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森直人の『レヴェナント:蘇えりし者』評:イニャリトゥ監督による、ハリウッド大作への真っ向勝負

2016年04月30日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『レヴェナント:蘇えりし者』(c)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation. All Rights Reserved.

 お話はシンプルな復讐劇だ。仕掛けも簡素。しかし熱量はメガトン級で、ボリュームたっぷりの映画体験を提供してくれる。19世紀の雪に覆われたアメリカ西部を舞台に、実在のハンターがモデルとなった主人公ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)が残虐な隊員仲間(トム・ハーディ)への復讐を決意。極寒の未開地で、怒りと執念に憑かれた男の魂が煮えたぎり、作品全体から凶暴で凄まじいエネルギーが放射される。


参考:坂本龍一が語る、映画『レヴェナント』の本質 「“自然の視点”こそが本当のテーマ」


 監督はアレハンドロ・G・イニャリトゥ。メキシコ出身の彼はデビュー作の『アモーレス・ペロス』(00年)から『21グラム』(03年)『バベル』(06年)『BIUTIFUL』(10年)までは、市井の人々の皮肉な運命を見据えた重厚なヒューマンドラマのスタイルを取っていた。


 しかしアカデミー賞作品賞・監督賞などに輝いた第5作『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(14年)で作風を一変させる。SF映画『ゼロ・グラビティ』(13年/監督:アルフォンソ・キュアロン)で見事な宇宙空間を創出した撮影監督、エマニュエル・ルベツキ(やはりメキシコ出身)とタッグを組み、ブロードウェイの舞台裏を臨場感あふれるリアルタイム進行で、シュールな幻想性を交えながら手品か魔法のような全編ワンカットで見せた。要は「語り」から「体感」への転換を図ったのである。


 なぜ「体感」に旋回したのかは『バードマン』が自己言及的に語っている。あの作品の核心的な主題は「小さな映画」の危機感だ。映画業界のメインストリームから弾かれた落ち目の中年俳優(マイケル・キートン)の狂気じみた姿を通し、アメコミ原作のヒーロー物など、安易な商業主義に傾きがちなハリウッドの大作傾向を風刺した。一方でミニマムなドラマ=「語り」が、インターネットのコンパクトな視聴に移行している現状への焦りも随所に垣間見える。


 その認識を踏まえて大きくジャンプしたのが、今回の『レヴェナント:蘇えりし者』だろう。本作もロケーションが主体という点では本質的に「小さな映画」だ。しかしカナダやアルゼンチンの危険な高地に繰り出し、神秘的な原野が広がる中で肉弾戦のスペクタクルを展開。野蛮かつ崇高な大自然に包まれて刺激的な「体感」を実現した。つまり『バードマン』がカウンター的視座からの批評だとすると、『レヴェナント』はハリウッド大作への真っ向勝負だと言える。


 ルベツキは軽量なデジタルカメラの機動力を驚異的な技術で駆使し、知恵と本能で必死に生き抜こうとする主人公を躍動的に捉える。人工的な照明を使わず、自然光のみで撮影された映像はクリアで美しい。この「自然光のみで撮影」というスタイルは『ニュー・ワールド』(05年)以降、ルベツキが継続的に組んでいるテレンス・マリック監督の流儀でもある。イニャリトゥは貪欲にもマリックの手法を移植・吸収し、そのスピリチュアルな詩的世界を大切にしつつも、自らはアート・シネマ然とした形ではなく豪快なアクションへと振り切っている。


 結果、『レヴェナント』で強烈に印象づけられるのは人間の原初的な活力だ。筆者が連想したのは、ドキュメンタリー映画の父とも呼ばれるロバート・フラハティ(1884~1951)の世界。特にカナダのイヌイット族の暮らしを記録した『極北の怪異(極北のナヌーク)』(22年)には近いものを感じる。


 実は「記録」と言いつつ、フラハティは生活の素描に演出を加え、今で言う「やらせ」を持ち込んでいたことはよく知られている。これは映画というものが、もともとドキュメンタリーとフィクションの境界線上を漂う「詐術」であることがよく判るエピソードだ。イニャリトゥは『レヴェナント』でこの「詐術」を確信犯的に利用しており、その端的な可視化がドキュメンタリー・タッチの画面に上塗りされたCGである。ディカプリオを襲う巨大な熊だったり、マジック・リアリズム風の風景描写だったり……。これらのトリッキーな映像処理もすべてフラハティ的な映画術の21世紀仕様――デジタル時代のアップデートだと筆者には思える。


 ポスト・プロダクションの仕事で言うと、誰の耳にも圧巻なのが坂本龍一のスコアだ。ミニマル・ミュージックのシンフォニー的展開とでも言うのか、凝りに凝りまくった多層的なサウンドスケープ。これは明らかに『バードマン』で、アントニオ・サンチェスの非常に快楽的で吸引力のある凄腕のドラミングを、そのまま映画のリズムに同期させてしまった成果の延長である。『レヴェナント』は3D作品ではないが、この「立体的な音響空間」はその「体感」に代わるものだ。


 ここで『バードマン』が提起した「小さな映画」の危機感というテーマに戻ろう。その問いを裏返すと、現在浮上しているのは「新しい劇場対応型の表現とは何か?」という模索である。その課題にまず応えたのが『アバター』(09年/監督:ジェームズ・キャメロン)が嚆矢となったデジタル3Dであり、これがリーマン・ショック以降のハリウッド業界のカンフル剤になった。3Dは「映画ならざるもの」だとする意見もあるが、単純明快な「見世物」の復権という意味では、むしろ映画の本来性――100年以上前の黎明期の志向にもう一度戻っているとも考えられる。


 実際、筆者がいま「新しい映画」だと思えるものは、すべて「初期映画」の貌を備えたものだ。前衛的とも呼べる手法でプリミティヴなパワーを発揮した『レヴェナント』がロバート・フラハティだとすると、『ゼロ・グラビティ』はジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(1902年)につながっている。ここにもう一本並べるとすれば、やはり『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15年/監督:ジョージ・ミラー)になるだろう(奇しくも『レヴェナント』とはトム・ハーディの出演が共通している)。あの大傑作がジョン・フォードの『駅馬車』(39年)を彷彿させることはたくさんの識者に指摘されたが、もちろんそのルーツにはリュミエール兄弟やエジソンの発明がある。そう、おそらく我々はいま21世紀の技術で更新された「二回目の映画史」に立ち会っているのだ。(森直人)