかり。社会や愛がうまく行かないのは、単なるアンバランスのせいではないからです。


 こうも言えます。アンバランスをもたらす悪の根源を絶てば社会や愛が回復すると考える勧善懲悪モチーフ──それに従う表現が「プロパガンダ」──を前景化する表現はクズだ、なぜなら、人々は既に、社会や愛がそもそも不可能である事実をよく知っているからだと。


 今回、社会の不可能性と、愛の不可能性に分けて、前者の例として森達也監督『FAKE』、マシュー・ハイネマン監督『カルテル・ランド』を、後者の例としてアンドリュー・ヘイ監督『さざなみ』、ギャスパー・ノエ監督『LOVE【3D】』を取り上げましょう。


■当初与えられる勧善懲悪のカタルシス


 森達也監督が佐村河内守に迫ったドキュメンタリー『FAKE』(6月4日公開)は、本当に素晴らしい作品でした。いくつも優れた点があり、さまざまな面から論じることができます。手はじめに、僕がこの作品に寄せたパンフレット用のコメントを紹介しましょう。


~~~
観客は最初、マスコミが作り上げたリアリティがガラガラ音を立てて崩れるのを感じる。
だから当初は「マスコミ=悪/森達也=善」という森達也らしからぬ二元図式を見出そう。


だがしかし、「我々が期待する真実」が「コレだ」と指し示される瞬間は最後まで訪れない。
むしろ我々は迷宮へと誘われ、収拾しようのない混沌の只中に放置されることになろう。


本作に於いてゴーストライター事件は、寓意を指し示すメタファー以上のものではない。
問題は、その寓意──「世界は確かにそうなっている」という納得──が指し示す内容だ。


観客はそこに「社会は一つの(悪)夢のようなものだ」という森達也特有の感覚を見出そう。
その(悪)夢は、善悪二元論や真偽二元論や美醜二元論によって言語的に構成されている。


森達也はこの言語システムの作動クロックに同期できず、いつも反応が遅れる未熟児だ。
だから社会批判の能動性より、社会という夢にシンクロできない受動性が際立つだろう。


だがその結果「知らないうちに自分たちはプログラムされている」との感覚がせせり出す。
本能が未発達なまま生誕するヒトは、実は誰もが外傷的にプログラミングされる他ない。


本作は、我々が社会を生き始めるに際して受け取った外傷体験を強制的に思い出させる。
そう、社会は間違いなく、善悪や真偽や美醜の二元論で言語的に構成された悪夢なのだ。
~~~


 7つのパラグラフを順番に説明します。最初のパラグラフ。本作は、起承転結の「承」までは、佐村河内守側のリアリティに寄り添うことで、彼を血祭りに揚げたマスコミやライターが逆に血祭りを揚げます。だから観客は勧善懲悪的なカタルシスを体験して喜びます。


 しかし森監督のドキュメンタリーを見てきた観客は、善悪の二元図式を前提とした悪者叩き──特に或るテレビ局が叩かれている訳ですが──は「らしくない」「おかしいな」と思い始めます。「これでは既知の目標に向けて人を鼓舞するプロパガンダじゃないか」と。


■途中で形成が逆転して観客が宙吊りになる


 そこに起承転結の「転」が訪れます。奇妙なことに「転」をもたらすのは外国人の記者たちです。自分の原案を新垣隆氏が技術的な洗練を加えて譜面化しただけだという佐村河内氏に対し、ならば現に音楽的な原案を出した(出せる)という証拠を見せろと言うのです。


 自分が作った音源が多数あるとドキュメンタリーを見る前から「言葉」では聴いて来た観客は膝を打ちます。そう。なぜこの質問がいまだかつて日本人の取材者らから為されなかったのか、日本人のジャーナリストやマスコミ人の無能さは聞きしに勝るではないかと。


 まさに「形成逆転」です。森の導きによって佐村河内氏側に連れて行かれ、佐村河内氏に寄り添っていた観客が、新垣氏側=マスコミ側に再び連れ戻されます。観客は思います。森達也もまた、大半の日本人ジャーナリストやマスコミ人と大差なく、無能ではないかと。


 観客は苛立つ。一体どちらに寄り添えば良いのだ? どちらが真実なのか? そして気付きます。そう。それこそが作品の構成だ。こうやって観客をサスペンディングな(=宙吊り的)状態にした上で、溜飲を下げるカタルシスに満ちた大団円で、真実が明かされるのだと。


 ところが、そうならないのです。この映画の試写を見る条件「ラスト12分を誰にも話さないで下さい」の枠内で言いますと、観客が「佐村河内氏には無理だろう」と思っていた営みを、森監督の提案で佐村河内氏が大々的に展開し、その姿を映画が見事に記録するのです。


 それを見た観客は狐に摘まれ呆然とします。疑問1:待ってくれ、だとするなら、佐村河内氏は、なぜもっと早く──例えば新垣氏が最初の会見をした直後から──この姿を人に見せなかったのか。疑問2:待ってくれ、だとするなら、なぜ新垣氏が必要だったのか。


 「待ってくれ」と座り直した瞬間、暗転してエンドロール! 《我々は迷宮へと誘われ、収拾しようのない混沌の只中に放置されることにな》ります。どの仮説を採用しても説明がつかない事実が残ります。否、「BL仮説」だけが矛盾を解決できそうだと一瞬思います。


 ところが映画は当初から、佐村河内氏と奥様の愛に溢れた信頼関係を描き、森監督はお二人のそうした姿を撮ることがドキュメンタリーを制作する動機になっているとまで語る。そこには普通の夫婦にはあり得ない絆が描かれます。何とも意地悪な仮説潰しなのですね。


■オーソン・ウェルズ『フェイク』との違い


 映画好きの観客は、別の監督が撮影したドキュメンタリー素材に、ラスト数十分わざとフェイク・ドキュメンタリーを混ぜ込んだ(と自己言及する)オーソン・ウェルズ監督の同名映画『フェイク』(1974年)を思い出します。むろん森監督はそれを踏まえています。


 ラスト12分にフェイクを混ぜたと思えば全てに解決がつくな、と思った瞬間が僕にもあります。でもこの仮説は困難です。確かに、森監督の提案で佐村河内氏が或る営みを展開しました。でも、存在しない能力に関わる詐称の教唆なら、トンデモナイことになります。


 自己言及の在不在が、そこでは決定的に機能します。但し、自己言及の不在が、森監督の表現者としての生命を終わらせることよりも、むしろ、それがドキュメンタリー作品の主題自体を意味論的に成立不可能にしてしまう、という必然的問題の方が、遙かに重要です。


 なぜなら、ここでの森の主題は「全てのドキュメンタリーはヤラセだ」という往年の主張ではないからです。演出と詐称教唆の境界線が原理的に截然としがたいことは森にとって今やデフォルトですが、この作品では主体(表現者と観客)ではなく、対象が主題なのです。


 そのラカン的主題が第3パラグラフに関係します。ラカンに従えば対象は単に恣意的に構成されるのではない。主体に与えられる対象はすべて必然的理由で必要な機能を果たします。必然的理由は、<世界>が根源的未規定性と共にあらざるを得ない事実に関係します。


 <世界>の根源的未規定性をラカンは「現実界」と呼びます。彼は、飽くまで例として、ハイゼンベルグの不確定性原理や、ゲーデルの不完全性定理や、自己言及のパラドックスを挙げます。これらは必然的=数学的なもので、これに反する<世界>は存在できません。


 ちなみに、こうした<世界>の根源的未規定性(現実界)が、言語(象徴界)を用いたヒトの<世界体験>(想像界)を方向づけます。<世界>を<世界体験>へと変換する函数が、言語で形成された意味システムとしての、パーソンシステムであり社会システムです。


 社会システム理論では、<世界>の根源的未規定性を、受容可能なものへと馴致する装置が宗教。宗教は<世界>の根源的未規定性が露呈しやすい特異点にサイファを当てがいます。この宗教の項に「自我」を、サイファの項に「症状」を代入すれば、ラカン図式そのもの。


 サイファ概念については拙著『サイファ 覚醒せよ』(2000年)に詳述しました。本作で森監督が示すのは、<世界>は確かにそうなっているという寓意です。「ドキュメンタリーは全てヤラセだ」「ドキュメンタリーは嘘をつく」みたいな小さな話では全くありません。


■システムではなく<世界>の問題だ


 ならば何なのか。それが第4パラグラフです。《観客はそこに「社会は一つの(悪)夢のようなものだ」という森達也特有の感覚を見出そう。その(悪)夢は、善悪二元論や真偽二元論や美醜二元論によって言語的に構成されている》。何が言いたいのかお分かりですね。


 2種のフレームを再確認します。本来は社会も愛も完全たり得るのに、何かが邪魔をしているので不完全になっているとする<可能性の説話論>。本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて社会や愛が可能だと勘違いさせられているとする<不可能性の説話論>。


 ここで質問。森達也監督『FAKE』はどちらか。言うまでもありません。言語によって構成された社会システム(とパーソンシステム)を生きる我々は、真・善・美に関する二元図式によって自らを構成されているがゆえに、必然的にデタラメを免れられないのです。


 本作だけじゃない。森達也監督のTVドキュメンタリー『職業欄はエスパー』(1998年、NONFIX)が本作と同構造です。この作品をリアルタイムで見たとき、<世界>はそもそもデタラメである、とする初期ギリシャ的=ラカン的=ルーマン的な寓意を感得しました。


 この過去作は『FAKE』と同様なアンチノミーを提示します。カメラの「眼前」で起こっている事実があります。例えば、清田益章は、監督が持参したスプーンを首(最も細い部分)に全く手を触れずに切断します。この実演は僕自身も清田益章のそばで目撃しました。


 カメラには次第に亀裂が入る過程などが、確かに映っている。取材過程を通じて森は(≒観客は)清田や秋山眞人や堤裕司ら「エスパー」たちが嘘をついていないことを、確信する。しかし森(≒観客)は経験的にも理性的も「そうした事態」はあり得ないと、確信し続ける。


 これらは両立しない。しかしどれも確かだ。観客は、超能力の在不在が主題なのでなく、<世界>はそもそも「そう」だという寓意が主題なのだという事実に気付きます。超能力をどう考えるべきかという主体subjectの問題ではなく、対象objectとは何かを語る作品です。


 そこではパーソンや社会などのシステム(主体)による構成(構築)はもはや問題ではない。因みに「ドキュメンタリーは全てヤラセ」というのは構築主義的主題で、問題を主体subjectに帰属しますが、森監督は『職業欄はエスパー』で既に<世界>を問題にしていたのです。


 『FAKE』も同じです。『A』や『A2』はシステム批判や制度批判のモチーフで解釈できましたが、『職業欄はエスパー』と『FAKE』はそうではありません。『FAKE』で既に語られてきた批評的な言説はそれを見逃します。ラカン=ルーマン的な教養が必要です。


■ソクラテス的な<遅れ>が帰結する批判


 と言いましたが、嘘です。森監督はそうした教養を前提に<世界体験>を得ている訳じゃない。では、森監督の「両立しない複数の確信を、両立しないままに維持し続ける」という<世界体験>の構えは何に由来するのか。問題が再び主体subjectへと投げ返されるのです。


 それが第5パラグラフの《森達也はこの言語システムの作動クロックに同期できず、いつも反応が遅れる未熟児だ。だから社会批判の能動性より、社会という夢にシンクロできない受動性が際立つ》に関連します。僕は数十年来<遅れ>の問題として扱ってきました。


 クロック云々はそれを指し示す言葉です。私は森達也監督と鈴木邦男氏に同様な<遅れ>を見出します。<遅れ>をパラフレーズすれば「ソクラテス的な無知」。大抵のアテネ市民は「知らないことを知らない」のが、ソクラテスだけ「知らないことを知っている」のでした。


 「ソクラテスの弁明」「テアイテトス」が示す様にソクラテスにとって「自分には分からない」というのは受動的<体験>ですが、彼に「自分には分からない」との表明を突き付けられて市民らがフリーズした瞬間、ソクラテスの無知表明が、批判の能動的<行為>になります。


 鈴木氏と森監督の共通性は、普段の会話から、仕事としての文章や映像に至るまで「自分には分かりません」という表明が充ちること。彼らを前にした僕は、「自分は分かっている」と思う自分が「知らないことを知らない」存在である事実を突き付けられ、恥じ入ります。


 二人には深い教養がありますが、そうした教養(ラカン=ルーマン的な教養!)によって批判の能動的な<行為>を完遂している訳じゃない。そうじゃなく、むしろ言語的に構築されたシステムに同期できず<遅れ>る<体験>自体が批判の<行為>を構成するのです。


 アテネ市民同様、我々も多くの場合、先に挙げた3つの確かさが構成するアンチノミーに耐えきれず、確かさのどれかを抑圧して認知的整合化を達成します。フロイトに従えば、これは自我(自己イメージが/を可能にする作動)のホメオスタシス=防衛機制に因ります。


■法や自我の言語的働きで馴致される


 <遅れ>の<体験>を媒介にしたソクラテス的<行為>によって我々はどんな批判を<体験>するか。それが第6パラグラフです。《その(=社会の夢にシンクロできない森監督の受動性の)結果、「知らないうちに自分たちはプログラムされている」との感覚がせせり出す》。


 先に、本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて社会や愛が可能だと勘違いさせられている、と言いました。「何かが働いて」と言いましたが、働くものの一つが自我のホメオスタシス=防衛機制です。その結果我々は、二元論的に構成された社会という夢を見ます。


 第6パラグラフ後段は《本能が未発達なまま生誕するヒトは、実は誰もが外傷的にプログラミングされる他ない》。フロイトによると本能にはエネルギーとプログラムがあるけど、ヒトは生理的早産なので、エネルギーだけでプログラムを欠いた欲動(衝動)があります。


 本能の生得的プログラムの欠如を、インストールされた習得的プログラムが埋め合わせた結果、欲動の多くは欲望によって上書きされます。但し、上書きし切れなかった欲動と、法や規範の習得と引替えに膨張する超自我(闇の法!)に由来する侵犯の欲動が、残ります。


 欲動と違い欲望は、社会システムの秩序(法)やパーソンシステムの防衛機制(自我)によって、言語(シンボル)を用いて馴致されているので、比較的<バランス>を取り易い無害な快楽と結びつきます。他方の欲動は、法と自我の裏側にある<過剰>な享楽と結びつきます。


 主体は、法と自我の言語的機制を通じて、欲動driveから欲望desireへ、享楽jouissance (オーガズムの到来)から快楽pleasureへと、外傷的に抑圧・加工されます。まさに《本能が未発達なまま生誕するヒトは、実は誰もが外傷的にプログラミングされる他ない》のです。


 こうした外傷的な加工によってインストールされた、ヒトが人畜無害に生きるためのプロトコルが、真/偽、善/悪、美/醜などといった言語的二項図式です。社会システムの秩序(法)もパーソンシステムの防衛機制(自我)もこうした二項図式なくしては働きません。


 その結果、言語が構成する社会システムとパーソンシステムを生きる他ない我々は、少しも自明ではない真善美などに関する二項図式の働きのせいでデタラメを免れられません。佐村河内氏を騙すフジテレビや最初に記事を書いた神山典士氏が悪の起点ではないのです。


■主知主義的な本質疎外論・対・主意主義的な受苦的疎外論


 要は、ヒトが社会を生きること自体がそもそもデタラメを生きることだということです。今回の作品はそのことを忘れるなという含意を持つ寓話──<世界>は確かにそうなっている──です。ところが我々はそのことを忘れる気休めについつい淫してしまいがちです。


 それを踏まえると、森達也監督の表現はそもそも2段階になっています。(1)<世界>はそもそもデタラメであることを忘れるなという寓話告知の段階。(2)寓話に反してヒトを気休めの俗情(多くは超自我的な欲動)に関わる釣りで翻弄するマスコミを批判する段階。


 森監督の作品はそれに応じて2系列に分かれます。『職業欄はエスパー』『FAKE』の寓話系列と、『A』『A2』の批判系列です。前者を踏まえて後者があるという論理関係です。だから観客が敏感であれば批判系列をも寓話系列として享受することができます。


 その意味で主軸は飽くまで「<世界>はそもそもデタラメであり、<社会>とは所詮その程度のものだ」とする寓話性にあります。単なる個別メディア批判を超えた寓話性ゆえに僕は過去二十年、<遅れ>をキーワードに森達也監督の表現を全面的に支援してきました。


 森作品が総じて、メディア批判の枠を超えた、<世界>はそもそもデタラメであることの告知であることを、ご理解いただきました。とすれば、しかし、それは何を批判しているのでしょうか。我々をどう批判しているのでしょうか。それが最終パラグラフです。


 最終パラグラフは《本作は、我々が社会を生き始めるに際して受け取った外傷体験を強制的に思い出させる。そう、社会は間違いなく、善悪や真偽や美醜の二元論で言語的に構成された悪夢なのだ》とあります。正しい社会と間違った社会があるのではないということ。


 ハイデガーを想起させます。彼によれば「ヒトは概念言語を用いる理性的な存在だから、どんな<ここ>にも<ここではないどこか>を対置してしまう」存在です。その<ここではないどこか>も<ここ>にもたらされた途端、ヒトは<ここではないどこか>を夢想します。


 これが「脱自」です。ハイデガーの言葉では<ここ>が非本来性で<ここではないどこか>が本来性ですが、ヒトは「脱自」するので本来性に行き着けないということです。換言すれば、ヒトはいつも別様であり得る可能性=<ここではないどこか>から、疎外された存在です。


 これを<受苦的疎外論>と呼びます。これはヒトに回復されるべき本質を想定する<本質疎外論>に対立します。<受苦的疎外論>はかかる本質の措定を拒絶します。マルクスが<本質疎外論>から<受苦的疎外論>にシフトしたとするのが廣松渉先生の有名な仮説です。


 <受苦的疎外論>は直ちに永久革命論を帰結しますが、<本質疎外論>と<受苦的疎外論>の対立は、歪みなき理想的自我の回復を目指す米国流自我心理学と、どんな自我も葛藤を覆い隠す拘束具だと見做すフロイト=ラカン流精神分析学との、対立として反復されます。


 冒頭に戻れば、[可能性の説話論=主知主義=本質疎外論=米国流自我心理学]という系列と、[不可能性の説話論=主意主義=受苦的疎外論=欧州流精神分析学]という系列が存在する訳です。ちなみに前者が左翼的なのに対し、後者は右翼的=新左翼的だと言えます。


 かくて、映画や小説などの表現から、思想や哲学、心理学や精神分析学まで含めて、巷間2つの対照的な系列が存在することが分かります。冒頭に述べた通り、昨今は久々に右翼的=新左翼的の表現・思想・学問の系列が浮上しています。その最先端が『FAKE』です。


■症状を手放さずに<なりすます>こと


 冒頭に『FAKE』では主体subjectではなく対象objectが焦点化されていると言いました。しかしそのことで主体の問題が逆照射されます。最後にそれに触れると、そこでは症状を手放さずに<なりすます>ことが奨励されています。そこに一連の映画の系列が浮上する。


 『殺されたミンジュ』(キム・ギドク監督/1月公開)の主人公もそうだし、『サウルの息子』(ネメシュ・ラースロー監督/1月公開)の主人公もそうですが、或る種の妄想性障害(パラノイア)と、その起点に位置する心的外傷(トラウマ)体験が、描かれています。


 『ミンジュ』の主人公は、自分たち数名の「組織」──実は単なる野合──が国家権力と戦争を構えていると思い込むという妄想性障害という他ない振る舞いをしますが、起点に、かつて妹が国家権力に惨殺されたという心的外傷体験が控え、全妄想を生産していました。


 『サウル』では、強制収容所で大量虐殺の後始末をする代わりに半年間の延命を得たユダヤ人主人公が、息子がガス送りにされ屍体が放置されたという心的外傷体験(の妄想性障害)を起点に、残りの人生を息子の弔いに充てるという妄想が主人公の全てを支配しました。


 これらの作品が奇妙なのは、かつての映画であれば、復讐を強く動機づける怒りや、弔いを強く動機づける悲しみを、説得的に描くことに腐心したはずなのに、それが一切なく、心的外傷体験(の妄想)を起点としてクソ社会を妄想的に生き抜く姿が、肯定的される点です。


 加えて奇妙なのは、かつての映画なら、クソ社会がクソたる所以を描き込んだのに、それもないことです。『ミンジュ』は妹の惨殺という一点だけを、『サウル』は屍体の山という一点だけを描き、双方とも文脈や背景や国家組織の在り方を少しも描き出さないのです。


 これを、観客が既に持つ背景知識を当てにして、説明的描写を回避し、観客の想像に委ねたのだ、と解釈する向きもあり得ます。僕は全くそう思えません。文脈や背景や国家組織を描けば、社会がクソである原因を言挙げしたことになりますが、それを回避したのです。


 社会は本来輝かしいものであり得るのに、悪として名指し得る原因があって、そのせいでクソになっているというのではない。社会は社会であるだけでそもそもクソなのである。その意味で「クソ社会」なのではなく<クソ社会>なのだ──そんな演出が施されています。


 その結果、異常なことに、心的外傷体験(の妄想)を起点とした妄想性障害に覆われた人生がむしろ福音として肯定されるのです。むろん精神分析家が考えるように社会成員は誰もが妄想性障害──<世界>が<世界体験>へと加工された変性意識状態──を被っています。


 とすれば、そこでは、通常肯定される妄想とは、別の妄想を生きることが推奨されていることになる。推奨されて生きるということは、敢えて選ぶということです。敢えて選んだ、周囲から肯定されない妄想に住み、周囲をやりすごすべく普通人に<なりすます>人生⋯⋯。


 『ミンジュ』『サウル』の主人公らの妄想性障害の症状が見られるのに似て、森監督には<遅れ>──認知障害──の症状が見られます。そのせいで<クソ社会>に同期できない森監督は、そこから疎外された者=佐村河内氏に愛着する。『A』で言えばオウムの荒木浩氏です。


 その上で森監督は、佐村河内氏や荒木浩氏や、『職業欄はエスパー』に登場するエスパーたちの、妄想──中立的に言えばファンタスム(幻想)──に関心を寄せます。そこではやはり、通常肯定される妄想とは、別の妄想を生きることが、間接的ながら推奨されています。


 後半では、可能性と障害の説話論から、不可能性と<なりすまし>の説話論へ、という話の続きで、マシュー・ハイネマン監督『カルテル・ランド』を、後者の例としてアンドリュー・ヘイ監督『さざなみ』、ギャスパー・ノエ監督『LOVE【3D】』を一挙に扱います。(宮台真司)