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荻野洋一の『シビル・ウォー』評:スーパーヒーローたちの華麗なる饗宴の影にあるもの

2016年05月04日 11:41  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 Marvel.

 『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』は、アメコミヒーローの内輪揉めを描いている。たくさんのアメコミヒーローがたがいに対立し、すさまじい喧嘩を繰り広げ、そのバトルアクションは質量ともに私たち観客の五感を圧倒してやまない。しかもバトルアクションがたっぷりと盛られているとはいっても、たとえば『トランスフォーマー』シリーズ近作のように粗雑なシナリオと構成の上で派手なバトルアクションばかりがひたすら持続するというのではなく、熟考された構想のもとに展開され、その点で見応えがまったく違う。


参考:スパイダーマンがアクションシーンで余裕のおしゃべり?


 映画の最初で、アフリカの都市に出動したアベンジャーズのメンバーは、戦いの最中に一般人を巻き込んで大勢の犠牲者を出す、という大失態を演じてしまう。「アベンジャーズはいったいどんな権限があって、あのような暴挙を繰り返すのか?」と、国際世論は厳しさを増した。彼らを国連の監視下におき、国連の許可なく行動を取れなくする「ソコヴィア協定」が議論される。そして、「ソコヴィア協定」に賛成するアイアンマン(ロバート・ダウニー・Jr.)やブラック・ウィドウ(スカーレット・ヨハンソン)側と、調印を拒否するキャプテン・アメリカ(クリス・エヴァンス)側が対立することになる。


 この対立構図は、本作に先駆けて公開された『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』に相通じるものがある。スーパーマンのパワーが強大すぎて、彼が悪者を倒してくれるのはいいとして、戦いの際に生じる人的・物的被害が甚大で困るというのである。これと同じことを、アベンジャーズも突きつけられた格好だ。まるで20世紀以降「世界の警察」をみずから任じ、圧倒的な兵力で他国への軍事介入を繰り返し、世界中で恨みを買っているアメリカ合衆国そのものではないか。


 世界はスーパーヒーローに、つまりアメリカの正義の押しつけに「首輪」をはめたがっている。アイアンマンは、正義の体現にもう限界がきたと見切ってしまった。前作『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(2015)における自身のウルトロン計画が最悪の結果を招いたことが、彼の現状認識をペシミスティックなものにしている。これに対してキャプテン・アメリカは、従来どおりの自由な意志と責任感に基づく正義の行使を、(いささか悲愴なほどに)信奉している。


 これはもうどちらが正しいとか、間違っているとかではない。たがいの正義観念の違いであり、果ては生き方の違いである。この映画が悲劇的なのは、彼らのような正義漢たちであってすら、平和的解決を前提とするネゴシエーションが不十分なまま、実力行使に直結してしまう、という事態ゆえである。その先にはシビル・ウォー、つまり内戦しかない。スーパーヒーローが楽天的に正義の味方たりえた時代の決定的な終焉を、本作はのっぴきならぬ緊張感と共に描き出した。アイアンマン軍vsキャプテン・アメリカ軍の内戦には、これまでアベンジャーズのメンバーではなかったスパイダーマン(トム・ホランド)、アントマン(ポール・ラッド)といった新メンバーも参戦し、花を添える。バトルアクションの華やかさ、バリエーションの豊かさ、そして少しだけユーモアーー本作はスーパーヘヴィ級の極上エンターテインメントでありつつ、ヒーローたちがおのおの抱えこんでいく憂愁が、いかんともしがたく映画全体をブルー・トーンに染め上げていく。


 それにしても本作でタイトルロールを任されたキャプテン・アメリカは、なぜここまで執拗に「首輪」を拒み続けるのだろうか? その真情はアイアンマンたちからも理解してもらえなかった。彼の決心の固さは、彼自身の出自と関係がある、と筆者は考える。元々キャプテン・アメリカはその名前からもみても、また星条旗をあしらったユニフォームと楯からみても、多分に愛国的なキャラクターとして創作されたに違いあるまい。


 「キネマ旬報」誌5月下旬号における、アメコミに詳しい翻訳家・石川裕人さんの発言(同誌48ページ)が勉強になるので、ここに引用させていただく。「映画会社に代表されるように、アメリカのメディアにはユダヤ系が多いですが、マーベルもユダヤ系が作った会社で、ナチへの反感が特に強かった。キャプテン・アメリカの初登場は1941年春で、まだアメリカは第二次大戦に参加していないんですが、いきなり表紙でヒトラーを殴っている(笑)。じつに愛国的なキャラクターで、それで大戦中は人気を博したんですが、戦争が終わって敵がいなくなると人気がなくなってしまったんです。その後、朝鮮戦争やマッカーシズムの時代に、共産主義者を敵役に復活したんですが、それもすぐに終わってしまう」


 石川裕人さんの説明から分かるように、キャプテン・アメリカの経歴は決して楽天的に正義を謳歌し得たものではなく、時の権力に振り回され、迎合しながらの活動を強いられたようである。特に興味深いのが、マッカーシズム、つまり赤狩りの時代への関与である。ご存じのように、1940年代後半から1950年代にかけて、冷戦時代のアメリカに吹き荒れた赤狩りは、アメリカの映画人たちをことごとくブラックリストに載せ、弾圧を加え、活動機会を奪っていった。失職と抹殺を恐れた映画人たちは、左翼思想にかぶれた(経歴のある、あるいはその疑いのある)友人や現場の同僚の名前を10名、当局に教えなければならなかった。そしてその10名もワシントンに召喚され、それぞれまた10名の友人を名指ししなければならない。こうしてハリウッドからチャップリンやブレヒト、ジョセフ・ロージーなど、数多くの映画人が追放された。若手スターのジョン・ガーフィールドのように、死に追いこまれる者もいた。アメリカ人は友を恐れ、隣人を恐れるようになった。これは、アメリカ国民が建国以来持ち続けた、勇気ある理念《祖国を裏切るか友を裏切るか、二者択一を迫られた場合、迷うことなく祖国を裏切る》というテーゼそのものが、精神の内側から崩壊させられたことを示している。


 シドニー・ポラック監督『追憶』(1973)、アーウィン・ウィンクラー監督『真実の瞬間』(1991)、ジョージ・クルーニー監督・主演『グッドナイト&グッドラック』(2005)など、赤狩りによる苦悩や抵抗を描いた作品が、ほそぼそとではあるがハリウッドでも製作されてきた。今夏には、『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(2015)が日本公開される予定である。赤狩りで追放されたあと、本名を隠して『ローマの休日』のシナリオを書き上げたダルトン・トランボの苦闘と名誉回復を描いた作品であり、西部劇スターのジョン・ウェインらが赤狩りを推進する側として登場するそうで、その点で興味が尽きない。


 しかし、そうした直接的に赤狩りを扱った作品ではないにしろ、アメリカ映画の歴史で少なからぬ作品群が、その影を引きずっている。この『キャプテン・アメリカ』シリーズも、そのひとつとして捉えることはできないだろうか。しかし、上記の作品群は赤狩りの被害者や、当局の弾圧に抵抗した人々を描き、見る側に共感をもたらすことをめざしているけれども、キャプテン・アメリカの場合、人気回復の一時的な方策だったとはいえ、赤狩りの当事者として活躍してしまった暗い過去がある。


 今回の『シビル・ウォー』において、キャプテン・アメリカが国連の「ソコヴィア協定」に従おうとしないのはそこなのだと思う。彼は時の趨勢が押しつける正義がいかに疑わしく、移ろいやすく、危ういものであるかを、1941年アメコミ誌上での初登場以来、身に染みて経験してきたのだ。もう彼は他人が押しつける価値観や正義に振り回されることなく、みずからの信念を貫いて行動したいのだと思う。たしかに映画冒頭のアフリカでの作戦では、一般人の犠牲者を出してしまい、国際的非難を浴びたが、だからといって、彼には譲歩するという選択肢はもうないのである。それほどまでに、赤狩りの傷は彼を今なお、苛んでいるのだろう。


 そうでなければ、テロリストの嫌疑をかけられたウィンター・ソルジャー(セバスチャン・スタン)を、なぜあれほどまでに親身にかばい続け、彼の逃亡を援助し続けるのか、説明がつかないではないか。ウィンター・ソルジャーが前作と今作の両方において悪役となる理由は、彼が旧ソビエト連邦の暗殺者として洗脳された存在であるためである。しかし、そんな事情を真剣に受け止めているのは、悲しいかな、キャプテン・アメリカと、私たち観客だけである。他に、ウィンター・ソルジャーに情状酌量の余地があると考えているのは、おそらくウィンター・ソルジャー本人も含めて誰もいないのである。


 この孤立無援なテロリストを、昔なじみの親友だからという一点の理由において、キャプテン・アメリカは擁護し、逃亡を助け、さらにはみずから国際指名手配を甘んじて受け入れる。昔の友情に殉じるというこの悲愴なまでの覚悟を、私たち観客は本気で受け止めねばなるまい。それはキャプテン・アメリカが過去につくった内なる傷痕、悔恨に対するみずからの名誉回復の試みなのだ。


 《祖国を裏切るか友を裏切るか、二者択一を迫られた場合、迷うことなく祖国を裏切る》という建国当初のアメリカの理念を回復する。そのために彼は、現在の盟友たるアイアンマンを敵にまわすことを選び、国際指名手配の犯罪者という汚名を着た。


 スーパーヒーローたちの華麗なる饗宴の影に、ひとりの英雄の、にがい、あまりにもにがい認識が隠されている。ヒーローが楽天的に悪者をバン、バンと撃って倒してハッピーエンドーーそれがアメリカ映画というものの、いつまでも若々しさを失わない魅力ではある。しかし、夢を抱いて都会に出てきた若者が、にがさを噛みしめて、あっという間に老成していく様を、私たちは幾度となく見てきたではないか。それもアメリカ映画のもうひとつの姿である。中東をはじめ世界情勢が反映しているのかはともかく、今、スーパーヒーロー映画は、正義をめぐる理念が動揺し、ある老成を余儀なくされている。『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』はそうした過渡期に生まれた、歴史的な作品だと言える。この内戦の向こう側に、いったいどんな風景が広がりうるのか。シリーズの今後を注視ながら、見極めていけたらと思う。(荻野洋一)